2017年10月14日

最高の季節

お盆が過ぎると小板最高の季節がやってくる。気温が20度をきり、爽やかな空気が、深入山の山頂から贈り物として下ってくる。まだ日中は夏を偲ばせる暑さなので、早朝の一時は小板の数少ない美点を再認識させるのだ。

お向かいのS君は大阪で大型トラックの運転手として働いた経験を持つ。その彼が生まれ故郷の小板に帰って30年近く、子供さん達は大阪で暮らす。その彼が季節の変わり目ごとに小板が最高ともらす、「空気がようての、水が美味しゅうての、景色がいい、おまけに地震がのうての、水害がない、日本で一番ええとこでの」とのたまう。私の記憶では38(さんぱち)の豪雪とルース台風という水害があったが、いずれも死者は出なかった。一度台風の通り道に当たって立木がなぎ倒されたことがあったが今考えると竜巻の通り道の様な被害だった。それ以外記憶に残るような災害が無いのだから、ま、住みやすいところなのだろう。

何回も繰り返すが私がこの地に帰ってきたのは昭和16年(1940年)、従って76年暮らさせて貰ったということになる。その間、見浦家にも、小板にも、戸河内町にも、いや日本国にも大変動があった。私の文章など、その表面をなでたに過ぎない。その軌跡をたどると辛かった事のほうが多くて思い出すのも苦しいが、平和な晩年を迎えているのだから幸せ、幸運と言えるのかも。

私は、人生は50/50の割合で幸運と不幸が与えられていると信じている。不幸だけの人も幸運だけの人も存在しないのだと。しかし、小板の自然、風景はS君の感慨と同じ最高だと思っている。そして私の人生も幸運の方が多かったと感じているから、トータルではいい人生だったと宣言が出来る。誰にとっても故郷は素晴らしい、そして素晴らしい思い出になるように努力をしなければならない、二度とない時間を過ごさせてもらったのだから。

今日も深入山は綺麗だ、臥龍山も見事だ、そして私の時間もまだ続いている。

2016.9.1 見浦哲弥


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お祭りと饅頭焼き

2012.10.28 今日はお宮の幟(のぼり)建て、例年村祭り(11月2日)の前の日曜日が、お宮の掃除と幟建ての日である。去年は神楽団の長老が死亡したとて、神楽の奉納は中止だったが、今年は神楽があるとて、少しは明るい雰囲気だった。もっとも舞子は5人、いずれも広島在住、小板居住は60歳あまりの人が1人という現状では、今年が最後か?例年見浦家が勤めていた饅頭焼きは、去年の神楽中止を機に、もう止めようと話し合っていたところに、神楽団からも正式に中止要請があった。80歳になった晴さんにも、子育て最中の亮子くんにも無理、一つの時代が終わった。

饅頭焼きが始まって、もう20年になるか。祭りにやってくる府中の孫たちを見て、晴さんが言い始めた。「昔は神楽の晩には夜店が出てたな」と。私も記憶がある、神殿の前の大杉の根元にテントをかけて、たった1軒、露天のおじさんがやってくる。三国のお祭りの露天には比べるべきはないが、子供達には胸躍る時間だった。それが日中戦争が激しくなった頃なくなった。

敗戦で戦場から復員してきた若者たちが結婚して、子供たちが生まれて小板に賑やかな時代がやってきた。お祭りには夜店がやってきて、地元の堀田商店も饅頭を焼き始めて、小さな鎮守の森も神楽の夜は賑やかだった。

ところが日本の繁栄に逆比例して若者が減り、住所を都会に移す家が出始めて子供たちが少なくなった。外来の夜店はとっくの昔に来なくなって、堀田商店の饅頭焼きも赤字続き、集落の子供は10人ばかり、太鼓の音は昔と同じでも、寂しい村祭りが当たり前になった。

ところが我が家の晴さんは少々発想が違う、夜店がなくて寂しいのなら自分たちでやればいいではないか、子供たちに自分たちが味わった、神楽の晩の夜店の楽しさをプレゼントすればいい、プレゼントは商売でないのだから、利益が出なくても運営する方法があるのでは。

実は彼女が「考えたんだがのー」と話し始めたら大変で、先ず反論が出来ない、華やかではないがポイントを突いていて、なるほどと賛成させられるからだ。
何しろ、集落のことから、農協の理事、農業委員、PTA、まで、あらゆるところに口を出す、正論と感じると無視はできず、解決策を模索して奔走するのは私、長い時間の彼女との生活はこれで何度も泣かされた、饅頭焼きもその一つだった。

