2016年12月14日

愚弟賢兄

2015.8.21 中国新聞に中山畜産の近況を報じた記事があった。従業員632人、牧場が福山、笠岡、真庭の3箇所、直営の店舗が8箇所、年間売り上げが133億円、飼養頭数が8000頭、日本でも有数の巨大牧場であると。お隣の島根県にも同じ規模の松永牧場がある。見浦牧場のようなミニ牧場から見ればたいそうな大牧場である。

ところが創業者の中山伯男さんは私の兄弟子になる。確か私より10歳くらいの先輩のはず、当時油木の種畜場の場長だった榎野俊文先生の門下生。

和牛飼育に取り組んだのも殆ど同じ時期、教えを頂いたのも同じ先生、が、歩いた道は環境も考え方も天と地ほど違った、今日はその話をして見ましょうか。

榎野先生は中島先生の部下、その出会いは”中島健先生”で書いた。当時、油木の種畜場の場長先生だった。福山の奥にある種畜場には勉強のために何度も通ったんだ。油木町と戸河内町は県の西と東の端にある、広い広島県を横断するのは道路事情が良くなかったあの時代では、とんでもない距離だったんだ。
でも、まだ若かった私はカローラの中古車を駆って何度も訪問して教えを請うたんだ。

時は役牛だった和牛が肉用牛と変身を始めた時期、目標は一日増体量が700グラム前後の能力を海外並みの1.1キログラム以上に改良することと、1−3頭の飼育規模を10頭以上に拡大すること。そうしなければ生き残れないと、畜産の専門家が考え始めた時期、経済が拡大して外国貿易が盛んになれば、外国産牛肉の輸入の拡大で国内の肉牛生産は一敗地にまみえると、国も県も担当者は本気で考えたのだ。

そして広島県が考えたのが放牧一貫経営、親牛10頭を基本として育成牛、肥育牛など30頭を1セットとして飼育するシステム、繁殖と育成は放牧飼育、肥育牛は屋外のパドック牛舎、これが基本のシステムで油木の種畜場で試験飼育が始まったのだ。

規模は3セット、計90頭、牧草畑10ヘクタール、これを作業員2名で管理運営する、機械設備は20馬力の国産トラクターと作業機一式、試験期間2年で始まったんだ。その最高責任者が榎野俊文場長、私は熱心な民間人の弟子、記憶が消えたところもあるが、そのようなプロフィールだった。
勿論、何度も見学と学習に通ったのはいうまでもない。

同じ頃、榎野先生のところに牛のことで教えを請うた人がいた。確か福山近辺の人で40歳ぐらいではなかったか、学ぶにつけて自分の年齢では普通の方法で学習するには時間が足りない、現場で実習しなければとてもついては行けないと、屠場の見習助手になったと、先生が楽しそうに話してくれたものだ。ところで助手は屠場では最下級の職種、命のやり取りの職場だから極度の緊張の世界、ミスでもしようものなら年齢など人間扱いなど微塵もない、そんなところに40男が勉強すると飛び込んだのだからと、先生は話す、それが中山伯夫さん、現在は日本でも指折りの牧場に成長した中山牧場の社長さんなのだ。彼が榎野先生の民間の1番弟子で私が2番弟子。

ところが1番弟子は偉すぎた。彼は成功して日本でも有数の牧場主になったのに、私は50年余りも夢を追い続けても、いまだにゴールは遥か雲の彼方、人に誇るべき成果はまだない。ただ、榎野、中島先生の一貫経営の夢を日本でただ1人、追い続けている。両先生にあの世でこの報告したら喜ばれるだろうな、が、私の唯一つの成果なのだ。

遠い日、榎野先生の門を叩いた2人の青年、天と地ほど違った結末は愚弟賢兄の見本のようなもの、勿論、愚弟は私なのだが。

2016.1.29 見浦哲弥
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2012年07月18日

一貫経営のこだわり

今日2008.04.16 恒例の予防注射(気腫阻)がありました。家畜保健所から3人、家畜診療所から2人、いつもながら90頭あまりの注射はそれなりの大仕事です。
仕事が終わって雑談のときに気になることがありました。今日はその話、見浦牧場の和牛の放牧一貫経営の成り立ち、考え方について話してみようと思います。

