2017年07月29日

(番外編)空から小板をみてみたら

空から小板をみてみたら、懐かしいものが見れるかも。

現在

過去を見るにはまず国土地理院の地図サイトでメッセージに同意します。その後、それぞれのリンクをクリックしてください。
1997(H9)
1993(H5)
1988(S63)
1976(S51)
1964(S39)
1947(S22)
1947(S22)その2




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2017年03月12日

ひろしま

2016.5.27 広島の平和公園にアメリカの大統領オバマさんがやってきて記念碑に献花して下さった。間一髪12時間の違いで命を永らえた私にとって感無量のものがある。

日本が暴走した2,26事件から我が家の近辺で起きた日本暴走の結果、内外の多くの人命が失われた。その張本人の陸軍の急進派の御大は靖国神社神社にいるというから日本人も狂っている。天下の秀才と言われた東条が2000年も続いたという日本を破壊して、他の指導者がそれぞれ自決して自分を裁いたのにピストル自殺の真似事ですまし、責任をヒロヒト天皇に擦り付けようとした、その彼を靖国へ祀るというのだから狂っている。陸軍きっての秀才と言われた彼の生き様は頭でっかちだけでは集団を指導し生き延びさせることは不可能だということかもしれない。自然の中で暮らしている牛群を見ていると利口な牛即リーダーでは牛がうまく育たなかったね。強さと利口と優しさと決断とのバランスの取れた牛がリーダーだと安心して見ていられたがね。

あれから70年、幼いながら戦前の広島を知っているし、(毎年夏休みには親父さんの勤務地の福井から小板に帰省していた。昔は2日がかりの大旅行、必ず広島に一泊した)戦時中の広島も陸軍の幼年学校受験の為、広島で宿泊した。原爆直前の広島に建物疎開の作業で県庁の講堂に泊まって10日ほど働いた。広島の原爆前日の夜広島を離れて辛うじて生き残った、あの一日の記憶は未だ新しい。そして原爆投下の3日後、一時帰宅を許されて帰宅の途中、乗換の可部駅で被災者を見た。駅前の広場や構内の貨車の中に並べられた数多くの瀕死の被災者や、死体を見た。「水、水」と微かに訴える声は未だに耳に残る。数年後小板にお婿さんに来た友人は動員で広島で被災者の死体処理で働いた体験を話してくれた。感情が麻痺して何も感じなかった、そして恐怖を実感するまでには長い時間が必要だったと。

牛田に住んでいた岡本の伯母さんは6日の朝、挨拶をしながら家の前を通り過ぎた人たちが15分もしないのに焼けただれた皮膚をぶら下げて幽鬼のような姿で「水、水」と訴えながら帰ってきた姿を忘れることが出来ないと話してくれた。それは地獄だったと。70年は草も生えないと言われた広島だが私が働いた1年半後,道端には雑草が生え、八丁堀から本道通りには、まばらながらバラックのお店が並んだ。現在、パン屋のアンデルセンのお店になった銀行の廃墟は無残な姿を晒していたが、広島は生きていた。もっともバラックの裏は水道の鉛管が幽鬼のように無数に立ち並び、傷んだ蛇口から水が無駄に流れてはいたが。

お店の坊っちゃんの子守で歩いた道端の本川小学校の地下室にはドス黒い水が溜まっていた。近所の伯母さんが「まだ何人も沈んでいるのよ」と話してくれた言葉は頭から離れない。
早朝、荷物を積んだ馬車が本道りを通る。その馬糞を素早く掃除するのも小僧さんの役目だった。でも日本人は凄い、復興し始めた広島は見る見る変化していった。夜学の途中の広島駅の変化は今でも思い浮かべることができる。でも裏道りは寂しくて怖かったね。
その広島が見事に復興した。廃墟の中にあつた原爆ドームは華やかなビル群に囲まれて感心を持つ人以外、注目をひかない。あの惨劇を思い出すのが8月6日の原爆記念日のときだけ、体験した人以外、あの惨劇は想像出来ないのだろう。

そして私の文章の中でも語られることが少なくなった。でも忘れてはいない。拙い私の文章の中の、あちこちに散見する戦争や原爆への思いを嗅ぎ取ってほしい、そんな気持ちでキーを叩いている。
2016.9.22 見浦哲弥

