2017年05月10日

年年歳歳花相似たり

和弥のお嫁さんの亮子くんは見浦牧場の大黒柱である。その彼女が後5年で50歳になると宣った。日々仕事に追われる毎日で自分の年を数えるのも忘れがちだが、歳月の扉は確実に時間を積み上げる。息子の和弥の所に半ば押しかけで来てくれた彼女、3人の健康な孫を見浦家に贈ってくれた、我が家の恩人である。

跡取りと思っていた長男がコンピューターの道を選んで九州で就職、会社の同僚と結婚、やりたい仕事が出来ないからと東京へ、そして40代でそのソフト会社の最年少重役に、彼は彼なりに自分の人生を追いかけた。

そこで後を継いでくれたのが一番下の和弥、ところが時は農村崩壊の始まり、妹が飛んできた「あんた気が狂うたんじゃ無いの、あの子は町でも食べて行ける頭を持っとる、こんな所に残したら嫁さんもおらんで」と。それでも親父さんが「見浦家が潰れる」と訴えた一言は重かった。そして彼は見浦家を継ぎ、亮子君は広島市から追いかけてきてくれた。そして3人の男の子を産んでくれた。それぞれ特徴のある子供たちを。長男は中学2年、私が動員で小板を離れた年になって、大人びてきた。

時は全国的な農村崩壊のとき、国内の食料自給率は30%あまり、1億人に及ぶ人口の食料の大部分を輸入に頼る危険は知識人でなくても感じているが、大変だの声は聞こえるが他人事のよう、戦後の食糧不足のときのような真剣味は感じられない。

農業の復興は人作りなくては不可能だと私は思う。農業の教育は高校から大学まで整備されてはいるが、知識の詰め込みだけで人作りには程遠い。長男の晴弥が九大の農学部に在学中に九大の実習牧場に行った折の報告が頭をよぎる。彼に九大は国立の有名大学、農学部なら研修農場がある筈、見浦牧場で未解決の問題のこれこれを調べてくれと依頼したんだ。ところが彼が報告して曰く、「実習に行ったら、場長が“ここは農業を教えるところではない、農業とはこんなものだということを伝えるところだ”と言った」とか、「親父さん、役に立つ話はなかったよ」と、そこで思い切ったんだ。習えるところが無いのなら自分で実証し教えるしかないと。学問のない1農民が挑戦するには、あまりにも巨大な壁だったが後へは引けない。お陰で家族を厳しい道に連れ込んでしまったのだが、やっとこさ、ここまでたどり着いて文章にしている。役には立たないかもしれないが、これは私の意地である。

幸い私の家族は、それぞれ気性は異なるものの、皆前向きの性格、有り難いことだ。彼等のこれからの人生を見ることが出来ないのが残念だが、生きてよかったと思える家族たちである。

年年歳歳花相似たり、歳歳年々人同じからず、長い年月この言葉を噛み締めながら生きてきた。大切な私の心構えの言葉である。

さあ今日も1日全力を尽くそう。同じ日は二度とは訪れない。明日は明日、今日は今日、前を向いて全力で生きようと、自分に言い聞かせている。

2017.2.6 見浦哲弥









































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2016年12月31日

私とお天気

昔は、といっても60年ほど前の話ですが、たいていの農家には牛や馬がいました。
ところが、この地方は中国地方でも有数な豪雪地、牛や馬を飼うといっても、冬場のエサが大変だったのですよ。
確かに、牛馬は草食動物ですから、周囲に繁茂している、あぜ草や野草、柴草を刈って食わすだけでも育ちます。春から秋口まではね。
稲刈りが済んだら豊富にあるワラがその役割を引き継ぐのですが、ワラは消化率が非常に悪い。確か消化率40何パーセントだったかな。ですからヌカ、ふすま、商品にならないくず米などを加えてやる。そして夏の間に作っておいた、山草やあぜ草などの乾草を食わせる。この量が多いと牛馬は元気で春を迎えましてね。