私たちの経営は子牛の生産から肉牛の販売まで、端的に表現すれば、精液を買って、屠場に仕上がった肉牛を売る、(本当は消費者に直接生肉を販売したいのですが)それが現状のシステムです。
この基本は昭和40年から2年間、神石郡油木町にあった広島県立雪種畜場の多頭化放牧一貫経営試験がお手本です。
この試験は当時畜産界で大論争になった、和牛の将来についての、京都大学上坂教室と広島県農政部の中島部長以下広島県畜産技術陣との対立、それに関連して広島県が行った実証試験がそれです。

当時、広島県の多くの若者が、この多頭化試験の成果に夢をかけたのですが、45年の歳月は見浦牧場を残してその多くを戦線から離脱させました。

ですから、家畜保健所の職員の方が、この牧場の基本の考え方を興味深げに聞かれたので、45年前に何が広島県の和牛の世界に起きていたのか、それを解決しようと懸命に努力した広島県畜産技術陣があったこと、それに夢をかけた若者が数多く存在したこと、そんな事実を書き記す責任が見浦牧場にはある、そんな気がしたのです。

ここ芸北地区は和牛と呼ばれる黒牛については、広島県の後進地で、山県郡の牛は広島県で最低のランクに分類されていました。特に芸北地区の牛は島根和牛の血統の影響を受けて、ブランドが確立していた神石牛が基本の広島牛からは相手にされない雑駁(ざっぱく:雑然として統一がないこと)な牛の集まりでした。
でもその芸北地区から和牛飼育に農業の夢をかけた若者が数多く出たのは、昔から広大な山地を利用した夏山放牧の歴史があったからなのです。
小型耕運機が普及する以前の和牛は、春先の農繁期の活躍がすむと、各集落に付属していた大小の放牧場に放すのが慣わしでした。真夏のお盆前後は駄屋(牛舎)に収容して、刈り草を踏ませて堆肥つくりに励み、涼しくなるとまた放牧場に戻して稲刈り、秋じまいが済んで初雪が訪れるころ再び駄屋に連れ帰る、そんなパターンで牛を飼っていた経験から、新しい放牧形式の和牛経営は簡単に成功すると思い込んだ。しかしそこから長い試行錯誤と失敗の歴史が始まったのです。

今にして考えると失敗の原因は、役牛と肉牛との違いを完全に認識していなかった事だと思うのです。もちろん、技術者は問題点は捕らえていました。一日増体重を0.6キロから欧米の肉専用腫の1.2キロに近づける必要性を声を大にして叫んでいましたから。(現在は0.9から1.0キロぐらい)

当然のことながら、役牛は農耕作業のために存在し、子取りはおまけ、もちろん先進農家は繁殖と育成に努力と技術の積み上げをしていましたが、大部分の農家は博労(ばくろう:牛馬の売買・仲介を業とする人)のいうまま、技術も売買も彼らの思うがままでした。従って和牛飼育の利益も彼らの懐に直行、それでも農繁期に活躍して堆肥が取れて米が取れれば満足、それが大多数の農家でした。
それでも、「わしらー牛を飼うとった。牛は素人じゃない」と自負していましたから、役牛が肉牛に変わるという意味を理解していた農家はいなかった。そう思われても仕方がありませんでした。

役牛から肉牛に変化した和牛は、一年一産が目標、牛が鳴いた(発情)けー、種付(授精)をしたでは通らない世界、微妙な行動の変化からもその前兆を読み取り、適期授精をしなくては成績はあがりません。
私が「あの牛は明日発情するよ」というと、そんなことがどうしてお前にわかるのかとまず疑う、的中すると「ありゃーまぐれよ」と片付ける、そんな農民まで和牛で儲けると乗り出してきましてね。そんな受け手の事情は指導する側にまったく理解されていませんでした。要は官の指導に従えば儲かると。