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2017年02月18日

嬉しい話(I工業奮戦す)

久しぶりに広島のI工業の社長が訪ねてきた。開口一番「見浦さん、経営が安定した」と嬉しそうに報告されたのです。
彼は60代、家族経営の小さな精密研磨の町工場の社長が、田舎の小さな牧場の爺様に会社の現状を報告する、何か変だと思いませんか。今日はその話です。

もう、何年になりますか、ひょんなことから、彼との付き合いが始まりました。
小板に別荘が増え始めて20年余り、小さな集落の小板に、もう40数軒にもなりますか。彼は遅れてやってきた別荘人、小板橋の近くにヒューズ社のキャンピングカーを据え付けて別荘人になった。
当時、私はその近くの今田さんの畑を借りて牧草を作っていました。この話は、その草刈の作業の休憩時に交わした世間話から始まったのです。

彼が別荘を持とうと思い付いたのは、仕事がようやく安定して利益が出始め、長い苦労のご褒美にささやかな贅沢をと思い立ったからだといいます。
そこで、かねてから付き合いのあった大野モータースの社長に相談したのが事の始まりで、彼の勧めで小板に別荘を持つことになり、キャンピングカーを据えて、小さな贅沢を楽しもうと思ったのが間違いの元だったと話し始めたのです。

長い間辛酸をなめて、ようやく摑んだ幸せにほっとしたのは7ヶ月間だけだったと、突如始まった赤字経営で、金策に四苦八苦するようになって、別荘なんて買わなきゃ良かったと後悔してるんだ、こんな話でしたね。

そんな時に、親しくもない私に内輪話を聞かせる、これは月並みな返事はできないなと思ったのですよ。そこで、腰を入れて聞き始めたのです。

彼の親会社は自動車部品のギヤを作るメーカー、そのギヤの最終研磨をするのが彼の工場、但し技術は最高で3/1000の精度があるんだと自慢していましたっけ。
ワーゲンの部品の加工依頼も来る、世界的にも認められているんだとね。
ところが時代は何が何でもコストの低減、人件費の安い中国に工場も仕事も移転する流れが起きたんだと、そ
して俺のような孫受け工場にも加工賃の切り下げ要請が続いたんだ、その挙句、仕事まで中国に持ってゆかれてな、偉いことになってしまった、こんな話でしたね。

ところが聞いている内に何か違うなと思ったのですよ。私の牧場は和牛肉の生産をしています。ところが仲間の農家は如何に高く売れるかと、そのことだけに血道をあげています。
その為には、ありとあらゆる手段をとるのです。現在の和牛肉の評価は肉の中に如何に多くの脂肪が入るか、その脂肪がいかに小さく均質に入るかで決まるのです。味でなく見た目の美しさでね。それがサシと呼ばれる評価法です。和牛の場合、A1からA5 の5段階評価、A5になるとA1の3倍以上の値段がするのですから、気持ちは判りますが、その為に牛の健康をぎりぎりまで追い込んで目的を果たす。

例えばビタミンAは脂肪の分解ホルモンの役割をします。サシは脂肪を筋肉の中に小さく均質に霜が降りたようにいれる、これが霜降り肉の語源です。ビタミンAはその小さな霜降りの脂肪を分解してしまう、だから人為的にビタミンAの欠乏症をおこさせるのです。和牛は肝臓の脂肪の中にビタミンAを蓄える力が大きいといいます。6ヶ月くらいは全くビタミンAを給与しなくても耐えるですが、それを越えると起立不能、視力低下、ひどい時は盲目になります。おまけに筋肉の細胞膜が弱くなり細胞液が流れやすくなります。その結果ドリップという肉汁が出やすい牛肉になります。それをいかに抑えて見事な霜降りA5肉を生産するか、それが腕の見せ所、それが高級肉だと評価され高値で売れてゆく、食品が味や食味に関係なく見た目だけで売れてゆく、それは間違いだと思うのです。

食べ物は安全で、美味しくて、リーズナブルな値段でなくてはいけない。恩師中島先生の教えを忠実に守ろうと努力してきたのですが、社会は見た目重視に変わった。でも諦めずに消費者の意識改革に微力を投じてゆく、これが見浦牧場の目標の一つなのです。

