2010年09月25日

アルツハイマー

最近、遠い身内にアルツハイマーかと思われる症状を発見しました。
貴方も良くご存知のとおり、脳細胞が集団で壊死することで発生する病気です。日本人の老人の四分の一が発症するといわれ、発症後十年前後が余命といわれる厄介な病気です。
考えてみると、私の人生の中でかかわったアルツハイマーの人は4人、それぞれかかわった時期は違うものの、いずれも中期以降で治療の出来ない状況でした。(早期なら病気の進行を止めることが出来る)。でも、早期の発見は同居の家族でなくては不可能といわれるくらい、初期は常人と変わらないといいますから。

私は77才、脳細胞の壊死と思われる物忘れが目下進行中ですから、アルツハイマーへの関心も一入、若い人とは受け取りかたが違います。
人間の体は細胞から出来ているのは、誰もが知っています。血液、筋肉、骨格にいたるまで、そして絶えず再生、壊死を繰り返して、機能を維持し生命を支えている。お風呂に入って体を洗うと出てくる垢は皮膚の死骸ですね。しかし、その下には新しい皮膚が再生している。一見同じようでも僅かずつ変化し老化していって、死に続いている。自分の手もよく見ると、いつの間にか老人班と呼ばれるシミが現れています。
ただ、その再生の速度は部位によって違いがあります。
専門家ではありませんが、牛たちと生活して、病気や治療などにも付き合っていると、一般の人よりは病理や治療の知識が深くなります。
そして、より深い観察が早期発見に繋がる、経営の上で最も大切なことなのです。牛は痴呆やアルツハイマーになるほど高齢になるまでは生かしてもらえません。だだBSEと呼ばれる伝染性の脳症がありますが、これは人間にも感染することが判明、徹底的に対策が取られて先行的に排除されていますので、牛を見て学ぶことは出来ません。ですから、身辺に起こった事例を見て、自身の変化に注意する他は発見の方法はないのです。

2009.8.11 眼鏡を2つ新調しました。壊れるのもありますが、行方不明になる、思いもかけないところで発見する、すべて置き忘れ。亡くなった友人の一人が「眼鏡がみえんようになってのー」と愚痴っていましたが、最後は奥さんの命令でヒモで首からぶら下げていましたっけ。

屋外作業の多い農家では邪魔になって、そんなことは出来ません。そこで安い眼鏡を数多く持つことで対応しているのですが、出てくる時には同じような代物が 6個も7個も並ぶのです。ところが行方不明が続くと1個の眼鏡さえ見当たらない。老化とはとんだところにも被害を及ぼしています。眼鏡なしでは読書も機械の修理もコンピューターの操作もままならぬのに。

若かりし時には、年長者の物忘れが不思議でした。牛を飼い始めて必要に迫られて勉強し、少しは知識が増えて、頭では物忘れの現象を理解しても、自分にどのような形で現れるかは想像も出来ませんでした。
しかし、定年と呼ばれる年齢に近づき始めると、遠慮なく現れ始めたのです。忘れると言うことが何の抵抗もなく発現する。それが当たり前のように。怖いですね。
置き忘れをしても中年までは歩いた跡をたどれば、少しずつ思い出す、最後はそうだったと目的物を探し出せたのですが、だんだん歩いた跡も定かでなくなる、こうなると自分のやっていることが不安で自信が持てなくなり、その不安を打ち消すために、自分の考えに固執する、全体を見て判断する能力が衰えていると言うのに。

最初に、人の名前が出なくなる。そこは老化の入り口、その後ろに深刻な症状が控えているのです。弱って行く脳細胞を絶えず刺激して、活力を維持する努力が必要だとの説明は身にしみて痛感しています。
その対策として実行しているのは読書と文章書き、視力の低下で老眼鏡との二人三脚ですが、お陰で皆さんからは、「まだ確かなのー」とお世辞を言われて喜んでいます。
ところが先日、忙しくて3ヶ月ほどご無沙汰だった本屋を覗いてみる気になりました、中国山地の頂上の小板から70キロで益田市、ここに行きつけの古本屋さんと新刊書のお店があります。もちろんメインは古本屋さん、財布の軽い私には新刊書は1−2冊しか買えません。有り難いことに古本屋さんではその10倍も買える、勿論探している本が手に入ることは稀ですが、買い物袋一杯の本の中には、当たりで読みこむ本が何冊かあります。そこで新刊書の本屋さんに移動、本探しをして1−2冊購入するのが何時ものパターンなのです。それと月一回の巡回図書館の本を1−2冊、これが現在の読書量、そうそう他にも若い連中が読んでいる月刊誌にも目を通してはいますが、徐々にその量が減っています。たった一つの脳細胞壊滅の抵抗手段と努力しているのですがね。