肥育専門の農家は福山を中心として、温暖な瀬戸内海沿岸に集中していました。冬季の低温に晒される中国山地ではそれなりの新しい技術の開発と対策が必要でしたが、農家はえらい先生の言葉と教科書を丸呑みして、自分たちの創意工夫を積み上げる努力をしなかったのです。
そのころ、豊平町(現在の北広島町)で和牛界の神様、京都大学の上坂先生の講演がありました(現在でも神がかり的人物)、但馬牛の牛の飼い方が基本の飼育法と市場の評価の話で、これからの和牛はこの方法で金儲けを目指す、そんな話でした。会場を埋め尽くした農家はおいしい話に熱心に聞き入りました。熱気がありましたね。
その但馬牛を作り上げるために、兵庫の農家たちが長い年月、営々と努力を積み上げ、創意工夫で築き上げた歴史にはまったく関心を払わないで、高値で売れて金儲けができる、そこだけが頭に入った、そんな感じの講演会でした。
先生もサシの入った高級肉を作りさえすれば経営は安定すると話された。消費者の立場からすれば、安全なうまい牛肉をより買いやすい値段で生産し供給してほしい、そんな視点はありませんでしたね。

以来、日本の和牛はサシA5の霜降り高級肉を狙うのが主流で、残念ながら一般的な都市生活の皆さんにリーズナブルな価格で世界最高の食味の牛肉を供給する、そんなことを言う農民は和牛の世界から排除されてしまいました。

しかし、消費者の立場を見据えた見浦牧場の考え方は、一部のマスコミから高い評価を受けて何度か取材を受け記事になりました。時代を動かす力はなかったにせよ、犬山市の斉藤さんのように、この記事がきっかけで脱サラし消費者本位の肉屋を開業されて成功された人も出ました。ささやかな力になったかもしれませんが大勢に影響はありませんでした。

貴方もよくご存知のように、日本の農家は南北に3000キロメートル、高低差1000メートル以上の多様な農業環境におかれています。その中で農業を営んでいるのです。
その条件の中で、より安く、よりおいしく、より健康的な和牛肉を生産供給するためには、その地域、その牧場に適した牛を選抜し育て上げなければなりません。偏見かもしれませんが、工業的な飼い方で生産されるブロイラーと違って、牛は高い知能を持つ哺乳動物なのです。ですから物言わぬ彼らの気持ちを理解することが、最終の利益につながっていることを忘れてはいけないのです。

和牛には登録という仕組みがあります。明治の終わりに和牛の大型化を狙って外国の種雄牛を導入し、交配したのです。当時はまだ藩閥政府の名残が残っていた時代、各県がそれぞれの思いで種雄牛を導入したのだからたまりません。日本中に被毛が黒いだけが共通の多種多様な和牛が出来上がったのです。
大型化はしたものの、耐久力がない、野草が利用できない、環境への適応性が低い・・・様々な欠点が認められるようになったのです。

大正に入って、これではいけない、品種として統一性がないと和牛という品種がなくなる、と危機感を持った人たちが京都に和牛登録協会を設立、牛の戸籍簿、すなわち登録をしないと和牛とは認めないという制度の運用を始めました。
研究者が集まって、将来の和牛の理想像を設定、より近いものに高得点を与えて記録する和牛登録制度を作り上げました。
何代も高得点を得た牛の子供は高等登録、一般の牛は普通登録、遺伝的にレベルの低い牛は補助登録とランクがありましてね。(もっとも私はこの方面の知識は多くありませんから、正確を必要とされるときには登録協会に確認してください)登録牛の子供以外は登録できなくして、斉一性を目指したのです。
ちなみに貧乏な見浦牧場の牛は普通登録の最低レベルの牛ばかりでしたね。

子牛が生まれると最初に子牛登記をします。この登記には父親の確認のために精液証明書と授精作業をした獣医師や授精師の種付け証明書が要ります。そこで初めて子牛は和牛の仲間入りをするのです。この登記がないと子牛を売買することができない。
子牛が成長して16ヶ月になると24月齢までに登録検査を受けなければ和牛として登録してもらえない。現在では両親が登録牛でないと子供は和牛として認められないのだから、農家にとって大切な業務なのです。