ところが社長の話を聞いていると消費者は全く登場しない。親会社の営業の仕入れ担当の事ばかり。少しばかり不自然でしたね。農業も工業も最終的には消費者が品質的に価格的に妥当と感じたら買ってくれる、そうやって経済が動いてゆく。仕入れ担当が動かしているのではないのに、仕入れ係が全て正しいと信じることが生き残ることに繋がるとは、私には理解できませんでした。
そこで聞いたのです。貴方の仕事が最終の製品の何処にどう繋がるのか、調べたことがありますかと。「そんなことは知らない」という返事を聞いて、こういったのです。

私達が作っている製品は最終的に消費者が評価する。いいものはいい、悪いものは悪いと、値段と品質とを吟味して購入してくれる。私達生産者はその消費者の意見をいかに汲み取るか、そして、いかに対応するかが事業の成否を決まると私は理解している。貴方とは仕事は違ってはいるが、長い目で見ると消費者の意見をいかに反映するかが基本ではないのか。中間の業者は生産者の代弁者に過ぎない。どうして貴方の仕事が最終の消費者のどの部分にどのように使われているかを知ろうとは思わないのか。たとえ下請けの孫受けであっても、その仕事は最終的に消費者が評価するのでは?、間接的だけどね、と。

それを黙って聞いていた彼は三ヵ月後に再び訪ねてきました。「どうしたい」と聞く私に「3ヶ月ほどセールスに各会社を歩いたよ」と答えました。消費者への対応は各会社の企業秘密の一つ、真正面から聞いても答えてくれるわけがない。それならどうするか、新規注文の開拓にと各会社をまわる分には警戒されないだろう。
一代で会社を興す奴は考えることも行動力も常人とは違う。「私のところは、こんな加工が出来ますがお宅の会社で仕事はないでしょうか」と、売込みをかけたそうな。本当の目的は他にあるのだから仕事がもらえれば棚ぼた、断られても話が聞ける、ヒントがもらえれば拾い物とセールスに歩いたんだと。

その最大の収穫は発注元の求めている精度は3/1000でなくて5/1000でも良かったということ。それなら合理化の余地はある、一括削磨でも対応はできそうと考えたんだという。「そこでな、システムを考え直してな、何個かを一度に研磨するようにしたんだ。システムは出来たがセッテイングが自動では精度が出ない。試行錯誤をしてね。ふと気がついたんだな、俺は熟練工の手を持ってるんだ、使わない手はないとね。熟練の腕と新しいシステムで加工したらうまくいってな。親会社の言い値でも利益が出てな。親会社からこの値でどうして利益が出るのか教えてくれときたんだ。どうしようか迷ったけれど、俺の腕は真似ができないはずと教えてやったんだ」と。

そこで質問をしてやった。「また調子に乗って1社だけの仕事をしてるんじゃないだろうな」と。「誰がそんなことをするかい。そしたら親会社が文句を言ったがな。他社の製品の間に仕切りを入れろといっただけ」と明るい顔でのたまった。

そんな親父さんを見て、サラリーマンの息子が、親父の技術がこのまま消えるのは勿体ない、元気なうちに自分の物にすると帰ってきた。そして俺の技術の上にコンピュータをのせてな、新しい加工法を開発していると、天国の顔をしていた。

明るくなった奥さんとの二人連れ「見浦さんは、まだようならんか」と自信を取り戻した顔のご夫婦を眺めていると他人の事ながら嬉しくなってね。私の小さなアドバイスでも少しは役に立ったかと。

しかし、見浦牧場は依然悪戦苦闘が続いている。昔の軍歌ではないが"何処まで続くぬかるみぞ”である、それでも私達は頑張るのだ。

2016.2.18 見浦哲弥

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2017年02月10日

稲作講座

物置がわりにしていた廃バスが朽ちて雨漏りが激しくなった。何とか整理をと気にはしていたものの、忙しさに取り紛れて放置してあったが、何の気の迷いか?整理を始めたんだ。
詰め込まれた様々な品物の中には古い雑誌も決算書も子供たちの教科書や通学服など、出るは出るは、どの品物も記憶があるものばかり。その子供たちも長女が60何歳、末っ子の和弥で50に近い。ずいぶん長い時間が過ぎたものだ。

