2017年10月14日

お祭りと饅頭焼き

2012.10.28 今日はお宮の幟(のぼり)建て、例年村祭り(11月2日)の前の日曜日が、お宮の掃除と幟建ての日である。去年は神楽団の長老が死亡したとて、神楽の奉納は中止だったが、今年は神楽があるとて、少しは明るい雰囲気だった。もっとも舞子は5人、いずれも広島在住、小板居住は60歳あまりの人が1人という現状では、今年が最後か?例年見浦家が勤めていた饅頭焼きは、去年の神楽中止を機に、もう止めようと話し合っていたところに、神楽団からも正式に中止要請があった。80歳になった晴さんにも、子育て最中の亮子くんにも無理、一つの時代が終わった。

饅頭焼きが始まって、もう20年になるか。祭りにやってくる府中の孫たちを見て、晴さんが言い始めた。「昔は神楽の晩には夜店が出てたな」と。私も記憶がある、神殿の前の大杉の根元にテントをかけて、たった1軒、露天のおじさんがやってくる。三国のお祭りの露天には比べるべきはないが、子供達には胸躍る時間だった。それが日中戦争が激しくなった頃なくなった。

敗戦で戦場から復員してきた若者たちが結婚して、子供たちが生まれて小板に賑やかな時代がやってきた。お祭りには夜店がやってきて、地元の堀田商店も饅頭を焼き始めて、小さな鎮守の森も神楽の夜は賑やかだった。

ところが日本の繁栄に逆比例して若者が減り、住所を都会に移す家が出始めて子供たちが少なくなった。外来の夜店はとっくの昔に来なくなって、堀田商店の饅頭焼きも赤字続き、集落の子供は10人ばかり、太鼓の音は昔と同じでも、寂しい村祭りが当たり前になった。

ところが我が家の晴さんは少々発想が違う、夜店がなくて寂しいのなら自分たちでやればいいではないか、子供たちに自分たちが味わった、神楽の晩の夜店の楽しさをプレゼントすればいい、プレゼントは商売でないのだから、利益が出なくても運営する方法があるのでは。

実は彼女が「考えたんだがのー」と話し始めたら大変で、先ず反論が出来ない、華やかではないがポイントを突いていて、なるほどと賛成させられるからだ。
何しろ、集落のことから、農協の理事、農業委員、PTA、まで、あらゆるところに口を出す、正論と感じると無視はできず、解決策を模索して奔走するのは私、長い時間の彼女との生活はこれで何度も泣かされた、饅頭焼きもその一つだった。

そこで条件を付けた、子供たちが負担にならない値段にする、専用の道具は買わないで家庭用の器具で間に合わす、利益はでなくても材料代だけは確保する、その条件を守るのなら最初の資金を見浦家で負担する事に賛成する、もちろん人件費は無償奉仕ということで。

もともと金儲けが目的の発想ではない、年に一度のお祭を楽しみの子供たちに神楽だけでなく、もう一つの思い出を作ってやろうが発想の原点、幼かった自分の思い出と重ねての提案だから、家内も私の提案を受け入れた。

世の中には発想は良くても現実が伴わないことが多い。晴さんの饅頭焼きもプラン倒れにならないかとを心配したのだが、もともと田尻一番の根性屋さん、言い出して走り出したら逃げ出すことが出来ない性質、問題が起きるたびに懸命に対策を考える、圏外の私としては、その熱意を牧場に振り向けてと口まで出かかったが、反動が恐ろしい、ひたすら見守るだけ。が、子供たちが、孫が動き出した、小板の祭りに帰るのは饅頭を焼くためと目的まで変わって男どもを除く見浦婦人同盟のお祭り行事として定着した。おまけに味もいいと評判、儲けは出ないまでもお祭りの神楽と言えば見浦の饅頭焼き、子供たちも小遣いを固く握って神楽の晩をまつ。が、それなりの時間が経過して彼女も年老いて気力が無くなった。我が家の孫達が小板神楽を見ながら見浦饅頭を食べる、そんな時まで頑張るが、続かなくなった。そして遂に中止、翌年か翌々年には神楽を奉納しようにも舞子の動員が困難になった。そして100年余り続いた小板神楽団も解散、お祭りの夜の太鼓も途絶えた。

