2014年02月23日

達弥様

皆様、お元気のことと拝察しております。下って私ども何とか無事?(結構色々あります)で送日しておりますのでご安心ください。
先日は、立派な梨、お送りくださって有難うございます。一寸立派過ぎて気後れをしたかな。尻の町の上に2本あった梨の木を思い出します。大きいけれど甘くない木と、小さいけれど熟れ過ぎて腐る寸前が美味しかった小さい梨、よく兄弟で登ってゆすったなと、思い出して感傷に浸りました。今は土砂を掘り取って何処にあったかも想像がつきませんが、私にとって懐かしい思い出です。

私も82を越えてあと半年もしない中に83、貴方も81歳ですね。お互い長生きをしたものです。覚えておいででしょうが白いあごひげの祖父が数え年82でしたから、それを越えたと言うことになります。長い人生が終わりに近くなって、物忘れが多くなって、辛かったこと、悲しかったこと、楽しかったこと、皆消えようとしています。色々な事がありすぎた。
電話でお礼をと思ったのですが、思いきって手紙を書くことにしました。この次はないような気がして、駄文を我慢して読んでください。

達ちゃんも持っていると思いますが、私たちの最初の記録は福井の日之出下町の家の門先の写真です。二人とも上下が続いたシャツを着て写っていますね。あの写真は野村のてい叔母が持っていたローライレフで撮ったものです。確か現像も自分でしていたのではないかな。背景の壁は道を隔てた大きな紡績工場の壁ですが、騒音の記億がありませんでしたから縫製工場だったかもしれません。
それから母と兄弟3人で写った写真、あれは近所の写真館で撮った写真、母の顔が寂しそうだったのが気にかかります。貴方が持っていた象の玩具、誰が持つと取り合いになって、あれから貴方が重病になった。母の顔はそのせいだったかも?。

貴方が福井の赤十字病院に入院したのは私が小一のとき、長い入院だったのを記憶しています。父ちゃんも病室から学校に行った。退院の時、院長先生に「再発したら、今度は助からない」と宣言されたとか。谷口の伯父さんが内科の医師でしたから、勉強好きの父はその病気の知識は山ほど持っていたのでしょう。
それから、私と信弥さんと貴方では父の叱り方が違いました。80を越すまで元気で生きている貴方をみて一番喜んでいるのは父ちゃんかもしれませんね。

それから忘れられないのは、三国汐見の恵比寿?さんのお祭り。小学生の男の子がお神輿のお供をして三国の沖の海を一回りするのが行事でね。神様が海の神様だから仕方がないが河口から出るとゆれてね。貴方はお神酒の樽をしっかり持って番をしていた。ところが私の役は何だった全く覚えがない。

昭和16年4月16日?、小板に帰りました。母がサチ子を、親父がヒロ子ちゃんを背負ってオシロイ谷を登りました。晴れた日で暖かった。男の子三人は遠足気分でね。でも登りはきつかった。

大畠の家は牛が5-6頭も入るダヤが、人間と一つ屋根の下に入る大きな家で、10ワットの電灯が一つ。便所が怖くてね、サチ子ちゃんがこれだけは覚えていました。

祖父の弥三郎さんは80歳過ぎで真っ白で長い見事な口ひげのお爺さん、私たちのいたずらを「ホー、ホー」言いながら一度も叱ったことがありませんでした。昭和17年夏、母が死んで半年後になくなったときが数えで82歳、私は弥三郎爺さんの年を越えてしまったのです。

母といえば何時も思い出すのは最後の前日、貴方と信弥さんに鮎の塩焼きをほぐしながら食べさせていた姿です。そして「一生懸命生きてね」そんな言葉を聴いた気がします。隣の部屋で看病に来ていた上殿のおばさんが声を忍んで泣いていました。そして私の番「人の真心がわかる人間になれ、そして兄弟仲良く」と、生涯、心を離れない言葉でした。でも努力はしても出来なかったな。
翌朝、目覚めた時はカーちゃんは冷たくなっていました。臨終は夜中だったとか。優しい母でした。でも厳しさもありました。私も懸命に努力はしたのですが母の期待には添えなかった。
それから半年余りの冬、弥三郎爺様も亡くなりました。父と私たち子供5人の悲喜劇が始まりました。よく覚えているでしょう。辛かったが懐かしい、貴方には随分迷惑をかけたと冷や汗がでます。