ところが、この干草作りが大問題、何しろ当地は中国地方で最高といわれる多雨地帯、お天気が続くのは、草の短い春先と8月15日のお盆前後の十日くらいと来るから大変、乾くまで3−4日もかかる干草を大量に作るのは先ず不可能でして、運が悪いと仕上がる寸前で雨、ひっくり返して乾かして又雨、なんて悲惨なことが起きる。
おまけに干草は1度雨に会うだけで養分の40パーセント以上が失われるとかで、2度雨に会った干草は牛は見向きもしない。
もちろん、ラジオの天気予報はありましたが、現在と違ってこれが当たらない。
特に夏場の短い安定期を過ぎると、天気予報は晴れなのに微気象的に雨がやってくる、深入山の頂上から見ていると、表側は晴れているのに、裏側は雨が激しく降りながら通ってゆく、そんな景色を何度も見ました、お天気は魔物でした。

ですから明日のお天気を占うのは大変で、まさか下駄を蹴り上げて裏表で決めるとまでは行きませんでしたが、えーいままよと干草刈を始める、その翌日が雨で、そんな事が多くありました。
ところが、ある日、遠い親戚のお婆さんが「雲が刈尾(刈尾山)から深入(深入山)へ流れると天気がようなる」と、教えてくれました、それから雲の流れに注意するようになりました。
確かに流れ方がお天気に関係があることは判ったのですが、流れる方向や、早さにも関係して、予測が6割も当たれば大当たり、でも下駄より遥かに進歩でしたね。

そこで、農業気象の専門書をとりよせて読みふけりました。ところが、義務教育の知識だけでの読みこなしは大変な努力が必要でした。
現在はテレビで時々刻々の天気図を見ることが出来ますから、大いに役だてていますが、ラジオだけの当時は自分で天気図に等圧線を書き込んでという、のめり込みまでは出来ませんでした。日々の生活に追われて忙しくてと、これは言い訳ですが。

ところが、この勉強は無駄ではありませんでした、思いもかけないところで役立ったのです。

見浦牧場も最初は水田1.5ヘクタールの米農家でした。小板は広島県の北海道と呼ばれる寒冷地帯、稲の品種も寒さに強く、病気にも強い、他では見られない特殊な品種でノギ(モミの先から出ている鋭い毛)の赤いアカヒゲ、白いシロヒゲ、ノギのないチョウシュウ、の3品種が見浦の稲でした、比較的多収でまぁまぁの味のアカヒゲ、ノギが長くて脱穀するのに力がいりました。収量がそこそこで、藁が比較的長くて(藁細工をするのに長さも重要でした)、でも脱穀は楽でした。シロヒゲは短幹ですがノギが落ち難く食味はよくない、でも比較的多収でした。最後はチョウシュウ、米はまずいは、収量は低いは、とんでもない品種でしたが冷害には滅法強い、冷害でシイラ(籾の中が空の事)しか出来ない年も、この稲だけは実る。この3品種での米作り、このほかにモチ米がありましたが名前は忘れましたが藁は長かった。

戦後、陸羽132号という品種が入ってきました。福井の試験場で開発された有名な品種で食味は格段に優れていました。ところがイモチ病に弱い、冷害にも弱い。
私が経営を担当してからは、小板に適した品種があるはずと奔走しました。なにしろ普及員さんが推奨する品種は戸河内の町中以南の平場に適した品種、海抜300メートルと780メートルでは北海道で関東の稲を作るようなもの、アテにならないと思った。小板の寒冷は戸河内では特別、自分で探すしかない、同じ努力をするのなら、少しでも多く取れて味が良くてと、新しい品種と追い求めました。農民は保守的な反面、大変な新し物好きなのです、とても臆病ですが。そして見付けたのは藤坂5号と八甲田という東北地方の品種、これは当たりましたね。種籾の分譲依頼が相次いで見る間に普及したのですが、国の普及員が渋い顔をしたのはいうまでもありません。

臆病ですがより多く収穫したいという欲望は農民の誰もが持っている願い、新しく導入した新品種が、少しばかり温度が足らないとなると、作り方も少しずつですが変えてゆく。
例えば、水を張っただけの水苗代が、表面に油紙を張って保温する保温苗代に、更には苗床の上にトンネルを作ってフイルムを張る保温折衷苗代にと、様々な改良をし工夫をして栽培法も改良する、そしておいしい米、増収と懸命だったのです。

