2018年04月06日

貴方は知っているか、集落那須

2016.11.24 かねて依頼されていた堆肥2トンを那須の岡田君宅まで配送する。
那須は県道296号線を国道191号線の戸河内の明神橋(コンクリート製の白い逆アーチの橋)を渡って大田川の分流を吉和村に向かって走る、深い峡谷の中を走る1車線の道路は約10キロで那須に向かう分岐点に達する、左の坂道を登ること1キロ、突然眼前が開けて南面の緩斜面、それが那須である。

那須には歴史がある。言い伝えによれば源平の合戦にも遡るという人もいて、平家物語の那須の与一が先祖との説もあるが、長い日本の歴史の中で敗者が安住の地を求めて辿り着いた秘境、その一つが那須の部落なのかもしれない。この近辺にはそのような話の集落が数多く存在するのだそうだ。

先日、買い受けた2トントラックの代金支払いをかねて岡田君宅を訪れたのだ。彼が林業会社を経営していた時に使用した車が不要になったため買い受けたもの。私が那須を最初に訪れたのは50年前の町会議員選挙に立候補した時、当時は20数戸の立派な集落で、突然あらわれた別天地に感激したものだ。

吉和村から流れる大田川の支流沿いの打梨から分かれる谷川沿いの杉林は長い歳月を物語る巨木に変化していた。そして現れた那須も家並みは昔のままでも、人影もなくひっそりと死に絶えていた。ただ岡田君の家だけが息づいているだけ。小板と違って残骸を晒した家は見えないが、無住の家々は生きることをとめていた。

私が最初に訪れた那須には小学校の分校があった。本校は本流沿いの打梨小学校、子供の声の聞こえる校舎前で選挙演説をした覚えがある。しがらみが存在した住民は家の陰など姿を見せずに聞いてくれた。姿を現してきたのは子供達ばかりだったな。遠い遠い那須の一つの思い出だ。

同じ崩壊集落でも小板と那須では大きな違いがある。小板も崩壊集落であることに違いはないが、別荘を含めると50余戸の住居がある。この数は、停電で電力会社に問い合わせて始めて知った数で、住民は別荘の正確な数は知らなかった。従って常住する住民の数は那須と大差はないが、休日ともなると人間の息吹が濃く感じられるのだ。
中国山地の同じような条件の集落が片や消え去る運命を感じるのに、片や何年かすれば何とかなりそうと希望的観測が出来るのは交通の便の違いだと思っている。

那須は道路のドン詰まりに集落がある。私が知る限り、このドン詰まりを解消しようとする計画が2度あった。一つはトンネルで恐羅漢スキー場の横川集落に繋ごうとする計画、この話は地元の反対で駄目になり、それなら横川林道に連絡する道路の建設をと建設が始まったが、時遅くバブルの崩壊で建設は中断された。

そしてドン詰まりの那須が誕生したんだ。時代が移り変わって自動車が普及して、整備された道路が居住の条件になった。そしてドン詰まりの那須は無住の集落へ追い込まれたんだ。私は内部事情を詳しくは知らない。私が20代のはじめ、那須には優秀な指導者がいたと聞いていた。残念なことに交通事故で亡くなられた。その後に我こそは御山の大将との目立ちやさんが指導者に据わって、時代を先駆ける先見性が持てなかった。友人の岡田君が懸命な努力はしたが彼が権力を得た時は再生のチャンスは過ぎ去っていた。

2016.1.1 中国新聞に連載”中国山地”が再び始まった。その第一号の記事が岡田君の那須の紹介だった。滅び行く集落の中で孤軍奮闘する岡田君夫妻の紹介と希望で記事が終わっていた。50年前の”中国山地”も深く読め込めば滅びの記録だった。なぜこの流れが続くのだろうか。この時代は市場経済なる怪物で動かされている。このシステムは、巨大な資本を持つか、たとえ小さくても彼らの一歩先を歩く以外に勝ち残ることは出来ない。世の中には経済紙あり、評論家の解説ありで、様々の情報は溢れていて、誰もが我こそは人よりも先が見えると自負している。小板も例外なく俺の方が偉いと自負なさる方の山積だった。そんな社会の片隅で岡田君は懸命だった。働き口を作るとて山仕事の会社を作り集落の人に働き場を提供した。
彼とは農協の役員として、農業委員会の委員として、何年か共に働いた。そして何度かあった改革のときの信頼できる友人だった。残念なことに彼が那須の指導権を握った時は再生の時代は過ぎ去っていたんだ。

自分がなくて、約束をを守る、そんな彼は戸河内町でも数少ない人材だった。田舎のボスの通例の地方政治には乗り込まず、ひたすら那須の人々の仕事場を確保することで那須を守ろうとした。が、時代は厳しい。タイミングを失した那須は彼の努力にもかかわらず、少しずつ力を失って彼1人の集落になった。私と同年代の彼は何時の日かの那須の復活を夢見て今日も頑張っている。