最近は老化の進行が激しく記億がどんどん消えています。早く貴方に私の記憶を伝えなくてはとあせったのですが、気ばかりせいて中々書き出せませんでした。頂いた梨のお礼状を書かなければと思ったのがきっかけになりました。

立派な梨を有難うございました。そして昔を有難うございました。貴方と兄弟であったこと本当に幸せでした。どうか何時までもお元気で。老化の進行が遅ければ又思い出話を聞いて頂きたいと思っています。

2013.9.17 見浦哲弥

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2013年05月05日

山本夏子様

お葉書ありがとうございました。心和む挿絵つき、一足先の春到来の心地でした。
共済組合でお世話になったあのころから長い時間が経ちました。私も家内も80の坂をとうに越えて、過ぎ越しを振り返る時間が多くなりました。
まだ右も左もわからぬ若造のシャカリキの牧場経営、ずいぶん迷惑をおかけしたのではないかと反省しきりです。
特に貴方様には桧垣先生との確執でご心配を頂き、お詫びを申し上げないまま過ぎました。本当にすみませんでした。いつかはお話しようと思いながら機会を得ませんでした。今日はお葉書のお礼に便乗して、遅れた報告を書いてみようと思います。

あれは、去勢の肥育牛が3頭、続けて死亡した時のことです。症状は激しい下痢、桧垣先生が担当され治療されました。確か17−8ヶ月の大きな牛で、同じ症状でした。治療で議論したのを覚えています。この大きさでこの症状、原因の結論が出ないまま、活性炭入りの下痢止めを投与、即死亡ということになりました。確か2頭目だったと記憶していますが、「原因はわからないが埋葬してもいいよ」との連絡を受けました。そのとき私の技術者根性が憤激しました。実は私も技術者、もっとも電気工学ですが大田川にある中電の発電所の主任を勤められる第二種電気事業主任技術者、わからないからいいですよ、とは言ってはいけないと教えられた。わからないまでも自分の力の及ぶところまで追求する義務がある、そんな考えでしたから。
もちろん、人間ですから出来ないことはいっぱいありますがね、何かご不幸があったとか後で聞いた話ですが、そのときはその姿勢に憤慨したのです。思ったら即実行が見浦の悪いところ、埋めろというなら解体しても文句はないはず、と息子と二人で解体、下痢の症状だったのだからと肛門から直腸、小腸と調べていったのです。そして見つけました。飲ませた活性炭末が血液で固まって腸閉塞を起こしていました。それが数箇所あったと記憶しています。なぜ出血したのかと腸管の粘膜を調べると転々と穴が開いている。子牛のコクシジュームと同じ現象でした。そこで専門書を読み漁りました。いわく、5−6月齢までにコクシジュームに感染すると記載はありましたが、17−8月齢の牛が感染して死亡の例があるとはどの本にもありませんでした。あとで考えてみると見浦牧場にコクシが侵入した初期のころで、耐性を持っていない牛がいたのだとおもいます。抗生物質の多用で効き目が悪くなっていたので、サルファ剤の声も聞いた気がするのですが、コクシとはだれも気がつかなかった。桧垣先生を責める気はありませんでしたが、技術者ならわからないので開けてみるの一言がほしかった。当時、二人おられた獣医さんの中で彼の方の才能を買っていたものだから、警鐘を鳴らす意味で彼を拒絶したのです。そこを乗り越えると彼なりの成長が出来る、そんな生意気が私にあったのです。