その折、購入した本の中に”明日の記憶”萩原浩著という小説がありました。映画化されたようですが気がつきませんでした。読みはじめて驚いた、まさに私が経験し始めたことではありませんか、ただ主人公は50歳、若年性アルツハイマーという設定、私は70歳の後半で違いはあるものの、記憶力の低下を小説とは言え、文章で眼前に突きつけられると心中穏やかではありません。
思い出せば同じ病で倒れた友人のO君が、トラクターで田圃に出るまでは良かったが耕すレバーがどうしてもわからない、機械が故障したと隣家に相談に行った話を思い出しました。
ある日突然記憶の一部が消える、小説の一部にオーバーラップして「なしてかいのー、なしてかいのー」とつぶやいていた彼の顔が゙浮かんできました。
日に日に進行してゆく病状に唯流されるだけだった友人の病状は老いることの難しさを教えていました。

振り返れば、私も何度か死線を越えていきました。そしてたどり着いた老年、どういう結果で終わるのかは不明ですが、最後まで前向きに全力で生きてゆくつもりではいます。

                                        
2009.9.26 見浦哲弥
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2010年08月15日

92歳まで生きる

沢山の雑文を書いてきました、そして思いつくまま題名をつけてきました。
ところが、あまりにも多すぎて題名から何を書いたのか、文の内容を察する事が困難になり始めました。多分に老化のせいとは思うものの、不便なので題名は即内容を想像できるものにすることにしました。そして、この文がその最初です。

息子の和弥は38歳、本来なら今が人生の最良の体調を謳歌している年齢ですが、残念ながら持病がある。小さいときから激しいアレルギーに悩ませられた彼は、喘息に苦しんでいます。大気汚染の激しい都会と異なって、空気の綺麗な小板は彼には最良の環境の筈なのですが、山村の生活は激しい肉体労働を要求します。季節の変わり目に苦しむ彼を見ると、私はもう少し長生きをしなくてはならないかと思うようになりました。

和弥は随筆”背負うた子に教えられ”に書いた様に、最近の若者には珍しく、自然を見つめる心の目を持っています。自然を肯定するだけでなく、それを人間の社会に置き換えて考える思考も、私の生き方をもっとも良く知っている人間の一人です。しかし、前に述べたように体が弱い。もっとも、私も体が弱くて父に何度も見放された様に、若いときは決して頑健と言えませんでした。ですから、その内神風が吹いて健康を取り戻すのでは、それが私の願いです。

ところで彼の子供は男の子ばかり3人もいる。この子達に私の生き方を伝えたい、勿論、息子や嫁さんを通して、そして運が良ければ私の口からも直接に体験を話してやりたい、それは高望みだとお笑いでしょうが、これも願いです。その為には最小限あと15年は生きなければなりません。夢のまた夢、でも楽しい夢でもあります。
もしその夢がかなった時は、何から話してやりましょうか?。

でも、それは私のささやかな希望に過ぎません。この年齢になると何時人生の終わりを宣告されても文句は言えません。それで思いつくままに、記憶を文章に変えているのです。
そして、孫達だけでなく、そとの若い人達にも読んで貰えるのではないか、そんな不埒な考えもあるのです。

2008.9.6 目下、老いが絶え間なく進行中です。昨日は前日草刈りをした住福草地でトラクターで集草しロールにしました。夕立が来そうなこともあって、1時から夕方6時まで休憩なしでトラクターに乗って作業をしたら、こたえましてね。夜中の2時まで動けませんでした。おかげで受け持ちの牛達30頭あまり、その他に子牛が10頭程いますから40頭ですか、食事がもらえませんでした。作業に行こうと思っても体が動かない、こんな時に老化の進行を痛感する、勿論、思考の方も停止、ひたすら眠って回復を願うだけ。ただ有り難いことに病気ではないので、時間が経つと気力と体力が沸いてくる。

私には5人の子供がいます。家内の春さんに言わせると、悪いところは全部私の影響とか。でも私にも言わせると頑固なまでに生き方にこだわる、いい点も伝わっているのにと、心の中で自慢しているのです。