私は、その彼の健闘にエールを送ってはいるが。

2016.1.28 見浦哲弥

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詐欺台帳

過疎も進行すると様々な不思議が起きる。お年寄りや、寡婦の1人暮らし、多少、痴呆かと思われる家々に頻繁にセールスが訪れる。そして高価な商品やサービスを言葉巧みに売りつけてゆく。1人を断っても、日を置かず次の業者が現れる。根負けして、そのくらいの金額ならと妥協したら最後、とことんまで搾り取る。そんな商売が、この山奥の小板まで入り込んでいる。

ここでは某家と言うことにする。ある日仏壇の手入れなるセールスがやってきた。世間話の末に「仏壇を見せてくれ」と言い出した。ま、見せるだけならいいかと見せたら、延々と話が続きだしたんだと言う。気がついてみたら大金で仏壇の修復の契約をしていたとか。これはまだいい。修復された仏壇は見事に綺麗になったと言うから、まんざらの詐欺ではなかったようだ。金額は話してもらえなかったがね。

ところが、それから物売りのセールスが次々と訪れるようになったと言う。話を聞いていると何時の間にか買わされている。豊かでもない財布から虎の子が次々と消えて娘さんにも話せない買い物まである。さすがにご主人に先立たれて1人暮らしの奥さん、これは変だと気がついた。これは狙われている、あの連中は横の連絡があるなと。そこでテレビつきインターホンをつけ、在宅時は日中でも戸締りを厳重にした。ご当人、こんな田舎でも戸締りをしないと狙われるなんて、世の中どうかしてないかと、ぼやくこと。ところがあそこが駄目なら1人暮らしの老人宅はまだあると、他の家にセールスの訪問が多くなった。住民が減って世間話の相手がいない現在、口のうまいセールスにとって年寄りを騙すことなど赤子の手をひねるようなもの。今度は田舎に老人だけ置いている都会の子供達が神経を使っている。

幸いと言うと語弊があるが、現在の小板のご老人は、いずれも資産家でない。それでも危ないと、当座の生活費以上のお金は持たせないようにと、配慮する家庭が多くなった。若者は都会に生活の場を持つので、月の大部分は老人の1人暮らしなのだから止むを得ない措置であるが。

それでもセールスがやってくる。老人の家ばかり回る物騒な車がね。最近は詐欺師も近代的に進歩して手段も巧妙。ならばと、私達も見慣れぬ車が老人宅に長時間、停車すると車のナンバーを控えて対抗することにしている。デジカメやスマートホンの時代、イナカッペと馬鹿にするととんでもない仕返しが待っている。小板は老人ばかりだとあなどると痛い目にあうと予告しておく。身構えて対策を立てているのは一人ではない。

一時、無住宅の倉荒しがこの近辺を襲ったことがある。その頃は、この山の中まで泥棒がお出でになろうとは夢にも思わず安心していて見事にやられた。それまでは不審な車の長時間停車は関心を持たれなかったが、詐欺や泥棒の被害が出るに及んで、住民の目が厳しくなった。衰微したとは言え、長い間助け合った歴史は遺伝子の中には残っている。馬鹿は助けないが正直に暮らしている老人に手出しする奴等を、なんとか手痛い目に合わせようと、手ぐすね引いている人間が何人かいるのだ。小板を舐めないで欲しい。

そのせいで最近は詐欺師にやられたという話は聞かない。美味しい話が大好きという人達もいなくなって、年金暮らしの老人ばかりでは、労多くして・・・・という情報が出回ったのかもしれない。

それでも、見慣れない車が止まるとカメラを持った住民が物陰で注目する。
詐欺師諸君、小板は危険地帯に変身したんだ。

2016.1.4 見浦哲弥


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2017年10月14日

お祭りと饅頭焼き

2012.10.28 今日はお宮の幟(のぼり)建て、例年村祭り(11月2日)の前の日曜日が、お宮の掃除と幟建ての日である。去年は神楽団の長老が死亡したとて、神楽の奉納は中止だったが、今年は神楽があるとて、少しは明るい雰囲気だった。もっとも舞子は5人、いずれも広島在住、小板居住は60歳あまりの人が1人という現状では、今年が最後か?例年見浦家が勤めていた饅頭焼きは、去年の神楽中止を機に、もう止めようと話し合っていたところに、神楽団からも正式に中止要請があった。80歳になった晴さんにも、子育て最中の亮子くんにも無理、一つの時代が終わった。