時は農村の過疎を通り越して無住の集落が出現する時代、一時とはいえ彼女の努力は小板の河内神社の神楽の最後に花を贈った事になった。

あれから、もう10年あまりも過ぎたか、秋の村祭りの日は数少ない住民が集まって境内や内陣の掃除をするだけ、落ち葉を焼きながら昔は賑やかだったがと思い出話に花が咲く、それが何時まで続くかは誰も知らない。
そして晴さんの饅頭焼きも思い出の彼方に消えてゆく。

2017.5.24 見浦哲弥

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2015年02月28日

再び同行崩壊す

2014.8.15 とうとう同行が立ち行かなくなりそうだ。今度は組織の問題でなく、住民が同行を維持できる状況でなくなりつつあるのだ。
住民の不幸を分け合って助けると言う理念は、皆が持ち合わせている。しかし、若者がいないのだ。20代、30代の若者は言うに及ばず、40代の住民は我が家の若夫婦(?)だけだと言うのでは、お互いに助け合うという理念は維持できなくなったと言うことなんだ。

が、幸い、その若者が我が家族であることは、同行を最後まで続けられるということ、互助でなくても、仲間に奉仕することと視点をかえることで集落の住民が最後の1軒になるまで維持できる、その負担をするのが私の家族であることで心が休まる、他人に崩壊する小板同行を押し付けなくて幕引きが出来る、これも喜びのうちに数えることにしたんだ。
そして最後は家族葬、何時の日か小板の人口が増えることがあったら、そのとき同行を復活すればと、私のいない時代を夢見るのです。

群れとしての牛飼いにこだわった見浦牧場では、お互いに補完しあう牛達を見て暮らしてきた。集団で暮らす動物の基本は一匹では生きてゆけないが助け合うことで生き延びると言うことなのです。見浦の牛群が草を求めて群れで暮らしている姿を、「凄い」と都会の見学者が感心して見ています。
彼等が本能で作り上げた見浦牛の集団は小さいながら訴えるものを持っているのです。

2014.8.28 私より5歳も年下のN君が亡くなりました。小さな会社を経営していた彼の葬儀は、飯室の葬儀社の会館で行うということになりました。同行の一員として長年協力してくれた彼ですが、集落外の葬儀に同行の人員を派遣する先例はありません。まして同行のメンバーが老齢化して地域内の葬儀も苦慮している現状では遺族の要望に応えることは出来ません。そこで葬儀の日には世話人の私と協力人の島川君が参列して雑用をこなすことで了解を貰いました。
今回はご遺族のご了解を得てこの形で済ませそうですが、同行の有力な協力者を失ったことで、つぎの葬儀はどうこなすか対応策は苦慮しそうです。

いま小板には私より年長の人は3人、同年代が4人、他にも老齢者ばかりで、同行の幕引きが難しい。我家の若者たちが、この困難を軟着陸させられるよう、私の最後の智恵を絞ってみようと思っています。

2014.8.28 見浦哲弥


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2013年05月02日

選挙が変わります

小板は人口の減少で投票権を持つ選挙人の数が減りました。選挙毎に開設していた投票所の廃止統合の問題が登場してきました。役場が何時言い出すかと期待?はしていたのですが現実になると難しい問題を多く含んでいるのです。

数年前までは選挙人が50人前後いました。国政選挙、地方選挙の度に投票所が開設されました。長い間、松原小の小板分校が会場で、役場から選挙管理人が2名、地元から選挙立会人が3名が一日中、投票所に詰めるのが習わしでした。

道路が整備され自家用車が普及してからは便利になりました。敗戦後の選挙では選挙の前日、役場の職員が泊まりがけで、投票所の開設にやってくる。ベテランと新人がペアになって。小板には旅館はありませんから、宿泊所の斡旋も部落長(自治会長)の仕事、たいていは自宅に泊めてましたね。昔役場の職員だった老人の中には、見浦さんの家に泊めて貰ったと話す人が多かった。同年代の彼等に会うと見浦さん宅に泊めて貰ってと懐かしむ人に出会うのです。巨大な茅葺きの家で囲炉裏を囲みながらの食事、陸軍の将校で、県内、県外の長い教員生活をしてきた父の昔話は強烈な印象を与えたらしい。