さて、登録検査です。複数以上の検査官が体重、身長、胸囲、管幅(腰骨の幅)等々を計測、被毛、背線、舌、等々を目視で観察(外貌検査といいます)、理想像からどのくらい減点するかで点数を決めるのです。ところがその点数は決して私たちが求めている性能を現していない。
問題は農家の側にもありました。この登録検査ですが、子牛市場で子牛に値段がつくときに、母牛の登録点数が高いと競値も高い、その差が無視できないほど大きくて、検査のときに磨き上げるのは序の口で、子牛のうちから栄養過多にして太らす(人情として見栄えのいい牛は高めの得点になります)ところが子牛から太った子牛は肥育牛として本格的にえさをやると、途中から成長を止めて丸くなる、病気に弱い、等々マイナス点ばかりなのに、子牛生産農家と肥育牛農家との利害が一致しないため改善できない。
そこで同一経営内で子牛生産と肥育飼養を行って問題を解決しようとするのが一貫経営なのです。

ところが子牛生産は牛本来の生理を大切に健康に留意して育てる、肥育経営はその生理を最大限に利用して飼料をいかに効率的に牛肉に変えるかを追求する。それは相反する技術の集積なのです。ひとつの経営体の中で、二つの相反する技術を保有しなくてはいけない。見浦牧場では分業の形でそれぞれが分担をしているのですが、バランスをとるのが難しい。家族の中でも論争がありましてね。

新しい方式には解決しなければならない問題がこの他にも数多くありました。走り出した一貫経営もいつしか分業の世界になり子取り農家と肥育専業に分化しました。そして何千頭の巨大な肥育牧場と零細な子取り農家という形が出来上がったのです。
わが友人の中山牧場は2000頭あまりの大牧場と直接販売のお店を持つという形で大成功しましたが、見浦牧場はいまだに一貫経営という夢を追い続けています。牛肉生産という技術は消費者の牛肉に寄せる評価を子牛生産に反映させる、その繰り返しで発展してゆくと信じているからです。
幸い50年の時間が経過した現在、日本の各地で僅かながら一貫経営の声が聞こえるようになったのは嬉しい限りです。

しかし、この長い年月の間に私の不注意で数多くの牛たちの命が無駄に失われました。無知ということが生き物にどんなにむごい犠牲を要求することになるのかを畜産農家としては常に心に刻んでいかなければならないのです。
目を閉じれば、未熟ゆえに倒れた牛たちの顔が頭に浮かびます。人間が生きるために犠牲になるのが家畜の定めとは言え、最後の瞬間までは同じ生き物としての思いやりが農家には必要なのです。その姿勢で彼らと接することが新しい発見と知識をもたらし、経営の利益に結びつくのだと、私は信じています。

この文書を書き起こしてから、もう4年もコンピュータの中で眠っていました。ようやく文章に仕上げることができました。文節がつながらないところは老化ゆえとお許しください。

2012.3.6 見浦 哲弥



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2006年11月25日

パブロフの牛

 貴方は“パブロフの条件反射”という事はご存知でしょう。1936年 ロシアの生物学者パブロフ教授が発見した、動物の条件反射のことです。小学校3年のとき叔母が買ってくれた科学の本に紹介されていた記事で、なぜか記憶に深く残ったのです。
後年、和牛の一貫経営にのめりこんだ時、大きく役立った理論でした。今日はその話を書きたいと思うのです。

 昭和43年、小板の開拓が始まる時、開拓の希望者は、それぞれ、事業計画書を町の担当者に提出したのです。
何日かして、友人のF君が話に来ました。
「おい、見浦やー、Nがのー、お前が牛を165頭も飼う言ゆた、ゆうて笑いよったで。牧場へ1―2頭連れて行くのも、一仕事なのに160頭とは、馬鹿も休み休み言え、たわけた奴よのーと。それんだがのー、俺もどうやるんか聞きたいよ。ほんまに、どうやるんなら?」と。

 そこで条件反射を思い出したのです。犬で出来るのなら、牛で出来ないはずはない。N君は小板の中の私の反対派の大将でしたから、売り言葉に買い言葉で、思わず私はズバッと言いきったのです。
「これから見浦の牛はのー、訓練してのー、わしが“整列”ゆうて号令をかけると、一列に並んでの、右向けー右、前に進めと言うとの、並んでついて来るようにするけー、問題はないんよの。」
 それを聞いたF君が馬鹿にされたと思ったのか、いやもう怒った怒った。
「なんぼ、大畠(見浦の屋号)でも、そがぁな事が出来るわけがありゃぁせん。人を馬鹿にするのも、ほどほどにせー」
「そんなら出来たらどがぁすりゃー」「おー、そんときゃ、小板中を逆立ちをして歩いてやらー」と、喧嘩別れになりました。