そして末っ子の和弥夫婦が牧場を継いで生活を共にしているのですが、彼は物の見方、他人に対する思いやり、等々今の社会が若者のに期待する考え方のほぼすべてを自分の物としています。
本人が気がつかなくても社会が彼を求めている、適切な判断、正確な見通し、集会に行くと何時か周りに人が集まる、自分は勉強するために集会に出席してるのにと、ぼやきます。が、体力のなさが大きな欠点、その原因を与えたのは、彼をこの世に送り出した私達夫婦に責任があります。ですから残りの人生は彼のサポートで使い切ることにしたのです。孫達が彼の戦力として役立つまで。
明弥が二十歳になるまで生きるとすると、私は93才、家内は92才、日本の平均寿命が78才ですからかなり遠大な計画で、同級生の大部分が幽冥境を異にしていますから、欲が深いと笑うのも無理はありません。

2009.2.26 八幡の堀の姉が訊ねてきました、私は留守だったのですが、春さんの話では甥坊の弘和が膀胱ガンで全摘とか、60前後の筈ですから笑い事ではありません。最近は身近な人間がガンで倒れることが多い。何しろ死亡原因のトップを争っている厄介な病気ですから、私の様に78才でまだ元気で働けるのは、よほどの幸運かも知れません。

2009.9.1 農兵隊(戦時中動員されて働いた組織)の友人 柏原明四君が亡くなりました。動員先で病気になり一週間、同じ病室で枕を並べた仲、彼の親類が此の集落にあり、時々は顔を合わせた。その彼の訃報は私の残り時間は後幾ばくもない事を、思い起こさせました。”人間は生まれたときに死が約束された”は瀬戸内さんお説教ですが、考えてみれば一生と言う時間は随分短いものですね。このことを20歳、30歳頃に理解していれば、もっと違った生き方があったでしょうね。

2009.9.22 毎日機械に乗って作業をしています。まだ複雑な操作も何とかこなしていますから、もう少しは大丈夫かも知れません。目標は92歳、でもただ生きて居るだけの目標でなく、それなりの作業をこなし牧場の一員として役だつ事が願いですから、呆けては目的を果たしたことになりません。
くたびれた頭脳を励ましながら読書を続けています。目下、オープンオフイスのマニアルを読み始めました。

最近は体の衰えで夕方の6時頃からは休む様にしていますが、気力だけは前向き、母屋に枝を伸ばしていた老松が枯れたのも処理出来たではないか、機械で引き倒すために、地上20メートル近い幹の上部にワイヤーを取り付ける作業も、考えに考えて成功しました。
年を取ったから駄目なのでなく、体力の衰えは長年の経験と知識で補う、そんな前向きな気持ちでいます。

成せばなる、成さねばならぬ何事も、ならぬは人の成さぬなりけり。
これが、現在の私自身を励ましている言葉です、弱気になって尻込みがしたくなると”なせばなる” とつぶやく事にしています。

2009.9.21 見浦哲弥
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2010年01月14日

時間が飛ぶように消えてゆきます

父が人生を終えた年齢、79歳にあと2年になりました。健康に恵まれて忙しい毎日を過ごしてはいますが、時間の消えることの早さ、若い日々の頃には想像もしなかった時の流れです。
私の家族は今の農村では珍しくなった3世代同居の大家族なのですが、その世代、世代で時間の流れが違っている、まさに異次元空間を共有しているかのような不思議な感覚です。

これが人生の長い時間の末に見ることができる不思議な世界なのだ、と思っています。
この時間のあり方を、ほんのわずかでも若い日に予測し、理解できていたら、一度きりの人生の時間をもう少し効率的に使ったと思うのですが、これは老人の戯言です。

しかし、毎日トラクターや重機に乗車して作業しながら、友人たちが早くから仕事の第一線から離脱し、人生から立ち去ったことを思うと、私はずいぶんと幸運な星の元で生きたのかな、と考えることにしています。
20代の前半に三次で70歳を超したおじいさんに農業機械の指導を受けた時、その年で矍鑠(カクシャク)としている、とんでもない化け物だと思ったものです。今の私はその化け物に近付き始めているのかも知れません。

でも読書の量が減ったのは痛いですね。たとえば、かつては文芸春秋を3日で広告まで読み切ることができたのに、今は1カ月も2カ月もかかる。文字を追い、頭に絵を描く、それが2−3ページしか続かない。残念ですが、それが現状です。