投票が済むと立会人の長が選挙箱を封印して立会人が捺印、投票箱を役場まで搬送するのに一人が付き添う。開票所で選挙管理委員会に引き渡し書類に署名して任務完了となる。
小板は役場から距離20キロあまり、2時間の終了時間の繰り上げでも冬場は帰宅できない。確か役場の前の丸一旅館で一泊して帰宅なんて記憶もあるのです。
その内に役場も公用車が整備されて活躍を始め、徒歩での搬送はなくなったが、小板にやってくるのは悪路用のジープ、ガタガタ揺られてね、引き渡して帰宅するのは7時頃、元気な男性にお願いと言うことになる。
初めは少なかった日当も少しづつ増えて婦人や老人には、一寸した小遣いになる臨時収入、都合の悪い人が出たときは、それも配慮してお願いしたもんだ。が杓子定規が自治会長になると大変、家の順番は義務だからとどんなに都合が悪くても勘弁して貰えない、せいぜい次回と差し替えるが関の山、人に優しいとはどんなことかを知らない人もいました。

昔は立会人は余程の事がないと男性、男女平等は紙の上だけ、女性の発言が重みを増すにはそれなりの時間が必要だった。やがて女性が登場し、立会人は男性が珍しくなる。そして女性と元気な老人の独占場となった。そして過疎が進行、お願いする人にも事欠くようになり、投票場の廃止に繋がった。時は行政改革のまっただ中、一回に20万円もかかる費用の削減は格好の目標だった。

さて、新しい投票場は7キロ離れた松原、一軒だけの餅の木は小板からでも4キロはある、合計11キロ。自動車の時代とはいえ投票も大変になった。来月は小板投票所が廃止されて最初の選挙、安芸太田町の町長選挙がある。高率だった投票率がどの程度になるのか、これも少々気に掛かる。

2012.9.25 見浦哲弥

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2012年08月23日

ラスパイレス

もう随分昔の事になりますが合併前のK町でこの事件がおきました。忘れていた小さな出来事でしたが、最近の本末転倒の政治を見ていて思い出しました。

ラスパイレスというのは地方公務員の給料を国家公務員の給料に比較して数字で表したものだと解釈しています。ラスパイレス指数といいましてね。
隣村だったK町の町長に多少左系の資産家のボンボンが就任しました。彼は組合対策として昇給を重ねて、職員の給与が国家公務員より高くなってしまいました。独立会計で国から交付税などの支援を受けていなければ問題はなかったのですが、残念ながら地方の一寒村、交付税は主要な財源でした。
国からの支援がなければ財政が維持できない町村が、国より高い給与を支払うとは言語道断と改善を迫まられたのは当然の成り行きだったのです。
確か10パーセント以上高くて1−2パーセントの他町村の中で突出していました。それで標的になって大きな圧力をかけられたのです。

そして選挙、国との関係改善を標榜して当選した町出身の豪腕政治家が指数改善に乗り出しました。給料の引き下げです。当然職員は反対、職員組合と町長との対立、争いになりました。
この問題で町長になったG氏は一歩も引かない。たまりかねた職員組合は、上部機関の自治労に提訴したのです。あたかも全国でこの問題が提起されているとき、格好の事件として最上部の全国自治労が乗り込んできたから大事になりました。

静かだったK町に赤旗がはためき、紅い鉢巻の組合員が「わっしょい、わっしょい」とスクラムを組んで練り歩く。一変した町内に驚いたのは何も知らなかった町民、様子がわかると、そんなことは止めてくれと、親、兄弟、親類が各組合員に大圧力をかけました。もともと固い信念を持たない大多数の組合員氏は町民のブーイングの大合唱に、1人去り、二人去り、最後は幹部だけになった。
その頃です。戸河内町の町会議員で社会党員のS君が、K町職員組合の書記長K君を連れてやってきた。四面楚歌になり始めた彼に声援が欲しかったのでしょうね。

そして「君はK町の運動をどうおもうんや」と聞いてきたのです。私もまだ若かった、思ったことを率直に口にしたから、K君はいっぺんにしゅんとなってしまいました。
「わしゃー間違うておる思うで、自分たちが正しい思うたら、全自労(全国自治労の略)に訴える前に、町民に理解をしてもらう運動をせにゃー、あんたらー誰から給料もろとる思うんならー」、今考えると随分思い切ったことを言ったものです。雰囲気が1遍に冷え切りましてね、睨みつけられました。そして早々に帰って行きました。
S君とはそれからも長い付き合いでしたが、2度とこの話が話題になることはありませんでした。もっと遠回しに言うべきでしたね。