 パブロフの犬を使った実験では、餌を与える時に必ずある音を聞かせたといいます。
私達もそうですが、食事の時は自然と口の中に唾が湧いてきます。動物も同じで餌を前にすると唾が湧く。それを確認する実験でした。パブロフ教授の予想どうり、ある期間繰り返すと、音を聞くだけで、唾が湧いてきたというのです。

 そこで、見浦牧場でも餌をやる時は音で合図することにしたのですが、その音が問題でした。ベルにするか、ホイッスルにするかと、音源を色々検討したのですが、物忘れの名人が揃っている見浦牧場で、牛を呼ぶときに特定の器具を必ず持って行く事は不可能との結論で、自前ののど、すなわち、「モォーン」と私が声を上げる事で決着したのです。但し、この方法は人が変わると声質が変わるので牛が理解してくれないという欠点がありましたがね。

 さて、広言の手前、「あれは口からでまかせ、できなんだーや」、ではすまされません。毎日牛に餌をやる時は、独特の鳴き声で牛を呼ぶのですが、すぐ憶えて行動してくれる、そんな虫のいい話しはありませんでした。
 頼りはあの理学書にあった「繰り返す事で生物が反応する」という文章だけ。3ヶ月繰り返しても牛が応えてくれないときは、さすがに駄目かと諦めかけましたね。ただし、そこでへたばらないのが、たった一つの私の取り柄、泣きべそをかきながらも続けましたね。

 三月が過ぎてしばらく経ったある日、1頭の牛が私の声で頭を上げました。そして私の鳴き声を確かめたのです。何度目かの鳴き声に牛舎のほうに歩き始めた時は嬉しかった、本当に嬉しかったですね。 牛舎に帰った牛は、そこに餌がある事を確認すると、翌日も私の鳴き声を聞いて来てくれました。
 一つの山を越すと次が心配でした。一頭訓練するだけで3ヶ月、他の牛も訓練するとなると、また同じ苦労をしなければならない。この方式は再検討かと心配したのです。ところが、ボスの行動を見て真似をする牛が出始め、1ヵ月もしないうちに、群れ全体が同じ行動を取るようになったのです。教科書の何処にも記述されていない、牛の群飼育方式の発見でした。

 しかし、1度でも人間が違う行動を取ると彼らは混乱します。それを見て、人間も同じなのかと気付きました。約束したら必ず守る、それが信用なのだと。1度ぐらい大丈夫などと考えると、牛でも混乱する。まして人間はと。牛は真理を教えてくれる友達、彼らからも生き物のルールを学ぶべきだと。

 見浦牧場の信条「自然は教師、動物は友、私は学ぶ事で人間である」の「動物は友」の言葉が生まれた瞬間でした。

2006.8.9 見浦哲弥


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2005年12月10日

和牛の一貫経営で思うこと 〜見浦牧場の経営戦略〜

最近BSEの後遺症や飼育農家の高齢化で、和牛の飼育頭数が減りました。その影響があってか、牛価の高値どまりが続いています。そのせいで、なんぼで売れた、儲かったで、とか、どの雄牛の種を使ったら儲かるんなら、とそんな話ばかり耳にします。私が牛を始めた40年前とまったく同じです。この40年の間に日本も農村も天地がひっくり返るほど大変動があったというのに、考え方はまったく変わっていない、悲しいことです。

私が和牛に一生を費やすきっかけとなったのは、時の広島県の農政部長の中島建先生の「今の和牛は投機だ、これを産業にしなければ和牛は生き残れない」の言葉ですが、今も、そのまま、忠言として伝えたいと思っています。

よく、和牛だけでなく、日本の農村は崩壊した、再生しなければ、のかけ声は耳にはしますが、どう再建するのか、答えはだれも持っていない。それが現状のようです。

特に現場の農民が物事を根本から考えようとしない、さしあたって儲かったら、若い人も農業に帰ってくれるだろう、自動車を買ってやったら家を継いでくれるだろう、そんな甘い考えの仲間たちを見るのは、心が痛むことです。