読書だけではありません。若いころは機械の中身がどうなっているか、疑問を感じたら分解して確かめなくては落ち着かなくて、分解し、組み立て、青写真を見て、説明書を読んで、それでもわからないと専門書を探しに行く。もっとも私のことですから専門書といっても初歩の初歩でしたが。
それが、これはと疑問を持っても、ま、明日にしよう、ということになってしまいした。明日が少なくなったというのにね。
ですから、作業場には明日分解して修理して再生するはずの機械や部品が山積みになってしまいました。2007年12月、スクラップ屋さんに処分してもらいましたが、その一つ一つの疑問や思いつきを解決しないで処分する、一つの終わりを感じたものです。

私の時間が止まらないで終わりに突き進んでいく、人生は厳しいですね。二度とない人生が終わりに近づいてゆく、人はこんな時どう対応するのでしょうか。

宗教に救いを求める、趣味を追い求める、旅行をしてまだ見ぬ世界を見聞する、選択は個人の自由ですが、その数は無限にあるように思えます。でも、その一部でも満足するだけ追うのには時間が足りません。最後にはあれもこれもとし残した事柄の多くに悔いが残る、私はそんな気がするのです。

思いあがりかも知れませんが、それよりも一人でも多くの出会いを探す、心に暖かい思い出を残すほうが豊かに人生を終えることができると思っているのです。

昨夜(2008年1月28日)一人の男性が訪ねてきました。家の前を走る大規模林道で雪の中で立ち往生したので助けてほしいと。今年は珍しく救援依頼がなくて安心していたのですが、深夜の作業が済んで寝ついたすぐのことで、さすがの私も参りました。
年の頃、60前後か、今から益田へ海釣りに行こうとして近道をして通行止めの表示を見逃したとか、話を聞いてみると、場所は刈尾山の吹きだまりの地点、「スコップを貸してくれ、自分で掘り出すから」とというその人を雪道の怖さを知らない都会人と投げ出すには良心が許しませんでした。
身支度をして救援に行くことにしました。時刻は午前4時、場所は前述の熊の出没する地点、今年は前年がどんぐりの豊作だったので冬眠しているとは思うものの油断はできません。
本人はそんなに大げさにしなくてもと、不満げでしたね。
出かける前に、「初めに確認しておくけれども、約束してほしいことがある」というと、彼「金なら出すけぇ、心配せんでくれ」と。
「金はいらん。わしゃー、人に助けられたことがあるんよ。じゃけぇ、困っとると助けを求められたらできれば助けることにしとる。もし、あんたがそんな時に出会ったら、一度でええけぇ、助けてあげて。これが条件。」
「変なことをいいんさるのー。わかったけぇ」「車が上がったとき、お礼じゃー、金じゃーいいんさんなよ。」

1キロほどの除雪されていない雪道を走って現地に到着してみると、案の定、吹きだまりのい雪の中にスタックして亀(車輪の下の雪が空転でなくなって車体の底が雪につかえて浮いている状態)になっている。
車の横を除雪してみると車輪の下は60センチもの雪、大仕事になりました。
60過ぎの運転手君は、さすがに事が片手間仕事ではないと真剣になりました。
ところが素人ではなすすべがありません。ただ眺めるだけ。車の向きを変えるにも道路上の雪は完全に除去しなくてはなりません。向きを変えて下りの今来たわだちに乗るためにも、助走の距離が必要です。笑いごとではありませんでしたね。

雪の夜中、一時間余りの悪戦苦闘の末、路面を掘りだしました。その狭い区間で滑りながら方向転換をしました。ところが来た道のわだちに乗るためには、さらに助走のための除雪が必要でした。
ようやく動けそうになったとき、彼は挨拶に来ました。「わだちに乗ったらとまらんけー、お礼いっておきます。どうも有難う。」彼の態度が「金はあるけー」と行った時とは変わっていました。
人生の垢が洗い流されて、本当の人間が見えてきた、そんな素直な態度でした。
へー、人間ここまで変わることができるのか、と今度は私が感心したのです。