そこで条件を付けた、子供たちが負担にならない値段にする、専用の道具は買わないで家庭用の器具で間に合わす、利益はでなくても材料代だけは確保する、その条件を守るのなら最初の資金を見浦家で負担する事に賛成する、もちろん人件費は無償奉仕ということで。

もともと金儲けが目的の発想ではない、年に一度のお祭を楽しみの子供たちに神楽だけでなく、もう一つの思い出を作ってやろうが発想の原点、幼かった自分の思い出と重ねての提案だから、家内も私の提案を受け入れた。

世の中には発想は良くても現実が伴わないことが多い。晴さんの饅頭焼きもプラン倒れにならないかとを心配したのだが、もともと田尻一番の根性屋さん、言い出して走り出したら逃げ出すことが出来ない性質、問題が起きるたびに懸命に対策を考える、圏外の私としては、その熱意を牧場に振り向けてと口まで出かかったが、反動が恐ろしい、ひたすら見守るだけ。が、子供たちが、孫が動き出した、小板の祭りに帰るのは饅頭を焼くためと目的まで変わって男どもを除く見浦婦人同盟のお祭り行事として定着した。おまけに味もいいと評判、儲けは出ないまでもお祭りの神楽と言えば見浦の饅頭焼き、子供たちも小遣いを固く握って神楽の晩をまつ。が、それなりの時間が経過して彼女も年老いて気力が無くなった。我が家の孫達が小板神楽を見ながら見浦饅頭を食べる、そんな時まで頑張るが、続かなくなった。そして遂に中止、翌年か翌々年には神楽を奉納しようにも舞子の動員が困難になった。そして100年余り続いた小板神楽団も解散、お祭りの夜の太鼓も途絶えた。

時は農村の過疎を通り越して無住の集落が出現する時代、一時とはいえ彼女の努力は小板の河内神社の神楽の最後に花を贈った事になった。

あれから、もう10年あまりも過ぎたか、秋の村祭りの日は数少ない住民が集まって境内や内陣の掃除をするだけ、落ち葉を焼きながら昔は賑やかだったがと思い出話に花が咲く、それが何時まで続くかは誰も知らない。
そして晴さんの饅頭焼きも思い出の彼方に消えてゆく。

2017.5.24 見浦哲弥

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2017年09月09日

あーしわかった

86歳も半ばを過ぎた。まだトラクターに乗り、2トンダンプの運転は出来るが、1日が終わると「あーしわかった(つらかった)」と溜息が出る。それなら働かなければいいではないかと、反論がありそうだが、古い機械でも動かなくなったら、即、スクラップ、人間である私はスクラップになって、ただひたすらに終焉を待つのは性分に合わない、動ける間は少しでも働いて不用品扱いにならないようにと自分に言い聞かせるのだ。

とは言え、寄る年波は確実に体力を落としてくる。おまけに記憶力も低下してトラクターのレバーの操作で一瞬迷うことが出始めた。友人だったF君は70代で田圃の中で立ち往生、どう操作すれば動くかを忘れたのだ。どう考えても思い出せず、お隣にトラクターが故障したと訴えた。調べてみたら操作を失念しただけで笑い話になったが、本人はそれを機に痴呆が進行し始めたのだから笑い事ではない。

私は当時の彼より10歳以上高齢、当然ボケ老人と言われても不思議はないが、2度とない人生であるから、1日も長く現役でいたいと努力している。

と独り言をつぶやきながら毎日を働いている。吾輩は人間だから失われてゆく能力を如何に補って補足して行くか、そのくらいの知恵はまだ健在だと自分に言い聞かせながら毎日を送っているのだ。從って毎日の仕事を100%までとは言わないが70%位はこなしていると自分に言い聞かせている。人はお世辞に「元気なのー」と言ってくれるが、これはあてにはならない。

が、自然は厳しくて無情である、そして確実に知力と体力を奪ってゆく。だから夕方には「しわかったのー」と自然の溜息が出る。そこで自分が普通の人間であることを再確認するんだ。

しかしながら意地っ張りで強情で自他共に認められてきた私である。足が痛くとも、疲れていても、対策を立てて頑張る、考えて見れば随分意地っ張りの生き様だった。その結果でもあるまいが見浦牛の評判は中々のもの、テレビで幻の見浦牛と評された、これは家族全員が長年頑張ってきたお陰、従って「疲れた」と言いながら最後まで頑張ることにしているのだ。

2017.7.15 見浦哲弥

posted by tetsu at 08:31| Comment(0) | 終末に向き合う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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