実は、私が牧場を始めたころ、共済に山口からこられた同姓の桧垣先生がおられました。この先生にプロの厳しさを叩き込まれたのです。プロというのは仕事が出来る出来ない以前に、精神が大切なんだということを。
人工授精がうまくいかず、お願いをしたときのことです。牛飼いをはじめた動機を聞かれました。ゆくゆくは牧場で牛で食べてゆく、そんな返事をしたと記憶しています。
そこで先生が「直腸に手をいれたことがあるか」と聞かれたのです。忘れもしません。「私は獣医ではないので入れたことはありません」と答えたと記憶しています。とたんに先生が烈火のように怒られた。私はなんで叱られたのかわかりませんでした。「君は牛で食べてゆくといったではないか。それは牛のプロになるということではないのか。最初から出来ないと投げ出すようではプロにはなれない。さっきの言葉は口先だけか?」
思いもかけない叱責にしゅんとなった私に追い討ちがありました。「40日経つと妊娠鑑定ができる。そのとき君の本気度を測ってやる。勉強しとけ。」
負けず嫌いだけがとりえの私はそれから毎日牛の直腸検査をしました。そして微妙な変化を指先で読み取ろうとしたのです。約束の日が来ました。先生の前での直腸検査は緊張で指先に何時もの感覚がありませんでした。でも厳しい先生の顔を見ると逃げるわけには行きません。内心震えながら「右側の子宮角が腫れている感じです。これはプラスだと思います。」先生も手をいれられて、「本当にそう思うのだな」「はい」
何もおっしゃりませんでしたが、それからは農家の扱いではなく畜産の弟子として教えていただいたのです。
プロなら逃げてはいけない。先生は無言で教えてくださった。そして私も懸命になった。そんないきさつがあったのです。ですから若い桧垣先生の対応が我慢できなかった。いい素質を持ちながら逃げではないのか、ボイコットしてやる。
風の便りに貴方が心を痛めている話は聞こえてきました。でもこれだけは後に引けなかった。
その後桧垣先生は共済のデータのコンピュータ化に熱心になられた。息子が協力を頼まれ、何日か千代田に出向きました。先生の近況がわかるにつれ、本来の生き方に向きを変えられたと感じて嬉しかったのです。そして順調に出世されたと聞いて、山口の桧垣先生から教えられたプロ精神のバトンタッチはしたねと自己満足をしたものです。

あれから多くの獣医さんとお付き合いいただきました。そして無理をずいぶん聞いていただきました。特に原因がわからないとすぐ「開けてみましょう」と開腹して確認してくださる。息子や亮子君(お嫁さん)などメンバーが顔をそろえて学習する、私の描いていた農民風景をみせていただいて嬉しい限りなのです。

見浦牧場はいまだに悪戦苦闘ですが私の思い描いた農民像をみなで追い求めています。ありがたいことだと思っています。

お返事を差し上げようと、この文章を書き始めて10日あまりも経ってしまいました。82歳という年齢はすべての機能を仮借なく奪ってゆくさびしいものです。でもお葉書をいただいたおかげで懸案の報告ができました。本当にありがとうございました。

前後しましたが、お体の具合はいかがですか。私の日本脳炎の後遺症と付き合うこと60年、でもこの年まで生き延びました。どうか気をつけながら元気で長生きしてくださるよう、祈っています。
駄文をひとつ同封します。私の生き方のひとつです。お読みいただければ幸いです。

2013.3.11 見浦哲弥


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2012年10月04日

島津先生

”山里からの伝言”読ませていただきました。
そして書架から”中国山地”(上)、”新中国山地”を探し出して読み返しました(”中国山地(下)は見あたりません。確か貸し出して帰ってこなかったのでは?)。昭和16年4月に小板に帰郷してから70年、その変遷が昨日の事のように甦ってきました。
 
夏休み毎に小板に帰郷した昭和10年頃からの広島、三段峡バス?に乗って遡った太田川流域、福井(父の勤務先が現在の藤島高校でした)とはまるで違った広島弁、そして動員で暮らした七塚原牧場、作業で何度か行った戦前の三次、庄原、原爆直前の広島での建物疎開、敗戦、見浦家の没落、進学のあきらめ、独学への挑戦、周辺の青年達との離反、電検3種、2種に合格、更に勉学の夢、小板からの脱出失敗、見浦家の再建で夢を捨てる、そんな私を見ていた変な女の子、新婚旅行もなく2人でただ働く、爾来60年。その中の50年が中国新聞のレポート”中国山地”、”新中国山地”、先生の”山里からの伝言”に重なる。
思えば新中国山地の取材の時に、「前回から20年たちましたね。出来れば20年後もこんな企画があれば中国山地の歴史になるのに」と、お話しした記憶があります、その20年後が先生の”山里からの伝言”になるのですね。
一国の興亡の歴史は多くの人の興味を引きます。しかし一地方に過ぎない中国山地の盛衰は読み物としては評価されないかも知れませんが、こんな読み方をしてみてはと思ったのです。
 
そこで考えたのが、次のストーリー。
先生方の文章と私の雑文の組み合わせると見浦牧場から異端の文字が消えるのではないかと。
 
1.中国山地(上) 多頭化の試み P189
2.中島先生    (同封の私の文章)
3.中国山地(上) 牛と生きる  P184
4.ルポ 見浦牧場 北海道チクレン
5.新中国山地   牛は学習する  P65
6.岡部先生    (私の文章) 
7.見浦牧場からのメッセージ    京大宮崎教授引率の見学会
8.金城牧場    金城牧場について
9.背負うた子に教えられ   大牧場と見浦牧場の違い
10.山里からの伝言 島津先生  和牛飼育の異端  P190
11.一貫経営のこだわり 
 