車が雪道にうまく乗り走り始めて、挨拶のクラクションを鳴らして暗闇に消えて行った時、疲労を忘れて充実感すら覚えたのです。

今年も大規模林道に小さなドラマがありました。

2008.5.18 見浦 哲弥
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2006年05月06日

老いるということ

  私は今75才、いよいよ老いの速度が速くなりました。人生誰もがたどる道、覚悟はしていたものの、現実になると厳しいものがあります。
 まず、体力の衰え、いろいろな物を持ち上げるとき、今日はえらく重たいなと感じるのは手はじめで、やがて上がらなくなる、そして自分の年を実感するのです。
 その体力の衰え以上に悲しいのは、頭の切れです。16才の時、奮起して独学を始めた頃は、苦しみも有ったにせよ、知識が水がしみこむように、頭に入ったものです。電検の3種、2種と 続けてとれたとき、あの理解力の頭は私だっのかと、昔を偲ぶのは年寄りのサガなのでしょう。
 内孫の明弥が今年3才になります。その小さい頭に水がしみ込むように、知識が吸収されて行く。その早さ、正確さ、自分の子育ての時は、生活に追われて、気付かなかった事が、目の前で繰り広げられています。孫達が限られた時間の人生を精一杯生きてくれるように願っています。でも、ひたむきに、前へ前へと生きる事の素晴らしさを、幼子が、後ろ向きになり勝ちな私に、それで良いのかと問いかけているようです。

 若い日に学んだ聖書で、明日のことを思い煩うな。今日のことは、今日にて足れり。と教えられた記憶があります。あの頃、お坊さんの説教をまじめに聞かない見浦は、仏罰が当たると古老達に非難されました。、あの人達は、本当に人生を精一杯生きたのだろうか?。そして人生の終わりを前向きに受け止めたのだろうか?、と先だった、先輩達に聞きたいと思うのは嫌みでしょうか。「年を拾うた、年を拾うた、やれんことよ」と、悔やみ言葉だけの老人にならなかった幸福を孫に感謝しようとおもいます。

 私の友人達も鬼籍に入った人が増え始めました。小学校の、松原の高等科の友も、まして先生方も、徴用で生死を共にした仲間にも、近況を聞くと寂しい思いをすることが増え始めました。人の定めとは言え、命の厳しさを、痛感している毎日、今日も生きているよろこび、精一杯生きることを知る素晴らしさ。
 こんな話の流れでは、順風満帆、不幸を知らない人生のように、貴方は考えるかも知れません。現に私の周りには、「大畠(注:おおばたけ。見浦の屋号)ええことよ、何もかもええ具合で」と皮肉混じりに言われる人が多くなりました。しかし、振り返れば、苦しい事、絶望した事、何度も何度も乗り越えてきました。この世の中には、いいことずくめなど、あり得るわけがありません。私も多くの問題を抱えています。が、心の持ち方が前向きだけなのです。それが、外見をよく見せているのです。
 気持ちが前向きと、そうでないのとでは、困難に行き当たった時の対応にも差が出ます。それを知っていることが、幸せの原因なのです。

 それでは残りをどんな生き方をするか、自分の仕事だけに追われて、,the end、それで、いいのだろうか?それなら、今の能力で何が出来るのだろうか。
 その一つが、同行(注:どうぎょう。地域の助け合いの組織)の再建でした。しかし、これは実際に仕事をしてみないと、完全なものには仕上がりません。そこに持ちあがってきたのが、水道組合の内容の明文化でした。何十年も問題提起をしてきたのですが、仕事が大きすぎて、誰も取りつかなかった、私が請合うとすると、それだけの時間と能力が残されているだろうかと、迷っていたことでした。
 成り行きの勢いで、引き受けはしたものの、案の定、集中力が低下している現在の私には遅遅として進みません。2ヶ月余りして、ようやく全体の形が浮かび始め、文章化を始めた処です。

 思いは、若かりし日と同じですけれど、頭と身体が付いて行かない、それが、だんだん大きくなる、そのギャップと自分の加齢の速度を理解して、効率的な人生の使い方を努力しているところです。 
 それにしても、物忘れは困りますね、もともと、物覚えは良くなかったのが、進行したのですから大変で、眼鏡の置忘れは序の口で、機械の修理中に部品を忘れたくらいなら、我慢も出来ますが、いま、使っていた工具まで見えないとなると、笑い事ではありません。探し物に費やす時間の増えたこと、残り時間が少ないのに、残念無念としかいえません。ちなみに、今日は水道の参考書が見えないのですよ。