見浦牧場では、問題に行き当たったら、できるだけ根本に近い考え方を模索します。たとえば、病気で熱が出たら、熱さましを飲むのではなく、何が原因なのかと、前日までの健康状態、食事、仕事、対人 等を考えるのです。その結果、病院にいくのか、薬を飲むのか決める。でも、そんなことは誰でも実行している。ですが、その考え方を、農業を考えるときも、牛と付き合うときも、経営を考えるときも、機械を修理するときも、経済を予測するときも、応用しているのです。

もちろん、素人ですから正確に予測し、判断することは出来ません。しかし、知識が足らないときは、先進地を歩き、先輩に指導を仰ぎ、読書をし、情報を検索する、そして、現象を繰り返し繰り返し観察する。模索の中から結論を引き出すのです。

しかし、それでもうまくいかない、試行錯誤の連続、壁に突き当たっても、あきらめない。当たり前のことですが、それが見浦牧場が生き残った一因だと考えています。

昭和38年から始まった和牛経営も、児高との協業が解消して、単独経営に復帰し本格的に畜産経営を始めたころ、広島県も新しい和牛経営の構築を検討していました。昭和41年ごろのことです。

当時は和牛はあたれば儲かるが、そうでなければ儲かるのは馬喰(ばくろう)さんだけ、が実情でしたから、利益を上げるにはコストを下げるか、特別の高値を狙うかの二者択一でした。もちろん、見浦牧場はコスト低減を第一の目標としました。何しろ、山県郡の牛は、広島県の最低ランクでしたから、高値を目指すなど考えられませんでした。

そのころ、前述の中島先生をはじめとする広島県の畜産技術陣は、和牛の将来像を、多頭化と放牧技術の導入、そして、子牛生産から肥育仕上げまでをひとつの経営の中で行う一貫経営でと提案していました。その実現化の実験として、油木の種畜場で多頭化試験が行われたのです。無畜舎、群飼育も取り入れて。これもコスト削減には重要な技術で、私は大賛成、多いに同感したのです。2年続いた試験が好成績に終了した後、この方式を県の方針として、芸北町の大規模草地開発(のちの畜産事業団)が採用したのです。

昭和41年、この地方を38(さんぱち)豪雪に劣らない大寒波が襲いました。降り続く雪の中で、マイナス10度以下の日が続いたのです。そして、最低気温はマイナス24.5度の低温を記録しました。無畜舎で越冬をしていた牛群には過酷な寒さでした。

見浦牧場はかろうじて間に合った小さな畜舎に牛がもぐりこんで難をさけ、畜舎に入れない牛は建物の影で吹雪をしのぎました。でも冬が終わってやっと命をつないだときは、見る影もないやせ衰えた牛ばかりになっていました。

しかし、建物がほとんどない、芸北町の事業団の牛は悲惨だったといいます。寒さと雪との闘いで体力を失った牛たちは、雪の中に座り込んで立てなかったと。降り続く雪に埋もれて、やがて息絶えた牛は、あくる朝、吹雪のやんだ雪面に角だけが並んでいたと聞きました。

ここから、見浦牧場と事業団の対応が違ったのです。事業団の人々は、この厳しい気象条件では、冬期の無畜舎飼育は難しい、と翌年から畜舎の建設が始まりました。ところが、見浦牧場には、畜舎建設の資金がありません。どうやってこの難問をクリアするか、考えて、考えて、考え抜きました。

そのとき、冬を越して弱りきった牛の弱り方に違いがあると気づいたのです。

牛は品種によって気候に対する耐性が違うと聞いていました。チベットの牛は寒さに強く、インドの牛は暑さに強いなど、もしかしたら、同じ品種の中でも気候への耐性が違うのではないか、それなら、選抜淘汰の繰り返しで、寒さに強い牛を作ればよいではないか。それが門外漢(私は電気工学が専攻で、電気事業主任技術者の資格の2種と3種をもっています)の強いところで、大胆に結論を出したのです。

そのころ、見浦牧場は、子牛生産もうまく機能していませんでした。当時は、授精技術の転機でして、人工授精法が普及し始め、各集落にいた県貸付の種雄牛が廃止になり、従前の方式だと、10キロ離れた八幡まで種付けにつれていかなければならなくなりました。ところが人工授精だと、技術の未熟もあってなかなか受胎しない。これも経営の死活問題でした。そこで、これも同じ発想で対応したのです。