その中に混じって私の稲作の専門書が現れた。半ば朽ちてはいるが、かろうじて表題は読める。60年もの遠い時間の彼方から記憶を呼び戻した本は朝倉書店の”稲作講座3巻”著者は戸苅義次・松尾田考領、両先生、分厚い本でね。確か価格480円。当時は小板の日当は400円。3巻ともなると崖から飛び降りるほどの勇気がいったものだ。でも、この本のお陰で小板では稲つくり1番になったのだが、本の丸写しでは成功しなかったろう。もう一つ”13度”に書いた小板独特の条件を見つけて付加したことが成功に繋がった。世の中、丸写しだけでは成功しないと教えられた一事でもある。

勿論読書だけで成功するわけはない。泊がけで通った西条の試験場での学習も大きな力になった。勉強は進学しなければ出来ないのではなくて、強い意志さえあれば、あらゆるところに教場はある。没落の家運の中でも学びの場を見つけだすことが出来たのだ。

勉強するということは人生の大きな条件の一つでもある。その結果が電気事業主任技術者検定に合格したのだ。環境に恵まれなくても、それを口実に後ろ向きにならなければ道は開ける。運が悪くて目指す道が閉ざされても再び新しい世界が現れる。俺は運が悪いと諦めるのでなく、一度きりの命、どこまでやれるか試してみるかと挑戦することで、新しい道が向こうからやってくる。人生とは不思議なものである。

その過程の私の道標の一つがこの”稲作講座”、私の大切な人生の道標の一つが遠い時間の彼方を蘇らせてくれた。朽ちた表紙が若かった私の生き様を語りかけて。
2016.10.29 見浦 哲弥

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2017年01月22日

5度飯

春が来て田植え時になると大畠(見浦の屋号)は5度飯になる。朝5時になると五月女さんの頭が(上殿のおばさん、大畠の女中頭みたいな人で親父様でも頭が上がらなかった)「哲弥さん起きんさいよ」と起こしに来る。泊まり込みの五月女さんの起床時間だ。そして、お茶漬けをかきこんで田植えの苗取りのために田圃へ出る。春とはいえ5月はまだ寒い。日によっては苗代は薄氷が張っていて、5年生の男の子には厳しい気象である。尻込みしても跡取りの男の子はこのぐらいは我慢しろと容赦はなかったね。

それにしても5度飯は都会の3度の食事が当然だった子供には異様だった。勿論、貧しい田舎のことである。漬物と自家製の味噌汁、5度の内、1度か2度、野菜の煮物があればご馳走の世界、魚や肉は盆と正月、食べられるだけ有り難いと思えの世界だった。でも腹が減らなくてね。

ある時、集落の会合で喧嘩があった。山国の例とて集まりの最後はドブロク(密造酒)で酒盛り。どうして、そんな話になったのかは覚えがないが、3度飯が常識の時代に5度目飯とは時代錯誤だと大論争になった。終いには殴り合いでね。会合はメチャメチャ、まだ少年だった私の目には異様だったんだ。

そこで親父さんに聞いたんだ。「なんで5度飯なん?」ところが親父さんの答えは予想外だった。「田植の手伝いに来る人は、家では朝飯を食べないで来るんだ。そして夕飯も家では食べないんだ」。小板にも水呑百姓と呼ばれる貧しい家庭がありました。その人達に配慮して5度、飯を出していたのです。そう言えば5度飯を主張した人はどん底を経験した人、時代遅れと攻撃した人は物持ちの若者でした。

それは人のプライドを傷つけないで人に配慮することの大切を学んだ第一歩だったんだ。

社会が豊かになり制度も充実して、その日の食事にこと欠く話は聞かなくなったが、社会弱者は何時でも存在する。そして相手のプライドを傷つけないで配慮する援助は何時の場合でも大切なんだ。

時代は進んで社会のシステムも生活も進化したようにみえるが、声高に正邪を論じる人が多くなった。そして5度飯のような見えない思いやりは日本人から消えた様に見える。それは社会が生き続けるための潤滑剤だったのに。
2016.10.19 見浦哲弥

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