 私は、本を読むのが好きです、好きと言うより,生活の一部そんな感じです。ご存知の様に、読書と言う奴は,活字が目に入ると、頭の中にその場面が次々と絵になる,図表になる、図面になる、最近の漫画人種の人には理解しにくいでしょうが、自分だけの挿絵がかけるところに面白さがあるのです。 幼い頃、母が教えてくれた読書の習慣が、私の一生を通じて宝となりました。
 小板に転校してきた時、廊下の書棚に大阪に就職された、藤盛の六郎さんが寄贈された、本や雑誌が放り込んでありました、読む人もいないまま放置されていた書籍は宝の山でした。でも、小板小に在学の2年の間に、ほとんど無くなってしまったのです。あとでトイレットペーパーの代わりに使われたと聞いたときは、・・・・・・・
 戦争中は本を読もうにも、新刊書が手に入りません、時々少年倶楽部を買ってもらうぐらい,それも見る見るうちに薄くなりましてね。それを何度も何度も読み返して、中でも南洋一郎の冒険小説は大好きで、今でも荒筋を覚えています。
 戦後はインフレで本が高く、小遣いがあれば買っていた科学朝日が、朝と夕方では値段が違っていた、そんな事もあったほど、ものすごいインフレでした。
 世の中が安定し始めて、毎月、月刊誌、週刊誌、業務誌,単行本,専門誌,取り混ぜて10冊平均は読んだでしょうか。ある友人が「お前は産まれつき頭がいい、出きるのが当たり前」と評してくれましたが、それは間違い、年に120冊、50年では6000冊にもなりますから、なんぼ馬鹿でも少しは知識が広くなります。でも読書が苦にならないと言う事は素晴らしいことでした。

 私は外国に行った事はありません、国内も北は金沢,南は福岡、東は高松までの狭い国内で人生を終わろうとしています。でも外国を知らなくても,読書、新聞、テレビなど情報を集めるには苦労のない現在,案外正確に世の中を見ている、そんな自負があります。 

 こんな話があります。

 今から10年以上前、牛肉の自由化の問題がおきました。零細な日本の肉牛生産者は、二桁も三桁も規模の違う海外の業者に太刀打ち出来るわけがないと、猛反対が起きました。規模の大小を問わず、肉牛生産にかかわっていた、農民,生産者の足並みは揃っていました。
 自由化の決まる数年前、農水省の、朝日新聞本省デスクの長谷川さんが取材で訪ねてきました。この自由化に対する、現場の農民の声を本にする為に。
 貴方もご存知でしょうが、日本には牛肉の品質を決めるためにサシという基準があります。背骨の尾骨の根元から、6番目と7番目の背骨の間のロース切断面の脂の入り具合と美しさがサシです。肉の切断面が霜が降った様に脂が小さく沢山入った方が高級というわけです。決して肉の味で値段が決まるのではありません。その為には、餌、飼いかた、近親交配、遺伝等々、あらゆる手段が講じられます。まさにコストダウンの逆行です。それが、当時の(今でもそうですが)流れでした。
私は、かねてから食品の基本は安全と味との主張でしたから、その話を詳しくと来場されたのでした。
 そこで、かねてからの持論を申し上げたのです。サシが入る事が高級であると言うのは、消費者の意見だとは信じられない。食品は見た目も大切かもしれないが、1番大切なことは、安心と美味しい事、それに見合ったリーズナブルな値段である事と。それが、記事の中では「サシは消費者の声ではない」と表現されていました。

 広島県では、毎年牛の共例会が開催されます。かねてから、このような会合に疑義をもっていた私は毎回欠場していました。ある年、山県地区からの出場牛がどうしても都合がつかないので、何とかしてくれと、普及所に頼まれました。もう時間がないので、見浦しか頼むところがないと。日頃お世話になっているのですから、困っていると言うのを、むげに断るわけに行かず出場したのです。
 ところが、品評会というと、丸々と肥らせて、磨き上げて毛並みが光っている(整髪料をつけて磨くと言う噂もあります)、知らぬ人間が近ずいても何も反応しない人馴れした牛のオンパレイド。そんな牛の中に、野生に近い放牧牛を連れて行ったのですから、その評判の悪い事。しかも、技術屋さんの指導に反して、独特の交配をした(鳥取の気高号、大柄で骨格が大きい)牛でしたから「あがあなもん、よう連れてきたの」と悪評ふんぷんでしたね。
 おまけに、放牧牛と言うのは、野生に近い性質を持つようにならないと、生き残れませんから、見も知らない人間が多数集まっていれば、恐怖で身がすくんで、おびえてしまいます。逃げ出そうとするのを、角と鼻に綱をつけて無理やり引いて行くのですから、家畜の黒牛だけ見ている人からは、異常な眺めだったのでしょうね。「ありゃ、なんなら」笑いがあがっても無理はありません。
 でもその牛の中に、胴伸びのよさ、放牧に適した脚の太さ、肉量の多い胴の深み、等、私達、見浦牧場の提案がこめられていたのです。たった1人、県の技術員の方が、小さな声で「見浦さん、この牛は大事にしろよ」と耳打ちしてくれました。あれから30年余りの時間が経ちました。今、広島県の種牛作りの端々に、私達が追い求めた形がかすかに見え始めた感じがするのです。

