2018年04月06日

寿命

2015.9.16 今日はお隣部落のM さんのお葬式である。彼女は61歳、私の長女の同級生、孫達の幼稚園の先生だった。控えめで他人の世話をよくする評判の女性だった。耳長の私にも彼女への批判は聞いたことがなかった。ちなみに旦那さんは少々癖のある人で好悪評価はまちまちだった。お母さんは優しい人だったと記憶している。

人の寿命は予測できない。戦争中は若くして命を終えるのも特別のことは思わなかったが、平和になり寿命が延び始めて当然のように長生きの人が多くなった。が、平均寿命より20年も30年も短い死となれば、生きることの難しさを痛感する。

日本の現在の平均寿命は男性80歳、女性88歳であるが、平均寿命を越えて生きるのは大変なことなのだ。勿論、長寿は喜ばしいことなのだが、痴呆になったり、病に倒れて延命術での長生きは、長寿の範囲にはいれたくない。小板の現在の老人は、男性が私が84歳、K君が82歳、S君が80歳、幸いなことに3人とも何とか働きながら余生を送っている。ちなみに小板でも女性の方が長寿で、現在91歳と89歳が1人暮らし、さすがに日常の身の回りの生活が精一杯である。

昨年、70代の I さんが死亡して以来、小板では葬儀がない。壊滅寸前の集落にとっては最大の贈り物ではあるが寂しい限りである。従って集落の運営はまさに軽業、何とか集落の形を保ってはいるが、明日は神頼みしかない。一日も今のメンバーの寿命の長からんことを祈るばかりである。

しかし、寿命には波がある。小板でも60歳代の死亡が続いたことがある。Hさん、Fさん、Tさん、Sさん、Kさん、その後、Gさん、これは先日のS君との昔話、そんなこともあったねと。人間の寿命は理屈通りには行かない。80を越して元気でいられたら、それだけで幸せなのである。

最近は老人といえども、お寺参りが趣味の人が少なくなった。それよりデイサービスなどと称して介護施設に通うのが当たり前になった。長い労働の人生の終わりに、食事をして入浴をして雑談をして、若い人のサービスを受ける、厳しい人生を歩んだ人には夢の楽園らしい。我が小板でも、お寺参りは事故で死んだFさんが最後だった。時代の流れなのか、それとも宗教家の怠慢なのか、そして老人の目から輝きが消えたと思うのは私だけだろうか。

私の周りには動ける間は働こうという仲間がいる。年齢的には仕事から離れて悠々自適ができる老人たちだが、その中でもKさんはよく働く。御年は91歳、さすがに耳は聞こえないが畑に出て野菜を作る。まだまだ元気で時間は残っているように見える。80代でも家の中にこもりがちになられた人々は加齢の速度があがる。あれでは来年はと陰口が聞こえてくる。

ところで他人の噂話に興じている時ではない、自分のことである。会う人が口々に見浦さん元気ですね、とのたまう。私も人間、人並みに年は取っているのに理解をしてくれる人は少ない。最近は老化の本が気になって時々抜き読みをする。その中のテストに今日は何日ですかの問いがある。幸い孫達が学校へ行くので、土曜と日曜は間違えることはない、が、ウィークデイはなかなか難しい。何しろ受け持ちの肥育牛に餌をやったかどうかが記憶にないときは牛舎まで行って餌の食べ具合をみて判断する。ま、現在は考え事が集中する時に起きるだけだから我慢が出来るが、これが常時起きるようになると恐ろしい。ボケが進行して家族に迷惑をかける長生きだけはしたくないものである。

小板の長命のご婦人お2人が、最近老化が目立つようになった。懸命に散歩をし畑に出るなど、努力はされていたのだが、よる年波には勝てない。そんな現象を見ると自分の終焉も近いと感じるのだ。懸命に生きられた人生を見せていただいた私は、お二人の穏やかな終焉を願っている。

私の残り時間もあと僅かだが、さて人間見浦哲弥の最後はどんなドラマだろうか。さすがに、こればかりは予測が出来ない。

2015.10.8 見浦哲弥



posted by tetsu at 22:22| Comment(0) | 終末に向き合う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月25日

蒸気機関車

私は蒸気機関車が好きだ。テレビで蒸気機関車が登場する番組は見逃す事が出来ない。
この遠因は私の生まれた福井の記憶にあるらしい。小板の大畠に戸河内の上殿から手伝いに来ていた佐々木さんという小母さんがいた。弟の信弥さんが生まれたとき、身内同然だった小母さんに手伝いに来てもらったんだ。後年、小母さん曰く、「哲弥さんには参ったよ。少しでも時間があったら汽車を見に行こうと駄々をこねて」と。