文章を書き上げた時期は違っていますが、この流れで読むと中国山地の和牛の問題点が浮かんで来ると思うのです。ただ時代に流された、だけでなく、次世代への接点が見えるのでは。
無学な一農民が送るメッセージ、少しでも説得力があればと願っています。
 
20年毎に中国山地の報告を、の約束を守っていただいて有り難うございました。
大きな組織でなく個人の力での報告、でもそれは、前回、前々回にまさるレポートでした。これは後世、中国山地を研究する人達に貴重な資料を提供する重要な記録にとなると思います。
私の限られた人生の中でお会いできて本当に良かった。有り難うございました。
 
2012.7.21 見浦 哲弥

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島津邦弘著「山里からの伝言」お読みになった貴方に

島津先生の御本、お読み下さって有り難うございます。あの本は50年近く前に出版された、中国新聞社の「中国山地 上、下」、それから20年後に出版された「新中国山地」、それに続く3番目の「中国山地」だと理解しています。
見浦牧場は、最初から取材されました(最初の取材は新聞には乗りましたが、取材後の私の失敗で本には記載されませんでした)。3回の取材は私どもの牧場の歴史と完全にオーバーラップしているのです。
ご存じの様に中国山地の、ここ50年の衰退は目を覆うものがあります。過疎を通り越して限界集落、そして消滅への道をたどりつつあります。ここ小板も例外ではありません。お読みになってお気付きのように、記載された事例はこの流れをくい止めようとした多くの住民がいたと報告しています。しかし、その殆どが時代の流れに敗れたと。私も記事にするのなら敗退の歴史でなく前進の記録でなくてはと評したこともあるのです。
 
振り返ってみれば、中国山地は長い歴史を持っています。子供の頃から慣れ親しんだ石見神楽に始まり、樽床の平家落人説、芸北地区の尼子と吉川の抗争(見浦家も関ヶ原の落人)、浅野のタタラ製鉄、等々、数多くの興亡の歴史です。そして現在は経済大国、日本の大変動がもたらした中国山地の衰退の時期だと気付いたのです。なら必ずある次の隆盛に繋ぐ為には何を成すべきか、その提案が見浦牧場の生き方なのです。
それで島津先生に読後感想と一緒に私の文章をお送りしました。そして先生から一番嬉しかったと暖かいお返事を頂きました。
貴方にも島津先生にお送りした資料と同じものを差し上げます。どうか、お読み頂いて「山里からの伝言」の紙面の裏側に思いを馳せて、もう一度、読み返して頂けたらと思っています。

中島先生
ルポ 見浦牧場
岡部先生
見浦牧場からのメッセージ
金城牧場
背負うた子に教えられ
一貫経営のこだわり 
2012.7.6 見浦哲弥

                 
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私の勲章

2012.6.30  島津先生から返事が届いた。先日”山里からの伝言”の私なりの書評を送ったその返信である。一枚の葉書だが心のこもった文面、久方ぶりに心が暖かくなった。

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前略 ご丁寧なと言いますか、見浦さんならではの読後評をお送りいただき、全く恐縮のいたりです。
本をご覧いただいてお気づきと思いますが、表紙の写真は見浦さんが格闘してこられた牧場が眼下にあります。紺野カメラマンに頼んだら、雪の刈尾に登ってくれました。読者には単に冬の中国山地かもしれませんが、小生なりに「山里からの伝言」への思いをこめたつもりです。
たくさんの人からお祝いの便りを頂きました。でも見浦さんの手間暇かけてつくられた資料集成が一番の喜びでした。30年ぶりの記録を残せて良かったとしみじみ思います。
ご家族のご健勝を念じております。
                       
 島津邦弘

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私は表彰というのは嫌いだ。とかく誇張されて内面の人間性が伝わってこない。
しかし、認められることは嫌いではない。限りある命という定めの中で少しでも生き様が伝わるとしたら、理解されるとしたら、それが勲章だと思っている。
その意味では、数々の勲章を私は頂いた、その最後の一つがこの島津先生の葉書なのだ、私はそう読ませていただいた。
                        
見浦哲弥

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