 年を取ると言う事は、長い時間を見たということ、人生の意味に気付くのが早かった人は、より多くのことを知っていると言う事なのです。おかげさまで、私は早めに理解する事が出来ました。多くの先生、先輩のおかげです。しかし、その事に気がついて、後輩にアドバイスが出来始めたら、もう老いが迫っていました。

 最近、三段峡豆腐の岡本君が、口しげく「見浦さん長生きをして下さい」というようになりました、体調の悪化が外貌にまで出始めたのかなと、思っています。
 私は、19歳の時日本脳炎に感染して、九死に一生をえました。しかし、それから、50年あまり、後遺症の頭痛との戦いでしたが、長い間、安定していた痛みに変化が生じ始めたのです。身体の疲労と頭痛が連動するようになりました。一度頭痛が始まると3ー4時間寝ないと元に戻らないのです。今まで経験した事のない新しい症状です。そろそろ、最後の時が近づいているのかも知れません。
 様々な出来事と、私が感じて、越えてきた事柄を書き残し始めたのは、少しでも、あとに続く人のお役に立てばと、思い始めているからです。


私の、死後は、お葬式も、お墓も不用だと思っています。
私の考え方、生き方を理解してくださった方々の心の中が私の住むところと、考えています。迷惑な事でしょうが、1人でも多くの心に住ませて頂きたい。 これは、自然の天地の間で生きた人間の我侭なのです。

 但し、家内の春さんは、猛反対です。人間最後のお葬式はその集団のルールに従う事だと譲りません。後に残された家族の事を考えろ、去り行く者の都合で、残る人間が異端視されるのは、許されないと。
でも、形骸化して、儀式としてだけに存在する、現在のお葬式にはどうしても納得ができないのです。
野村の祖父のお葬式を始めとして、多くの身内を見送ってきました。盛大な葬式、立派な葬式、トラブルを抱えた葬式、スキャンダルを隠したお葬式、・・・・・・・・。
生物の常として、死は当然の事ですが、 別れの時には、何もしないで貴方の心の中の私に話しかけて欲しいと思うのは、我侭ですか?、思いあがりですか?。
取り止めのない事の羅列になりました。今日の話は、これで 終わりします、少しは私の考えが伝わりましたか、また他の時に、お会いしましょう。
2006/5/3 見浦哲弥


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2005年11月26日

我が友 船坂さん

船坂さんは、ヘリコプターのパイロット、三段峡の入り口の落合さんの離れを借りて、別荘代わりにしていました。
その彼とはひょんなことから付き合いが始まったのです。
私が交通事故にあった話は、随筆「生と死と」に書きました。あの入院したときに始まるのです。

戸河内病院の2階の病室は4人部屋、隣のベッドに四合の松本君がいました。そこへ彼の別荘の隣人というわけで、船坂さんが見舞いにこられたのです。一言二言話をしただけの人が、退院して3−4ヶ月もしたころ、リストアしたジムニーに乗って来場、そのときは正直な話、彼のことは忘れていました。それまでは私にとってはただの通りすがりの人でした。

ところが話をしてみると、お互いに年齢、職業、生き方が違うものの、考え方や趣味などに共通点があったのです。今考えると彼は違う世界に住む私の中に、自分の影を見たのかも知れませんね。そして私は若いときに夢見た、機械や電気の世界に住む船坂さんに、興味を持ったのでした。
車のリストアの話、エンジン、塗装、機械の応急手当、などなど、話は尽きませんでした。

次にこられたときは、シトロエンのバン、これも人にもらったとかで、ようやく動くようにしたぞと、自慢をされに。
そして車内に泊まれるようにするんだと、板張りの床を作っていました。「俺なら畳を敷くがの」と申し上げると、「そうかー」とうなずいていましたっけ。

その後、何回かおいでになり、そのうちに奥様もご一緒されるようになりました。
事務所でストーブを囲みながら、皆で雑談する楽しい時間を持つ、そんなこともありました。
奥さんが子育てが済んでから高校に入学したこと、それを家族で応援していると、船坂さんが楽しそうに話されて、私たちはいいご夫婦にお会いしたと喜んだものです。