人間でも、子沢山の家庭もあれば、子宝に恵まれない家庭もある。そして、子供の多い家庭は代々兄弟が多い。これは遺伝の力が大きいからだろうと。それなら同じ哺乳動物の牛も同じはず。これを選抜の条件にしよう。

ある会合で和牛の飼育技術の指導がありました。席上、かくあるべき、こうすべきとの話のあとで、私は自分の牧場の条件にあった牛をつくって、対応しようとおもうと申し上げました。ところが、指導の先生は、「そのような仕事は試験場やブリーダーのような専門家の仕事で、農民が個人でやるのは不可能だ」と断言されました。

頭にきましたね。何しろ最終学歴小学校卒の劣等感の塊の私ですから、「なに?素人にはできない?バカにするな!」と憤慨しました。

田舎ではどんなに良い意見でも、高い学歴がないと「いうだけなら誰でもできる」と一言で片付けられて、相手にしてもらえません。ところが目の前に結果を突きつけると、何も言わなくても認めてくれます。二十代のはじめ、肥料計算をして稲の多収穫裁判に成功したときは、一夜にして私に対する評価が変わりました。もっとも、あいつは何を考えているのかわからない、用心しなければ、という声も大きくなりましたが。

そこで、それなら、見浦牧場の牛を作って見せてやろうじゃないか、と心に決めました。なぜ、専門家でないと牛の改良が出来ないのか、選抜淘汰で難しいのは何なのか、考えましたね。ちょうどそのころ、長男の晴弥が九州大学の農学部に在学していましたので、彼に、なぜ専門家でないと選抜淘汰ができないのか、専門書で調べて、教授に確認してくれと頼みました。

そしてその答えは、牛の選抜淘汰は非常に長い時間が必要である。そして、選抜淘汰は、途中で要素の変更をすると、目的に到達することが難しい。そういう意味合いの答えが返ってきました。つまり、最初に何十年後の目標を正確に立てることが、素人には難しいということでした。

たとえば、和牛登録教会の評価基準の中に骨味という項目がありました。枝肉重の中の骨の重量が少ないほど、肉屋さんが喜ぶ、ということで作られた項目だったのですが、放牧飼育を始めたら、この項目の評価が高い牛は皆脱落してしまいました。骨の細い牛は、放牧のような運動量の多い飼育方法には耐えられなかったのですね。それで専門家の皆さんにお会いする度に、この点を指摘して、あなたはどのように和牛を改良したいのですか、骨が細くて、舎飼しかできないモヤシ牛が目標ではないでしょうね。と申し上げていたら、いつの間にかこの項目がなくなりました。

ことほど、長期の目標を立てるのは難しい。そういうことだったのです。ところが、私たちはこれが問題になるほど困難なことだとは理解できませんでした。

私たちの供給する商品は、サラリーマンの人たちがちょっと奮発すれば買って貰える、それぐらいの価格で、最高の旨い肉を提供する、それが最終目標でしたから。

家内の晴さんいわく、「一部の金持ちに食べてもらうために、人生をかけて牛肉をつくる、そんなバカらしいことはできない。」強い支えでしたね。

目標が決まっているのですから、あとは簡単。出来るだけコストが下がるような牛を作ればいいのですから。見浦牧場の環境で、健康であること、赤ちゃんをたくさん産んでくれること、肉屋さんが喜ぶサシはほどほどでよいこと、 など、選抜の指標を作ったのです。

1.寒さに強いこと(寒さに強い牛は晩秋になると綿毛が生えてくる)

2.放牧向きの体形であこと。(骨格がしっかりしていて、ある程度足が長いこと)

3.多産型であること(発情が発見しやすい、排卵時期が発情期間とずれない、分娩後発情再起日数が短いこと など)

4.哺育能力が高いこと

5.肉牛として早熟であること

6.肉質はA3以上であること

目標が決まれば、あとは生まれた子牛を結果で選別するだけ、雄は肥育牛として出荷して、成績がよければその母親を極力繁殖牛として長期利用する。雌の場合は、その生育状況、初産の種付け・分娩・子牛の哺育状況をその母親の成績とする。簡単なことです。