勿論、この戦争はG町長の勝ち、赤旗の話はK町の恥とばかり、以後私の耳には聞こえることはありませんでした。

でも傷つけたであろう私の一言は心にずーっと引っかかっていました、町村合併で元K町の職員さんとも接触する機会が出来ました。ある時、気にかかっていたK君の消息を聞いてみました。彼は最後まで意地を通したといいます。階段下に机を与えられて定年まで勤めたとか。それが正しいか正しくないか、私には判りませんが人生は一度しかない、一度話してみるべきだったかと反省しています。

長い人間の一生、色々なことが起こります。本質を見誤ると一度しかない人生を社会の底辺で悔やみながら過ごすことになるかもしれない、誰にでもその可能性はあるのです。後輩諸君に申し上げる、人生の曲がり角に出会ったら、立ち止まって相手の立場も考えてみよう、それから前進する事にしようと。

今日はふと思い出した昔語りでした。

2012.5.21 見浦 哲弥

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2012年08月18日

新同行、善戦す

2009.5.6 亡くなられた、福住のおばさんを見送りました。

4年前、それまであった、お葬式の互助会、小板同行が労力不足と集落からの支援金の打ち切りで、どうせの事なら葬儀会社に丸投げをして集落は関わらないと決議をし、住居を移して来られた方の葬儀を強行して辛い思いをさせました。
その反省で新同行を立ち上げた経緯は、前回”同行崩壊す”で報告しました。

新同行になって福住さんで8人、私達が故人を見送りました。慣れ親しんだ身内の方の死は大小はあるものの、肉親の方には衝撃、それを少しでも和らげる役割は出来たのではないかと思っています。
今回の様に事故で肉親を失ったときは、お骨にするまでの時間を新同行が物心両面で支えて、気がついたらお仏壇の前に仏様が骨壺に入っていた。
それがどんなに有り難い事か、それは当事者にならないと理解できないことなのです。

実は私は36才で父を事故で失っているのです。

12月の雪の日の夕方、戸河内からのバスで帰宅した父は30センチほどの積雪の中、バス停から50メートルほどの自宅に帰る途中、小川に転落、死亡したのです。
一緒に帰った隣家に嫁いだ妹からの電話で家の周りを捜索をしてもいない、別に小川を探していた義弟の「いたぞ」の声で飛んでいった先は200メート下流の水の中、すでに死亡していました。

私は長男、父には兄弟はなく、亡母の姉妹は北陸、責任は全て私、どうすればと頭が真っ白になったのを覚えています。
家を出たときは80近くとは言いながら、元気な姿だった父が、物言わぬ姿になって目の前に横たわっている、今振り返っても何を考えていたのか、思い出せません。
 
当時、お葬式の時は両隣が願人として差配をするのが小板同行の定めでした。
「お寺さんへの連絡は」「親類への知らせは」「その前に葬式の日時を決めたら」、願人の問いに答えると、次々と人が動いて行く、日頃は何をするにも議論百出で動かない人達が水が流れるように。

もつとも、意見が分かれて折り合いがつかなくなると、口論が起きてせっかくのまとまりが崩れることもあって、それが後に同行の決め事を明文化しろとの命令が私に来ることになるのですが。

でも、父が死んで3日目に、父の骨を骨壺に納めて仏壇に返したときは、もう否応なしに踏ん切りがついていました。
振り返って悔やんでも、どうにもならない、残った者が頑張って、家を支えて行かなければならない、それが、どんなに辛い仕事でも、逃れるすべはないのだと。
 
人間が必ず出会う、大きな衝撃、激しく揺れる心の不安を、ささやかながら支えて上げる、それが同行の精神だと思うのです。

覚悟を決めることを、オリョウギを据えると言います。そのオリョウギが座るまで、支えてあげる、これが大切なんだよと、新同行の仲間達に理解して貰おう、言葉に出して訴えてみよう、そして理解して貰ったら、大声で「新同行善戦す」と叫ぼうと思っています。

2009.6.14 見浦哲弥
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