福井の住所は駅の裏側にあった。ほんの少し歩くだけで福井駅の操車場につく。昔は大きな駅には必ずあった広い操車場、鉄道の進化で見られなくなったが、その風景は脳裏に焼きついている。
操車場の古枕木の柵にすがって何時間も汽車を見ていたんだとか。動輪4個だけの豆機関車が長い貨物列車から貨車を1両ずつ切り離して引いてゆく。その先にある小さな盛り上がりに押し上げると”トン”と坂の下りの方に押し出す。そこで貨車は自力で走り出すんだ。貨車のブレーキところには赤と青の小旗を持った操車係が何時の間にか乗っていて、旗を振り振り坂道を下るんだ。下った先にレールの切り替えのポイントがあって、行き先の貨物列車の後尾めがけて走る。連結の瞬間は赤旗が振られて「ガシャン」と大きな音がして完了。
その作業が面白くて、今度の貨車はどっちへ行くのかと懸命に眺めたものなんだ。

福井は裏日本、鉄道は北陸線、表日本の東海道線、山陽線と違って2級鉄道だった。従って1級線で勤めを果たした機関車が勢揃いで、コブの数、形、動輪の数、大きさ、デフェンダーのあるなし、先導車輪は、ないのから2軸まで、炭水車がある、なしなど、様々だった。だから福井の操車場は私の好奇心を満足させる絶好の教室だったんだ。

福井の見浦では夏休みになると父の故郷の小板に帰るのが恒例だった。広島から小板までの小さなバスは嫌いだったが、広島までの汽車の旅は楽しかった。2級路線とはいえ北陸本線は幹線、牽引する機関車は骨董品ではない。おまけに福井から敦賀に出るまでに今庄という山越しがあった。現在は北陸トンネルが貫通していて10分足らずで通過してゆくが、当時はスイッチバックで前進後退を繰り返しながら、その峠を越してゆく。あれから80年足らずで、このスイッチバックは数少なくなって、貴重な、その一つが当県の備北にある、孫には見せたいものの一つである。

北陸線は琵琶湖の北端、米原で東海道線に接続する。ここからは東海道線、大阪からは山陽線で、日本の新鋭の機関車を見放題。楽しかったな。大きな機関車が長い客車を引く、力強いし頼もしいのだが煤煙も凄くて風向きによっては、煤や石炭の微粉が窓から飛び込でくる。車窓の景色に夢中になってしがみついていると鼻の穴が真っ黒になってね。福井から帰るのには広島で必ず一泊するのだが、まず風呂、昔の汽車旅行でお風呂が欠かせないのは、この煤煙のおかげ。

昔は現在のようなトンネル掘削の技術がなかったから、長いトンネルは少なかったが、それでも鉄道の特性でトンネルは多かった。トンネルに入る前に必ず汽笛がなる。急いで窓を閉めないと車内が煤煙で一杯になる。昔の汽車旅行には現在と違った世界があったんだ。

広島の手前に西条という盆地がある。その間の瀬野川駅と八本松駅の間に急な坂道が続く。山陽線の新型機関車でも、この坂道には苦闘した。八本松からの下りは快調に走るものの、瀬野川駅からの登りは応援の機関車が後ろにつく。そして汽笛を合図に西条に向かって、前ひき、後押しで登ってゆくんだ。もっとも、これは敗戦から立ち直りはじめてからのこと。敗戦直後は機関車が1両であえぎながら辛うじて登ったんだ。何の用事でその汽車に乗車したかは記憶にないが、満員で客車のトイレに入れないので、飛び降りて線路わきで用を済まして、走って再び飛び乗れるほどのスピードだったと言えば理解をしてもらえるだろうか。

瀬野川駅には、そのために沢山の機関車がいたね。福井の機関区とは違って最新の蒸気機関車がね。世が世なら、そんな私はいっぱしの鉄道マニアになっていたと思うのだが。

日本が高度成長期に突入すると、蒸気機関車は見る見る姿を消して、公園の片隅にひっそりと残骸をとどめるだけになった。そして世の中は、ディーゼル機関車、電気機関車、高速電車とめまぐるしく進化をとげたんだ、そして現在は新幹線と高速道路が主役、私の昔話を聞いてくれる人はいなくなった。