饅頭焼きが始まって、もう20年になるか。祭りにやってくる府中の孫たちを見て、晴さんが言い始めた。「昔は神楽の晩には夜店が出てたな」と。私も記憶がある、神殿の前の大杉の根元にテントをかけて、たった1軒、露天のおじさんがやってくる。三国のお祭りの露天には比べるべきはないが、子供達には胸躍る時間だった。それが日中戦争が激しくなった頃なくなった。

敗戦で戦場から復員してきた若者たちが結婚して、子供たちが生まれて小板に賑やかな時代がやってきた。お祭りには夜店がやってきて、地元の堀田商店も饅頭を焼き始めて、小さな鎮守の森も神楽の夜は賑やかだった。

ところが日本の繁栄に逆比例して若者が減り、住所を都会に移す家が出始めて子供たちが少なくなった。外来の夜店はとっくの昔に来なくなって、堀田商店の饅頭焼きも赤字続き、集落の子供は10人ばかり、太鼓の音は昔と同じでも、寂しい村祭りが当たり前になった。

ところが我が家の晴さんは少々発想が違う、夜店がなくて寂しいのなら自分たちでやればいいではないか、子供たちに自分たちが味わった、神楽の晩の夜店の楽しさをプレゼントすればいい、プレゼントは商売でないのだから、利益が出なくても運営する方法があるのでは。

実は彼女が「考えたんだがのー」と話し始めたら大変で、先ず反論が出来ない、華やかではないがポイントを突いていて、なるほどと賛成させられるからだ。
何しろ、集落のことから、農協の理事、農業委員、PTA、まで、あらゆるところに口を出す、正論と感じると無視はできず、解決策を模索して奔走するのは私、長い時間の彼女との生活はこれで何度も泣かされた、饅頭焼きもその一つだった。

そこで条件を付けた、子供たちが負担にならない値段にする、専用の道具は買わないで家庭用の器具で間に合わす、利益はでなくても材料代だけは確保する、その条件を守るのなら最初の資金を見浦家で負担する事に賛成する、もちろん人件費は無償奉仕ということで。

もともと金儲けが目的の発想ではない、年に一度のお祭を楽しみの子供たちに神楽だけでなく、もう一つの思い出を作ってやろうが発想の原点、幼かった自分の思い出と重ねての提案だから、家内も私の提案を受け入れた。

世の中には発想は良くても現実が伴わないことが多い。晴さんの饅頭焼きもプラン倒れにならないかとを心配したのだが、もともと田尻一番の根性屋さん、言い出して走り出したら逃げ出すことが出来ない性質、問題が起きるたびに懸命に対策を考える、圏外の私としては、その熱意を牧場に振り向けてと口まで出かかったが、反動が恐ろしい、ひたすら見守るだけ。が、子供たちが、孫が動き出した、小板の祭りに帰るのは饅頭を焼くためと目的まで変わって男どもを除く見浦婦人同盟のお祭り行事として定着した。おまけに味もいいと評判、儲けは出ないまでもお祭りの神楽と言えば見浦の饅頭焼き、子供たちも小遣いを固く握って神楽の晩をまつ。が、それなりの時間が経過して彼女も年老いて気力が無くなった。我が家の孫達が小板神楽を見ながら見浦饅頭を食べる、そんな時まで頑張るが、続かなくなった。そして遂に中止、翌年か翌々年には神楽を奉納しようにも舞子の動員が困難になった。そして100年余り続いた小板神楽団も解散、お祭りの夜の太鼓も途絶えた。

時は農村の過疎を通り越して無住の集落が出現する時代、一時とはいえ彼女の努力は小板の河内神社の神楽の最後に花を贈った事になった。

あれから、もう10年あまりも過ぎたか、秋の村祭りの日は数少ない住民が集まって境内や内陣の掃除をするだけ、落ち葉を焼きながら昔は賑やかだったがと思い出話に花が咲く、それが何時まで続くかは誰も知らない。
そして晴さんの饅頭焼きも思い出の彼方に消えてゆく。

2017.5.24 見浦哲弥

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2015年02月28日

再び同行崩壊す

2014.8.15 とうとう同行が立ち行かなくなりそうだ。今度は組織の問題でなく、住民が同行を維持できる状況でなくなりつつあるのだ。
住民の不幸を分け合って助けると言う理念は、皆が持ち合わせている。しかし、若者がいないのだ。20代、30代の若者は言うに及ばず、40代の住民は我が家の若夫婦(?)だけだと言うのでは、お互いに助け合うという理念は維持できなくなったと言うことなんだ。

が、幸い、その若者が我が家族であることは、同行を最後まで続けられるということ、互助でなくても、仲間に奉仕することと視点をかえることで集落の住民が最後の1軒になるまで維持できる、その負担をするのが私の家族であることで心が休まる、他人に崩壊する小板同行を押し付けなくて幕引きが出来る、これも喜びのうちに数えることにしたんだ。
そして最後は家族葬、何時の日か小板の人口が増えることがあったら、そのとき同行を復活すればと、私のいない時代を夢見るのです。

群れとしての牛飼いにこだわった見浦牧場では、お互いに補完しあう牛達を見て暮らしてきた。集団で暮らす動物の基本は一匹では生きてゆけないが助け合うことで生き延びると言うことなのです。見浦の牛群が草を求めて群れで暮らしている姿を、「凄い」と都会の見学者が感心して見ています。
彼等が本能で作り上げた見浦牛の集団は小さいながら訴えるものを持っているのです。

2014.8.28 私より5歳も年下のN君が亡くなりました。小さな会社を経営していた彼の葬儀は、飯室の葬儀社の会館で行うということになりました。同行の一員として長年協力してくれた彼ですが、集落外の葬儀に同行の人員を派遣する先例はありません。まして同行のメンバーが老齢化して地域内の葬儀も苦慮している現状では遺族の要望に応えることは出来ません。そこで葬儀の日には世話人の私と協力人の島川君が参列して雑用をこなすことで了解を貰いました。
今回はご遺族のご了解を得てこの形で済ませそうですが、同行の有力な協力者を失ったことで、つぎの葬儀はどうこなすか対応策は苦慮しそうです。

いま小板には私より年長の人は3人、同年代が4人、他にも老齢者ばかりで、同行の幕引きが難しい。我家の若者たちが、この困難を軟着陸させられるよう、私の最後の智恵を絞ってみようと思っています。

2014.8.28 見浦哲弥


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2013年05月02日

選挙が変わります

小板は人口の減少で投票権を持つ選挙人の数が減りました。選挙毎に開設していた投票所の廃止統合の問題が登場してきました。役場が何時言い出すかと期待?はしていたのですが現実になると難しい問題を多く含んでいるのです。

数年前までは選挙人が50人前後いました。国政選挙、地方選挙の度に投票所が開設されました。長い間、松原小の小板分校が会場で、役場から選挙管理人が2名、地元から選挙立会人が3名が一日中、投票所に詰めるのが習わしでした。

道路が整備され自家用車が普及してからは便利になりました。敗戦後の選挙では選挙の前日、役場の職員が泊まりがけで、投票所の開設にやってくる。ベテランと新人がペアになって。小板には旅館はありませんから、宿泊所の斡旋も部落長(自治会長)の仕事、たいていは自宅に泊めてましたね。昔役場の職員だった老人の中には、見浦さんの家に泊めて貰ったと話す人が多かった。同年代の彼等に会うと見浦さん宅に泊めて貰ってと懐かしむ人に出会うのです。巨大な茅葺きの家で囲炉裏を囲みながらの食事、陸軍の将校で、県内、県外の長い教員生活をしてきた父の昔話は強烈な印象を与えたらしい。

投票が済むと立会人の長が選挙箱を封印して立会人が捺印、投票箱を役場まで搬送するのに一人が付き添う。開票所で選挙管理委員会に引き渡し書類に署名して任務完了となる。
小板は役場から距離20キロあまり、2時間の終了時間の繰り上げでも冬場は帰宅できない。確か役場の前の丸一旅館で一泊して帰宅なんて記憶もあるのです。
その内に役場も公用車が整備されて活躍を始め、徒歩での搬送はなくなったが、小板にやってくるのは悪路用のジープ、ガタガタ揺られてね、引き渡して帰宅するのは7時頃、元気な男性にお願いと言うことになる。
初めは少なかった日当も少しづつ増えて婦人や老人には、一寸した小遣いになる臨時収入、都合の悪い人が出たときは、それも配慮してお願いしたもんだ。が杓子定規が自治会長になると大変、家の順番は義務だからとどんなに都合が悪くても勘弁して貰えない、せいぜい次回と差し替えるが関の山、人に優しいとはどんなことかを知らない人もいました。

昔は立会人は余程の事がないと男性、男女平等は紙の上だけ、女性の発言が重みを増すにはそれなりの時間が必要だった。やがて女性が登場し、立会人は男性が珍しくなる。そして女性と元気な老人の独占場となった。そして過疎が進行、お願いする人にも事欠くようになり、投票場の廃止に繋がった。時は行政改革のまっただ中、一回に20万円もかかる費用の削減は格好の目標だった。

さて、新しい投票場は7キロ離れた松原、一軒だけの餅の木は小板からでも4キロはある、合計11キロ。自動車の時代とはいえ投票も大変になった。来月は小板投票所が廃止されて最初の選挙、安芸太田町の町長選挙がある。高率だった投票率がどの程度になるのか、これも少々気に掛かる。

2012.9.25 見浦哲弥

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