ただし、時間はかかります。雄の場合は24ヶ月から27ヶ月後、雌の場合は、最短でも26ヶ月後になります。(生まれた子牛の生育を見ますので)。ですから、あの母親は優秀とわかったときには、他の理由で淘汰されていることもあって、「しまった」ということもおきますが、長い年数を続ける間には、いつの間にか牛が変わっていくのです。

私は視点を変えさえすれば、凡人にも何十年先の目標を正確に立てることができると思います。目標が立てられれば、ただひたすらに目標に向かって歩き続けるだけ。

雪国で暮らす私たちは、新雪の中では目標を決めて歩かないと、まっすぐ歩けないことを知っています。

経営は目には見えません。それなのに、目標を持たない、金儲けだけが目標というのでは、経営が安定するのは夢物語です。

まして、農業の中でもっとも時間のかかる和牛の一貫経営で正確な目標を持たないということは、即不可能のレッテルをはることです。

私の友人で、小規模ながら一貫経営を目指した男がいました。彼いわく、「俺は六年も一生懸命牛を飼ったが、旨くいかなかった。」と。私は絶句しました。たった、6年では何も変わらない。それは、時間と資本の浪費だと。

でも彼のような農民は珍しくありません。見浦牧場に見学にこられた人の中に「もっと早よう儲かる話をしてくれー」と発言された方が何人かいました。それが農村の一面でした。

長い年月が過ぎました。そして、ここ、芸北地区の和牛農家は激減しました。でも失敗の本当の原因はなんだったのか、理解をした農民にはまだ出会っていません。

根本に帰って目標を持つ、少しづつでも独自の技術と実績を積み上げる。私はこれが和牛経営の基本だと思うのですが、依存として繁殖と肥育経営は分離されていますし、乳牛の仮腹のスモール肥育を一貫経営と称するにいたっては、和牛経営を産業にとの中島先生の夢とは、似ても似つかぬ形だと思っています。目標達成の一過程だとするのなら許されるとは思いますが、やはり、基本は忘れず追求していく、この姿勢は何よりも大切だと思うのです。私たち、見浦牧場は、これからもこの道を歩き続けます。

心あるかたがたの声援を期待しながら。
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2003年12月13日

商売の基本

見浦牧場と、芸北の事業団とがあれほどやってやりまくって、
とうとうこっちは残って、あっちはつやけて(注:つぶれて)しもうたけど、
あんなかに、なんでやろうねっていうのがどれほどあったかわからん。
そいだが、それは、一番基本的なことやねん。

「何を」作るんか、ということと、
「だれのために」作るんか、ということ、
それは、「何が」作るんか、いうことだけぇ。

ほいたら、それにおうた牛を作って、
肉屋のために作るんだったらサシをいれにゃぁいけんが、
そうじゃなくて、お客さんに作るんなら、
認められようが、認められまぁが、
おいしい肉を作りゃあえぇ、安全な肉を作りゃあえぇ。
それを認められるまで、何年かしらんが、もくもくとその間、積み上げて、積み上げて、積み上げて、積み上げて。

そいで、それを作るのは何や?
それを作るのは人間じゃのぉて牛なんや。

そうすると、牛をまずつくることが始まりや。
その牛の、なんでその京都の大学の先生のいうような牛をつくらにゃいけんのや、
神石の先生のいうような牛をつくらにゃいけんのや、
ここにおる牛をつくりゃあええんやん。

ここにおうて、格好がわるうても、ここでちゃんと子供を生んで、健康で、
人がどがぁ言おうが、そがぁなものは関係ないわぁや。

一番なのは、お客さんが喜んでくれて、
それを作るのは誰かゆうたら作る道具をちゃんとここに合うようにしてく。
そりゃ、商売の一番基本やん。

近頃よう、何であれだけにみんな、当時の本読んだりして、
京大の学士さんがいっっぱいきて、広島の技師屋さんがいっぱい来て、
なんであっちがつやけて、こっちが残ったんか。
資本も裂けるほどかけての。

そうすると、こりゃあ、金の大きさでもなしに、
人数の多さでもなしに、
一番大事なのは、何が一番ここに求められているかっちゅうことを
じーっと見抜くこと。それだけやなぁ、と。

2003.9.14 見浦哲弥談
posted by tetsu at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 和牛一貫経営への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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