でも、私に頭の中には機関車の汽笛と蒸気の音が鮮明に記憶されている。

テレビの画面に機関車がでると目が釘付けになる、私は85歳の鉄道マニアなんだ。

2015.9.15 見浦哲弥

posted by tetsu at 07:38| Comment(0) | 思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

猛暑

2015.8.1 梅雨があがったと言いながら続いた悪天候が晴れ上がって、遅れに遅れた草刈、ローリングが出来ると喜んだら今日は38度を越す猛暑、テレビも有線も熱射病で倒れる人続出と報じる。とはいえ草刈はやめる訳に行かず一日中トラクター作業。ところが貧乏牧場、キャビンつきのトラクターは皆無、従って冷房なる近代設備とは無縁だから、炎天下、作業帽が日差しをさえぎるだけ。連日、35度の高温がしては熱中症にならないよう老化した頭に鞭打って水を飲み塩分を取る。それでもこの高温はただ事でない。40度に達したところもあるというからと、自分を慰めるのだが、何処まで続く猛暑かなである。

8.11 天気予報では午後から雨で午前中に刈り倒した草の取入れをとの計画が朝から小雨、予定は狂ったが猛暑の終焉である。もっとも、ここ2-3日は夜半から朝までは気温の低下で凌ぎやすくはなっていたのだが、久方ぶりの雨は秋到来を告げている。考えてみれば時間が飛ぶように消えてゆく。何処まで続くと思った猛暑も一瞬だった。

小板は海抜780メートル、高冷地である。真夏の一時を過ぎれば朝晩は都会人が羨望の空気と気温の世界である。勿論、それを狙って別荘が増える。自然が満載の小板では様々な生き物がいる。大はツキノワ熊から猪、狐、狸、いたち、てん、鹿にいたるまで、野生動物に付き合うのは日常である。ただし、豊富だった小板川の魚や水棲動物は住み着いたサギ君の活躍で全滅に近いが、自然と対話するのには事かかない。

8.14 お天気が回復するが、回復すれば仕事が追いかけてくる。朝からトラクターで草刈、牛の予防注射をして、刈おきの草のレーキング。朝晩は涼しくとも日中は30何度、朝夕は過ごしやすいのだが、その温度差の大きさで疲労が蓄積する。それでも真夏は過ぎた。これからは真冬に直行するのみ。そして「早よう暖くう(ぬくう)ならんかのー」と、ぼやく寒い日がやってくる。こうして”年々歳々時相似たり、歳々年々人同じからず”を繰り返す。

真夏の猛暑になると母が亡くなった広島の夏を思い出す。私の育った福井も三国も、まして小板では想像も出来ない暑さだった。おまけに広島名物の夕凪と来る。昭和17年の日本では冷房などはデパートくらい、あとは扇風機があればご馳走と言う世界、団扇と風鈴にひたすら頼るその中で、癌で倒れた母を見送る、私にとって残酷な暑さだった。

小板は深入山と臥竜山との間にある、小さな高原である。最盛期には100人足らずの住民と20ヘクタールの水田があった。かの有名な38豪雪では4メートル近い積雪があった。しかし、夏は爽やかな風が谷間を吹き抜けるし、真夏でも朝夕は季節を忘れる涼しさだった。
が、地球温暖化の影響か、小板にも猛暑がやってくる。今年のように36度も越えると、そして連日ともなると、熱中症も他人事でなくなる。しかも、この時期は牧草の収穫で炎天下のトラクター作業が続く。そのせいか、新型のトラクターは運転席はキャビンで、エアコン、ステレオつきだが、貧乏牧場の年代物のトラクターは屋根もない。3時間も連続作業をしていると目が回ってくる。が、圃場の大きさや作業の都合では、そんなことも言っておれない、「えー、ままよ」と頑張る。勿論、水筒のお茶を飲みながらね。

とにかく小板も猛暑だった。が、幸いなことにお盆を過ぎると、又高冷地の気象が戻ってきた。毎朝の爽やかな空気は小板ならではである。

8.26 猛暑が過ぎて爽やかな空気がやってきて「エー季節やねー」となる。途端に晴天が続かない。御蔭で草刈の予定が狂って作業がうまく行かない。世の中は ”エーこと”と都合の悪い事がセットでやってくる。

2015.8.26 見浦哲弥

posted by tetsu at 07:33| Comment(0) | 中国山地の自然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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