ところが、もう6年前になりますか、木枯らしが吹き始めた11月、突然ご夫婦でおいでになりました。
「やあ、お久しぶり、お元気でしたか」何も知らない私は、いつもの挨拶を口にしました。
ところが「それが元気でないのよ」と、普段の彼とは違う返事が返ってきました。とっさに顔色をうかがうと、尋常でないやつれ方をしています。
「どうしたんね?」と聞くと、「実は、肺ガンでの、医者のいう余命がもうないんよ」さすがに驚きました。命の終わりのガン患者への対応の難しさは父をはじめ、多くの人を見てきて、それなりに理解しているつもりの私は、心の動揺を顔に出してはいけないと、、まず、それを考えたのです。

「開けてみたんかー?」
「開けたんよ。そして、後3ヶ月と言われたのよ。その3ヶ月がもうないんよ。」と。
言葉がありませんでしたね。

そのとき、彼は私に助けを求めにきた、そう感じたのです。取るに足らない私に。それなら、おざなりではいけない。心で話さなくてはと、そう判断したのです。

「そうか、でも私はね、生き物と裸の付き合いで生きている。だから、あなたとは違った考えをもっとるんよ。
たとえば、植物は、種を撒き、芽が出て、双葉が開き、葉が出て、茎がのび、花が咲く。
やがて実がつき、そして枯れて土に帰る。私の見てきた自然には、例外はひとつもなかったんよ。
だから自然の掟には、生き物として素直に受け入れて生きることにしているのよ。そしてその折り目折り目を懸命に生きる。愚痴を言いながらでもね。特に、あなたとの出会いになった事故からは、朝目が覚めたら、今日も生きてる、儲けた、さあ、何をやろうかと、考えることにしたんよ。私はそうやって生きている。人に勧めはしないがね。」

「そうか、自然の中で生きている人間は、考えることも違うんだな。
でもなー、見浦さん、夜が寝られんのよ。」と。

当たり前です。迫ってくる死のことを考えて平静でいられる人間などいるわけもありません。酷いなとは思ったものの、日ごろの考えを口にしました。

「なして、無理に寝ようとするのよ。それだけ時間がもうかったと、なぜ考えんのよ。2度とない時間なら、読書をしても書き物をしてもやることはやまほどあるはず。神様の贈り物とかんがえられんかの?身体が必要としたら、自然が眠りに連れて行ってくれる。寝にゃいけんとかんがえるけー、寝られんのよ。」

「そうか、そう考えるのか、そう考えればよかったよのー」そういった、彼の顔が明るく輝いたと感じたのは、私の思い過ごしだったのでしょうか。

別れの挨拶が済んで、車に歩く二人が「来てよかったの、もう1度きてみたいのー」「もういっぺん来ましょうで」と話す声が聞こえました。車が見えなくなり、これが船坂さんとの今生の別れだったと思うと、胸の中にいっぺんに哀しみがこみ上げました。

それから、何日か後に、彼が死んだと風のたよりがありました。短い付き合いだったのに、悲しみの度合いは大きかった。

1年が経ちました。突然、奥さんが息子さんと訪ねてこられました。やっと心の整理がついたので報告に来ましたと。
帰られて15日後になくなられたとか、最後の3日間は呼吸困難が始まったので、入院したけれど、それまで自宅で過ごされたとか話されました。

私たちは好きあって一緒になり、助け合って人生を送ってきたのに、その最愛の人が悩み苦しみながら死を迎える、それを見なければならない、考えると耐え切れない恐怖でした。
ところが、小板からかえってから、彼は人が変わって、淡々と時間を過ごしてくれました。かえって周囲の人が心根をおもって影で泣いていましたと。
息を引き取るときに、「おーい、待ってくれー」それが最後の言葉でしたと。
「おかげで彼とのいい思い出が壊れずに済みました、ありがとうございました。」と礼を言われたのです。

未熟な私の人生観で、人生最大の恐怖を乗り越えた船坂さんは、かえって私の先生かも知れません。
「見浦さん、あなたの考えは正しいよ。私が証明したよ。」と。
今、私は74、人生も終わりに近づきました。しかし、この心の平静は、彼のメッセージのおかげだと思っています。

我が友、船坂さん、あなたとの出会いも、私の大切な出会いでした。


posted by tetsu at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 終末に向き合う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする