2017年11月07日

青年と話す

2012.4.5 家畜薬会社のセールスマンが訪ねてきました。担当の亮子君が(息子のお嫁さん)留守で誰もいない、やむ得ず相手をすることになりました。
少しばかりの世間話でお茶を濁すつもりが、彼が本気になったので、つい長話になってしまいました。今日はその報告です。

見浦牧場の事務所には、目下病後の子牛や母牛不具合などで離乳して乳牛のミルクで飼養している子牛が4頭同居しています。
それを見ながら、最近の和牛の品種改良の話から始まったのです。ご存知のとおり現在の和牛の世界はサシの追求一点張り、近親交配は当たり前、おかげで血が濃くなって、様々な弊害が出始めているのです。私達はサシはA3程度で、体力のある飼い易い牛をと、血の分散を考慮して交配、淘汰を続けてきたのです。長い年月が経って少しはそれらしい牛が出来るようにはなったのですが、種雄牛を作って独自の和牛を作るのには頭数が少なすぎます(母牛が80頭前後では)。従って市場で供給されている精液を購入するしか方法がありません。

日本の和牛は近代育種が取り入れられるまでは、母牛選抜と言う方法で改良されてきました。いい母親が出ると、それに評判のいい雄牛を掛け合わせるという、母親中心の改良選抜で出来あがった系列を蔓牛(ツルウシ)と称して大切にしました。その大先輩が兵庫県、有名な但馬牛はそれなりの長い歴史があるのです。
浅学をかえりみずにお話すれば、兵庫県に2系統、岡山県、広島県に1系統ありました。その後、鳥取県、島根県に突然変異の優秀なオス牛が現れて和牛界の地図を書き換えましたが。

しかし、時代は変わりました。人工授精という技術が開発されて、優秀な種雄牛の精液が手に入るようになりました。私が子供の頃は、小板にも松原にも種牛という県有牛がいましたが、見浦牧場を始めた頃は耕運機の普及に伴って廃止され、種付には隣の八幡村まで10キロの道を牛を連れて行ったものです。
時はあたかも牛の人工授精が普及を始めた頃、私達も懸命に技術を習得しました。でも最初は凍結精液ではありませんでした。加計にあった家畜診療所の冷蔵庫に保管してあるストロー入りの生精液を発情の度に取りに行ったものです。
やがて精液の凍結技術が開発され普及して来ました。でもそのボンベが外国製で十数万円もする。まだ為替が360円前後の頃ですから、貧乏な私達には高価でね。でもなくては仕事にならない、飛び降りる気持ちで買いましたね。

そんな牧場を始めた頃の苦労話をしながら、何故ここまで生き残ったのだろうかと、私の思いを話したのです。

失敗続きの最初、授精に来られた神川獣医さんに聞かれました。「直腸に手を入れた事がありますか」「獣医ではないので入れたことはありません」と何気なく応えると神川さんが烈火のように怒ったのです。最初は何故叱られたのか判りませんでした。呆然としていると怒りを抑えた先生が話し始めました。
「貴方は和牛飼育を仕事にすると言った。それはプロになるということ。初めから出来ないと諦めるのではプロの資格はない。挑戦して少しでも目標に近づく努力をする、それがプロ。子宮の状態を知るのは直腸に手を入れて直接触れるのが最良なんだ。それを獣医師でないからと最初からあきらめる、それではプロになれない」、同じような仕事をしてもプロとアマチュアでは心がけが違うと教えられたのです。
そして「40日後に妊娠したかを診にくる、その時君の判断を聞く、それが君のプロテストだ」と言い残して帰られたのです。

久しぶりの心の底からの叱責は、まだ若かった私を懸命にさせました。牛には気の毒だがこれも勉強と毎日直腸に手を入れて子宮を触りました。そして微妙な変化を読み取ろうとしたのです。最初は何も伝えてこなかった指先が10日もすると何かを教え始めました。日常的な変化と違う微妙な何かを。
40日が経ちました。神川獣医さんが来場されました。例の牛を枠場に繋いで直腸検査が始まりました。先生の次に直腸に手を入れた私に聞かれました「どう判定するかね」、「左の子宮角が少し腫れてます。妊娠プラスです」。何にも言われずに私の顔を見つめられた先生は、それから態度を変えられました。農家と獣医さんの関係でなく、畜産の師と弟子の関係に。自分の持っている知識を、私に植え付けようとするように。何年かして定年で故郷の山口に帰られた先生は、「見浦はどうしているか」と、気にかけていただいたとか。

職業人であることは、アマチュアで満足することではない、常にプロの道を歩き続けること。生きることの厳しさと、仕事に対する執着心とが必須であることを教えていただいた。
人生いたるところ、先生あり、そんな生き方が出来た幸せをかみ締めていますと。

そんな話をしたのです。熱心に聞いてくれた彼、私の気持ちが何処まで伝わったかな。今日は生き方の受け渡しをした報告です。

2012.10.25 見浦哲弥

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2017年05月07日

見浦弥七

彼は私の父である。従って貴方にとっては曽祖父ということになる。先祖というものは若い時は興味がないもので、私も祖父のことにはあまり知らない。まして曽祖父ともなれば、断片的な知識しかない。しかし、その遺伝子は私の生涯に大きな影響を与えたのだから、知らないということは残念なことである。それにようやく気がついた。そこで貴方が私の轍を踏まないために記憶にある父のことを書き残すことにした。貴方の記億の断片にでもなれば幸いである。

彼は明治20年に生まれた。父は弥三郎、一人っ子だった由で大切にされたという。見浦家は彼で8代目、血統が続いた点では小板では最古。ところが伝えられる歴史では2代ごとに栄枯盛衰を繰り返したという家柄、弥三郎は家運を盛り返した人で、弥七の時代は見浦家の頂点の時代、これが彼の才能を開花させた。

貴方は明治政府が初等教育の義務制を施行したことを知っているだろう。国の政策だから小板にも小学校がつくられ義務教育が始まった。明治の初めのことである。小板の小学校跡にある廃校舎は三代目、但し義務制は下等小学校と呼ばれた4年生まで、それからは加計にあった上等小学校に進学したんだ。但しこれは義務教育でなくて授業料が要ったらしい、それも4年制でね。勿論、中学校も高等学校も大学も存在したのだが山奥のどん百姓の小倅が行けるわけもなく、上等小学校で我慢した由。ところが寄宿舎がないので下宿、それでも卒業までは資金が続かなかったとかで2年で中途退学、従って正規の教育は6年しか受けていない。

ところが彼の祖父亀吉はは頭の切れた人で国道建設(191号線)のおり、県のお役人と渡り合って小板の集落をかすめて通す計画を集落を縦断させることに変更させたという、これが旧国道、当時は従前の権利が侵害されると新しい交通に反対する連中が多くて、鉄道が町から離れたところに通ったり、道路が集落を外れたところに建設されたりして後年に問題を残したところが多かったのに、彼は道路から離れた集落はやがて消滅すると、小板の真ん中を縦断させた。お陰で田圃を2分された農家が激昂して殺してやるといきまいたとか。弱小集落の小板が生き残ったのは彼の先見性のお陰だと思っている。ところが、そんな頭が切れる彼が文盲で字が読めない。息子の弥三郎は字が読めるのだが、一言居士(いちげんこじ)で親父のやり方が気に入らない。県庁や役場から文書が来ても「何とか何とかトー」と要点を言うのみ、文意のみでニュアンスも糸瓜(へちま)のない読み方、爺様、大いにむくれたのだが読めるのは弥三郎だけでは喧嘩にもならない。そこで弥七に勉強させて知識をつければ弥三郎に頭を下げずに済むと気がついた。亀吉爺様、家長の権威を発揮してこれからは知識の時代、弥七には勉強をさせると宣言、以来、どんな繁忙期も親父が「勉強をする」と言ったら仕事に出なくて済んだとか、私とは偉い違いである。もっとも頭の良さは、これから話すように抜群で天と地ほどの違いはあったのだが。

昔は満20歳になると兵役が義務で徴兵検査と称して体格検査がある。甲、乙、丙、と区分されて甲、乙に区分された青年は2年間の兵役につく。兵役にも職種があって、兵科というのだが軍隊が進歩するにつれて兵科も増えて、親父さんの兵科は工兵、今様に言えば軍隊の土建屋。
ところで話はもどるが彼は明治20年生まれ、従って徴兵されたのは明治40年という事になる。貴方も歴史で習ったと思うが日本がロシアと戦った日露戦争というのがある。極東に大きな国土を持つロシアが冬季も使える不凍港を求めてシベリアからの南下政策で当時の中国、朝鮮にまで勢力を伸ばし始め、日本の権益と衝突して戦争になった。GNPが6倍の大国と日本が国家の存亡をかけて戦った戦争である。当時、大連の近くにある旅順港はすでにロシアに租借され東洋におけるロシア極東艦隊の軍港として整備されていた。それを守る堅固な旅順港要塞、この攻略に乃木将軍指揮の陸軍が膨大の戦傷者をだしたのだ。当時の日本軍は指揮官が先頭に立って戦う戦法だった。従って将校の戦死者が続出、それを補充するために苦慮したんだ。将校は兵隊と違って養成に時間がかかる。そこで兵隊の中から優秀な人間を選抜して短期間で将校に仕上げる制度をつくりあげて対応したんだ。これを1年志願兵制度という。明治37,8年に起きた日露戦争から2年も経過した明治40年頃は将校の補充も完了していて、士官学校などの養成機関の卒業生などの正規の補充で事足りていたと聞く。ところが優秀な人材を発掘するという、この制度は日本が第2次世界大戦で敗戦になるまで存在したんだ。需要に応じて合格者を増減しながらね。

親父さんはこれに挑戦した。結果はその年、全国で3人の合格者のうちに滑り込んだ。何しろ徴兵されて2年の兵役がすむと階級が一つ進んで1等兵になって帰るのが普通。それからは赤紙と呼ばれた徴兵令状で軍務について階級があがる。ちなみに小板では伍長が最高位だった。当時の若者は小学校の高等科を卒業すると青年団なるものに入団、定期的に軍事訓練を受ける。そのときに在郷軍人と称して昔の軍人が階級章のついた軍服を着て指導にくる。普段は茶店の親父さんが軍服を着ると伍長さん、途端に発言に重みが増す、そんな田舎に2年で将校になって帰ってきたから大変だ。いっぺんに町内の有名人になった。
ちなみに彼の最後の兵役の位は工兵中尉、家の中にサーベル(西洋式の長剣)もあったし軍服もあった。今でも倉を探せば彼が学んだ軍隊の教科書があるはず、手榴弾の製造から爆薬の取り扱い、陣地の建設など興味を引く記述がある。

もともと勉強好きの彼が1年志願の合格で自信をつけた。そして教員の資格認定試験に挑戦したんだ。そして合格したのが中等教員数学科、これが彼に広い世界を見させたらしい。それからは暇があれば数学の勉強、後年、彼が口癖だった言葉は「数学は貧乏人の学問、紙と鉛筆があれば新しい世界をのぞける」と。
勿論、勉強の面白さに取り付かれた彼は小板を脱出、広島の第一中学校に(現在の国泰寺高校)奉職、小板の西岡の娘さんと結婚して牛田に住みついたとか。
当時の大家さんだった岡本のオバサンが言っていた。勉強に気がのると一週間も10日も一言も口を聞かなかったとか。最初の奥さんとは広島で死別。熊本の県立第一中学校に転勤した。しかし、その間の消息は知らない。そして福井の第一中学校(現在の藤島高校)に転勤、私が物心がついた頃は教頭先生だった。ある年福井で陸軍の大演習があり、福井城址にあった第一中学校の校舎が臨時の大本営(天皇宿舎)になって、接待係となって天皇(昭和天皇)陛下のお世話をしたと聞く。彼の口癖は昭和天皇は純真で気さくな青年だったと。後年、第2次大戦に参戦、内外の人々に多大の被害を与えた張本人という巷間の説に賛成の私を叱って、「軽々に人を判断をしてはいけない、彼はそのような人間ではないと教えられた。そして「私は3000人の青年を育てた教育者としての経験からも彼が戦争を指導したということはありえない、私の知る昭和天皇は正義感の強い純真な青年だった」と、この話が私の世界観に大きな影響を与えたんだ。
昭和14年、彼は県立三国高等女学校の校長に就任した。昭和16年、様々な出来事の末の圧力で退職するまでの2年間、私は三国で多感な少年の時期を過ごした。従ってこの頃からの父の記億は伝聞ではない。

三国の2年間で父には大きな事件が二つ起きた。その一つは生徒の女学生と他校の中学生との雑魚寝事件、当時の女学校には不純異性交遊は即退学と校則にあったそうで、それが発覚した。勿論、父は即、退学を申し渡したのだが、生徒の親が地域の有力者で内分にと圧力をかけてきたとか、こんなことが明るみに出たらお嫁に行けなくなる、何とかならないかと。父は校則は校則、たとえ有力者の子女でも特別ではないと突っぱねた。

翌年、三国の汐見というところにあった住居の周りに、目の鋭い刑事と警官がうろつくようになった。後年、父はそのときのことを話してくれたのだ。
昭和15年、アメリカとの国際関係が緊張を始めていた頃、学校に話を聞いてくれと大本教の教祖が訪ねてきたとか、父は外ではと校長室に入れて話を聞いたとか、ところが大本教は戦争反対を主張していた、時の政府、特に過激な軍部の注意団体だったのだ。その教祖を校長室に上げて話を聞いたのだから、尾行が本部に報告したのは言うまでもない。父としては正式に訪ねてきた訪問者に門前払いを食らわす非礼は出来ないと校長室で話を聞いた、当然の行為だったのだが、社会は父の常識の範囲を超えて暴走を始めていたんだ。翌日から尾行と、汐見の家の監視がついた。翌年の学期末、父は教職を辞した。54歳、定年にはまだ時間があった退職の裏にはそんな事情があったのだ。有力者の反感をかっていた父には抵抗するすべはなかったとか。
退職が決まった翌日の新聞には三国高等女学校長、見浦弥七氏勇退と大きな記事、あの勇退の大きな見出しは記億にある。

退職が決まってからの父は原稿書きに没頭したんだ。生涯の勉強課題だった数学の本の、題名は”非ユークリッド幾何学問題集”確かこんな題名だったと記憶している。もう物資が不足し始めていて用紙が手に入らない。ガリ版刷りで外装だけは印刷所の好意で製本してもらった。配達された本の山が玄関に積まれた光景は瞼に残っている。それを友人や学校関係に配って数学者見浦弥七が表舞台から姿を消したんだ。引越しの手伝いにこられた先生に、「父ちゃんが本を出したんだ」と自慢したら「私も貰った」と返事をされて誇らしかった。その年か母が難しい本を出して「これは数学の学会の本、ここに父ちゃんの論文が載っている」と話してくれた、「これで2度目なのよ」と。
この時のことは長く記億にあって後に聞いたら、一度だけ話をしてくれた。「俺は専門の非ユークリッド幾何学でアインシュタインの相対性原理の証明をしようとしたが、どうしても出来なくて、それが残念だった。当時の日本には彼の理論を理解できる学者が4人いたんだが、俺はそのうちに入れなかった」と。

父が小板を離れたのは17歳の頃、それから兵役が終わって一時期小板で生活した時があったが、間もなく結婚、そして広島の第一中学校に奉職し、牛田に居を構えた、出来の良すぎる一人息子のわがままを弥三郎爺様は止めるすべがなかったとか、時おり知人を頼んで様子を探らせたり、生活費を送ったり、陰では随分気を使ったと聞いている。
ともあれそんな按配で親父さんの農業は見よう見まねで経験がない。日本のように地勢や気候が千差万別のところでは耳学問や見よう見まねでは、成果は上がらない。弥三郎爺様、見るに見かねて口に出して意見をしたとか、折悪しく親父さんの退官を聞きつけた神戸の某私学から数学教官として迎えたいと校長さんが、広島からバスで5時間の小板まで訪ねてきた直後、「わしのやり方に文句があるのなら、また学校にもどる」と宣言されて、弥三郎爺様何も言わなくなった。翌年、母(淑)が亡くなって、半年後、弥三郎爺様が死んだ。そして素人百姓の父と小6を頭に5人の子供の大畠の悪戦苦闘が始まったんだ。

大畠に”上殿のオバサン”なる古くから手伝いに来るお婆さんがいた。田植えの季節になると何人かの婦人を連れて現れる、早乙女さんである。そして見浦の田植えが済むと蓑造りの材料になるコウラなる草の採集に来る。大畠には彼女のためのコウラ池(コウラをつけて腐らせるため池)があった。腐って繊維だけになったコウラを綺麗に洗って干して自宅に持ち帰って、冬の間にそのコウラで蓑を編む。北陸の藁で作った蓑と違って、上殿のコウラ蓑は軽くて耐久力と保温に優れて高級品、そんな関係で彼女には父も頭が上がらない、長い間のそんな関係で見浦家の内情は何から何までご存知、私たちが生まれるときも福井まで駆けつけて家の中の切り回しをしてくれた。母が亡くなったときも最後の看病の采配を振るってくれて、まさに身内の大叔母さん、それが父のにわか百姓を見てこれでは見浦家は滅びると感じたらしい。とはいっても子供は小学6年生が頭、他の子供はまだ幼い、そんなことは言っても背に腹は変えられぬと私の特訓が始まったんだ。今でも忘れないのが田植え、泊り込みの五月女さんは夜明け前に苗取りに田圃にでる、したがって起床は5時、朝飯を食って支度をして田圃に出ると、東の空が僅かに白みかける、寒い朝は苗代に薄氷が張っていて、最初の一足は身がすくむ、そんな田植えの季節が始まるとオバサンが「哲弥さん、起きんさいよー」と呼びに来る、父が起きるのは30分後、弟妹が起きるのはさらに遅い、幼い子供の食事を済ませて、親父さんがオドロを(小枝を集めた薪、木小屋という小屋に前年集めて乾かしてある)担いで来て畦道で盛大に焚き火をしてくれる、それが待ちどうしくてね、そこで冷え切った身体を温めて再び苗取り、この頃に地元の五月女さん達がやってくる、9時過ぎに朝飯、一日5回の食事、5度飯という制度、なぜ5度飯なのか訊ねたことがある、答えは貧乏な家庭では朝食を取らずにくる、手伝い先の3度の食事が全てなんだ、漬物と辛い味噌汁のおかずなんだが腹いっぱい食べられることが田植えの手伝いの要件なんだと、年配の五月女さんの間での田仕事は子供ながら社会勉強だった。

閑話休題、そんなわけで上殿のオバサンの教育は尋常でなかった、牛のロープ作りも、夜なべの粉挽きもオトコシ(住み込みの男衆)と同じ扱い、後年兄弟が「兄貴、よく知っているね」と感心してくれたが、それも彼女の教育のおかげなんだ。
当時、見浦家には雌牛、雄牛が一頭ずつ、たてがみが白と茶色の馬が2頭、の計4頭いたんだ。雄牛とは言え体が小さくても気が荒くてね、力はあるんだが言うことを聞かない。お爺さんが見浦で生まれたんだからと飼い殺し状態の牛だったが雄牛だから言うことをきかない。腹を立てると角を下げて向かってくる、住み込みの林蔵さんも雇い人の又一さんも怖がって、結局は小学生の私が使うことに、ムチで叩いたことのない私には仕事を止めようとゴネルことはあっても追っかけれることはなかった。ところが短気な親父さんは、歩かんのならこうするとムチで叩くもんだから、牛君言うことをきかない、仕事ははかどらない。結局、田圃で牛使いは私と言うことなった。動員で家を空けた1年、親父さんは、どうやって仕事をこなしたんだろうね。

とはいえ、私心のない親父さんには集落の揉め事が持ち込まれる。相続の争いから、浮気の始末まで、ただでさえ見浦の仕事が山積しているのに解決に走り回る。自分達が食料が足らないというのに、ジャガイモが少しばかり多く出来たからと疎開した家族に届けさせられたこともある。父が亡くなった後、そこの奥さんから「貴方のお父さんには大変お世話になって」と涙ぐんでお礼を言われた。でも人に迷惑をかけることだけは極端に嫌ったね。そんなわけで見浦家に伝統に従って衰亡の坂道を転げ落ちて、どん底から這い上がるという歴史の繰り返しが起きた。でも、どんな時でも、揺るぎのない信念で生き抜いた親父は私の誇りなんだ。

彼の人生の師が誰かは知らない。見浦家では勉強以外には特別はなかったと、借金の言い訳に新庄(今の北広島町)へ行かされた話は何度も聞いた「旦那さん今年はこれだけしか出来なんだけー、後は来年でこらえてつかーさい」の口上で。その悔しさが弱者への配慮になり、勉学へのバネになった。でも不器用な人だったな。

長々と父弥七の話を書いた。彼の全貌を伝えることは出来ないが一面だけでも理解してもらえたら望外の満足である。彼に較べれば私はとるに足らない人間だが全力をあげて生きたことだけは認めて欲しい。そして彼の遺伝子が私を経て貴方にも伝わっていることを忘れないで欲しい。

人生は長いようで短い。認められようと、認められまいと、全力で生きる。それが自然を神とし、父を師として生きた私からの伝言である。

2016.1.11 見浦 哲也
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2015年11月14日

他人に返せ

ご存じかも知れませんが、私の母方は越前藩の中級の侍で、祖父も祖母もその環境の中で育ちました。従ってその影響は孫の私にも及んで、武士は食わねど高楊枝などと、思い違いもしましてね。私の子供時代を知る人は、老人になった現在との違いに驚く事でしょうね。

あれは二十歳過ぎ、世の中の仕組みを教えてもらおうと、加計の前田睦雄先生に弟子入りしました。先生は、加計家、佐々木家、前田家、加計3名家の一員、政治的には左でね、日本社会党の地方活動家、何が気に入られたか自分の子供の様に可愛がって頂いた。他人に頼るなと侍の教育を受けた私は心苦しくて、ある時先生に申し上げた。「先生、もう結構です、こんなに親身にしていただいても、ご恩返しはできない」と。それを聞いた先生が怒ったこと、烈火の如くとの言葉がありますが、正にその言葉どおり、怖かったのを覚えています。

やがて怒りの収まった先生が、その理由を説明してくれました。「他人の善意に、返せないからと断る、それでは世の中は成り立たない、返せない善意は、必要とする他人に返せば良いんだ」と、商売と善意との違いが判らなかった私が新しい目を持った瞬間でした。

聖書に「自分がして欲しいと、思うことを他人にして上げなさい。自分がして欲しくない事は人にしてはいけない。」との意味の教えがあります。幼い頃、日曜学校に通って教えられたことです。(幼年期は福井市で育ちました)それを思い出したのです。

勿論、家族を抱えて生活していますから、私達の善意などささやかな物ですが、余っていて他の人が必要な物は差し上げてはと考えて生きてきました。
その一つが堆肥です。百姓には堆肥は大切な資源でした。昔は深入山の草刈り場に競争で材料の山草を刈りに行ったものです。
ところが牧場を始めて牛が200頭近くにもなると、年間で1500トン前後も出ます。材料の一部がオガクズや木屑に変わりましたが、よく腐らせると見事な堆肥になるのです。

私も人並みに欲張りですから、懸命に牧場に撒くのですが、天候や仕事の都合で幾ばくかは残るのです。それを皆さんに差し上げようと決めたのです。勿論、金、金の世の中ですから堆肥も有価物、金に換えて一円でも経営にプラスにしろと指導もありました。でもそれではお金に縁のない私達は受けた恩を返すことは出来ない、せめて堆肥ぐらいは差し上げようと言うことになりました。
ところが私達は大の金持ち嫌い、金を出すから積んでくれ、もってこい、儲かるんだから文句はあるまい、そんな人の気持ちも金で買えるという考え方が嫌いなのです。勿論、市場経済というシステムに首まで浸かっているのですから、そればかりでは飢え死に間違いなしですが、せめて一つ位は損徳抜きがないと人間ではなくなる、そう考えているのです。
話し合って私達の気持ちを理解した人は、気兼ねなく堆肥を積みに来る、こんな野菜が出来た、お米が変わったと見本を持ってくる、世間話で時間を忘れる時もある、山奥の小さな集落に住む私達が広い社会との接点を持つことが出来る、そんな効能をもたらしてくれたのです。

今年も堆肥の季節になりました。常連になった人達が見浦牧場を訪れてくれるのを心待ちにしています。お元気な近況を聞かせて貰えるのを楽しみに、おお待ちしているのです。
2012.5.8 見浦哲弥

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2013年03月02日

ドンベイと経済

市場経済という言葉をよく聞くようになりました。日本経済の基本で、政治も、商業も、農業もこの法則に従って動いているのですが、国民が正確に理解しているとは思えない。教育が悪いのか、マスコミの解説が下手なのか、もどかしく感じることがあります。今日はドン百姓の見浦が飛んでもない説明をしますので、笑い飛ばして下さい。

経済というのは、大胆に解説すると、生産から消費までの流れ、(主にお金と物ですが)を総称する事だと思っています。昔の小板でもそうでしたが、田舎では自給自足が基本でした(これを自給自足経済といいます)。必要品も出来るだけ自分のところで生産しましてね。
たとえば牛に使うロープ(牛綱と言います)、現在はKPロープとよばれるプラスチックの製品を使用していますが、子供の頃は春先に畑に大麻の種をまく処から始まって、お盆過ぎの刈り取り、蒸して皮をはぎ、水に晒して白い麻の繊維に仕上げるのです。麻(お)と言いましてね、ロープの太さに束ねて端を天井の梁に結びつけ、3人でかけ声をかけ合いながら力一杯、撚(より)をかける。撚りが弱いと柔らかい縄になつて役に立たない。牛綱一本でも飛んでもない時間と労力と技術を加えて作ったものです。牛綱1本でも大変な貴重品でした。
戦後は田舎でも、自給自足の経済から生産物の大部分を売却して、その代価で必要な資材を購入して、生活する交換経済に変化したのです。

ところが戦争中に施行された食料管理法(食管法)で基幹食料の米、麦は政府が全量買い上げ、政策価格で売り渡す方式になり、価格は需要供給で決まる市場価格ではなくて、政府が決める政策価格が何十年も続いたのです。その結果農民は、米価闘争をやれば価格が上がると政治闘争にうつつを抜かす事になりました。そして選挙の季節ともなれば東京に何万人もの農民や農業関係者(農協の職員)を集めて米価の値上げをぶちあげる、米価闘争が日常化したのです。
当時、私は戸河内農協の理事、理事会で組合長が「東京の大会に2名の派遣が割り当てられているので旅費の支出を認めて欲しい」と提案、その理由が「専業農家が多い農協は熱心なんだが、都市型の農協は米価が下がる方が組合員の利益だと消極的だ、が本年だけはもう一年と言うことなったので、認めて欲しい。」

こんな裏話のある食管法ですが、その最大のデメリットは農民が日本の経済の仕組みが市場経済に移行しているのに、その仕組みを理解しなかったことです。
物の値段は需要供給のバランスで決まると言うことを理解できなかった。米価は政府と交渉の結果で決まるもの信じ込んだ。その為には自分たちの息がかかった議員を一人でも多く国会に送り込むことだと思い込んでしまった。

ある年、小板の小学校で運動会がありました。小さな集落ですが、それでも生徒が30人ばかりいましたね。集落の全員が集まって、それなりに賑やかでした。
その折り、大人の賞品に即席麺のドンベイが出たのです。丁度普及の始まりで珍しかった。会が終了して後始末をして、残った賞品のドンベイを食べようと言うことになりました、お湯を沸かしてね。
一口食べた友人が言いました「これは旨い、なんぼでも食える」。
丁度、その秋から米の過剰を抑制するために減反政策が始まっていたのです。前述の友人口癖は「政府はけしからん、米を作るなとは何事か」。
便利で味のいい加工食品の登場で米の消費が減り国や農協の倉庫に米があふれて、やむをえず始めた減反政策、しかし、その本当の意味を農民が理解できなかった。自分たちはお米を食べなくなったのに、都会の消費者にはもっと米を食えはエゴ以外の何者でもありませんでした。

市場経済では、消費と生産が均衡するように価格が動きます。此の原理が理解できれば、このシステムの中では何が一番大切かが理解できるはずです。生産者にとって消費者の動向が、消費者からは生産者の現状を、それぞれ理解することが基本になっていることを。
ところが消費者は値段の安いことだけを注目して、どんな所で、どんなシステムで生産されて居るのかは考えない。明日も来年も10年先も生きているかも知れないのに、その時の生産はどうなっているかは考えない。農産物は足りないからと言って翌日から増産できるものではない。お米は1年に1作しか出来ないし、野菜も何ヶ月もかかる、まして田圃や畑が植物が育つようになるのには、何年も何十年もかかるのに私達は関係ない、である。
一方生産者は市場の要求だけに注目して、見てくれや外装だけにエネルギーを費やす。
農産物は命の源なのに、自家消費と販売用とは差別して作る。自分たちが食べるお米や野菜には堆肥を入れ農薬は使わないように努力するのに、市場に出荷する農産物は見てくれ重視、金肥ザグザグ、農薬たっぷり、そんな農民がまだ存在するのです。
市場経済では利益のマキシマムが正義だと教えます。それだけを、ひたすら信じ込んで、自分の利益だけで消費者のことは考えない、そんな人がいます。立場が変わると自分たちも消費者なのにね。

さて、市場経済の中で利益を上げるのには2つの方法があるのです。

1つ目の方法は競争相手より一円でも安く生産する、その為には小規模生産より大規模生産の方がコストが低い。当たり前のことですが農薬でも飼料でも1−2袋ずつ購入するよりも纏めて大量買いをする方が単位当たりの値段ははるかに安い。見浦牧場でも輸入の干し草は25トンのコンテナで、配合飼料はバラで5トン車が配送してくる。1−2頭飼いの牛飼いさんから見れば飛んでもない安さの値段です。それでも牧場の中では小さな方に属します。コストで大型牧場に競争するには力が足りません。

もう一つの方法は人より先んじる事です。これなら大牧場が同じ技術や考えを持つまでは競争相手がいないので利益を上げることができます。
見浦牧場のように資本力の小さい、土地が広くない牧場で生き残る為にはこの方法しかないのです。
ですから既存の後追いだけでは駄目なのです。学校での知識や専門書は基礎の基礎であって、それだけでは利益は上がらない、そこから一歩も二歩も先んじた分だけが、競争力になる、これが私達の考えなのです。

それならどうしたら、先んじることが出来るのかと、貴方は聞くでしょう。
それが、「柴栗と鉛筆」で述べた柴栗と鉛筆の理論なのです。

もう一度振り返って欲しい。消費者が何を望んでいるか、それを知ることは柴栗が何処で実っているかを理解する事。でも、それだけでは足りない、そこへ一歩でも二歩でも先にたどりつくこと。さもないと栗は人が拾ったあと、ゴミにもならないイガがあるだけ。先にたどりつくための方法は自分の足下にお手本があるのに気がついていないだけ。
繰り返しましょう。人に先んじること、その為には我が身を削ること。

今日の話しは、これまでです。思いが文章に伝わらないもどかしさはありますが、気持ちの一端でも触れて頂けたら幸いです。

2012.9.2 見浦哲弥




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2013年02月26日

柴栗と鉛筆

私が小板に帰った頃は柴栗の全盛時代、ベテランになると一日に30リットルも50リットルも拾う、ところが私が栗拾いに行くと空の毬(イガ)ばかりで栗がない、たまに栗に出会っても手のひらに一杯も拾えれば大漁、当時は藤田屋の婆様と住福の爺様が小板の名人として存在していた。
2人ともナバ(注:キノコの意)取りも神様で、あやかりたいと思っても遠く及ばない。ある時、名人の技を解説して教えてくれた年寄りが名人の名人たる所以を教えてくれた。ポイントを押さえた話で、目から鱗が落ちた。今日はその話しを。

栗拾いも人に先んじる事が全てで、その為には栗の木が生育するのはどんな所か、何処にどんな栗の木があって、今年の成り具合はと、日頃から観察するのだと言う。名人ともなると「そりゃー、よう知っとるけーのー」。
栗にも熟期がある。早生と晩生と、どんな天候で落ち始めるか、落ちる時間も日によって違うのだと教えられた。
そう言えば、栗林は東南面や北面の表土の厚い肥沃な所でしたね。谷によって差がありましたが、おまけに品種まであって、極めて行けばきりがない。名人はそれを全部頭に入れているのだとか。簡単には名人になれない。

藤田屋の婆様は、その日が来ると暗いうちから目的の林に行って待つ、明るくなると拾い始めて袋詰め、私達が山に入る頃は、袋詰めの栗を自宅に運搬中、大人と赤ん坊の勝負で問題にならない。
雨降りの朝は特に大漁で、そんな日は婆様も拾い残しがある。そんな場所に行き当たったら柴栗の絨毯で小さな栗は無視、そんなことが時にはありました。
それはまさに市場経済の成功条件、頭を使い、苦労をいとわない。誰もが知っていることなのに、気が付くのが少し遅すぎた。お陰で私は人生の終わりでもまだ成功していない。

ところが、世の中は名人の独走を何時までも許すほどヤワではない。20歳ばかり年下の住福の謙一爺様が名人を追い抜こうと登場した。婆様の技術を盗もうと虎視眈々、一寸した世間話にも頭を突っ込んでくる。元々頭のいい婆様、この野郎と気が付いた。
途端に柴栗やナバの話しはしなくなった。そんなことでは謙一爺様はへこたれない。今度はシーズンになると婆様の行動に目を凝らす。ところがそんなことはご承知の婆様、おとりの行動で粕を掴ます、夜明けの暗いうちに家を抜け出す。爺様はさればとて夜のうちから婆様宅が見えるところで番をする。婆様は跡をつけられたと気付くと目的地には行かない等々、丁々発止の知恵比べ。その内に若さの謙一爺様が少しずつ婆様に追いついた。そして小板は2大名人の時代に突入。一般人には運が良ければおこぼれがある、そんな時代が続いたんだ。

一歩先んじなければ何もない、こんなお手本があるのに、やり手を称する連中が、あそこは何々をして儲けたそうな、あいつは何々を売って成功したそうな聞くと、前段がなくて人真似のオンパレード、うまく行かないと運が悪いと他人のせい、そして失敗、倒産、そんな人が多かったな。

たかが柴栗、それでも換金するほど拾おうとすると努力がいる、勉強がいる。
最近は使われることが少なくなった鉛筆は、我が身を削って始めて字が書ける、線が引ける、削らなければ、ただの棒切れではないか。謙一爺様が藤田屋の婆様の行動を夜明け前から見張った努力は、是非はあるにしろ我が身を削った努力ではないのか。

ある時小板では勉強家?と称する人が訪ねてきた。彼は陸軍で下士官にまでたどりついた人、曰く「見浦や、お前は人のやらないことやって辛苦ばかりする。わしゃー利口なけー、人がやって美味いことが判ったことをやる」とのたまった。返事のしようがなかったね。
勿論、最後は倒産、現在は廃屋の痕跡が残るだけ。

今日は我が身を削って、一歩先んじる、市場経済の中で生き残る処世訓の話。

2012.9.3 見浦哲弥
posted by tetsu at 07:20| Comment(0) | 人々に学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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