進化の一つに病気の予防がありました。多収穫の品種は病気に弱かった、特にイモチ病は大敵でした。これは稲の熱病で非常に伝染性が強い、この病気にかかると稲の葉が赤くなって、最後にはゆでたようになって枯れてゆく、恐ろしい伝染病でした。穂が出る前に発生するのを、葉イモチ病と呼び、穂が出てからは穂イモチ病といいました。
葉イモチ病に罹らず、やれ一安心と気持ちを緩めた途端、稲穂が白くなって傾かない穂イモチ病、稲刈りをしてハゼ干しをして脱穀(籾を落とすこと)をすると籾が全部風に飛ばされる、僅かに籾入れに集まった籾も食べられるお米は入っていない病気の空籾だけという悲惨な結果になるのです。肥料を入れて良くできた稲ほどこの病気には弱かったですね。
ですから、当時のお百姓は山草を刈って牛馬に踏ませた厩肥(ダエゴエといいました)と下肥と呼ばれたダル(人糞尿)だけが肥料でした。この方式だとイモチ病の発生が少なかったから、収量も低かった。当然ですね。

そこへ、セレサン石灰と言う農薬が出ました。これがイモチ病に大変よく効く。ただし有機水銀剤で微量ながらお米に残留する、ある程度体内に蓄積するとイタイイタイ病を発症すると言う事がわかって姿を消しました。一時は日本人の頭髪に含まれる水銀量は世界最高と言われるほど使われたのです。

閑話休題、当時小板で使われたのは3キロ入りの粉剤でして、これを手回しのダスターなる送風機と薬剤の箱とを組み合わせた農機具で散布したのです。
農業普及員という技術屋さんが稲の葉の裏表に粉が附着するよう丁寧に撒くようにと指導されていましたね。
ところが、それが大変な労力でして、泥田の中の炎天下での重労働、全部の田圃に散布するのは大変で中々普及しなかった。2−3年後に動力散粉機なる機械が町の補助金付きで推奨され共同購入し、一気に予防が普及しました。
ところが小型のエンジンが付いたこの機械は薬剤を入れるとかなりの重量、浅い田圃ならまだしも、深い田圃になるとこれも悪戦苦闘の重労働でした。何とか田圃に入らないで全面に薬をまく方法はないかと考えましたね。

話は戻るのですが前述の穂イモチ病、この病気も稲穂が出る寸前と、開花が終了した時を狙ってセレサン石灰を撒くと、ほぼ完全に防ぐことが出来ると指導されたのです。
ところが出穂前の稲は60−70センチにも伸びて茂っている、茎葉全体に附着するように散布するは、言うは易すく行なうは難しでした。

農薬はある、散布の機械もある、後は新しい散布法を見つけるだけで、この病気は防ぐことが出来る、それを見つけることで小板でも米の多収穫ができる、必死でしたね。

ある夕暮れ、焚き火の煙が、たなびいているのをぼんやり眺めていました。何かが頭の中で懸命に訴えている、何かが。
煙が地表をある高さでゆっくり移動しながら下がっている、あれが農薬だったらいいのになと、”そうだあの煙の中に農薬を吹き込んだら”と思いつきました。
思いついたら即、行動が私の身上、すぐ機械を始動して農薬をたなびいている煙の中に吹き込みました。思ったように農薬の煙も地表に留まりながら下がってゆきました。
上手くいった、さてその理由はと、農業気象の本を読み返しました。今度は気合が入っていました。

貴方もご存知のように強風の日は別にして日中と夜間では気温に変化があります。陽が射せば地表の温度が上がり、暖められた空気は上昇してゆきます。夜になれば放射冷却で地表の温度は下がり空気は下降してきます。即ち一日に2度空気の向きが変わる時がある、そのとき空気が停滞するのです。そして上昇気流が下降気流に変わる時、短い時間ですが(15−20分)を狙えば田圃の中へ入らなくても農薬は撒ける、下降気流は天の助け、短い時間でも高い効率は人間にとってもプラスでした。もっとも少し遅れると稲の葉に露がついて薬害がおきましたが。

”大畠(見浦の屋号)が又オカシゲなことを始めて“と白い眼で見ていた周囲の農家も、効果があることがわかると早速まねを始めました。ところがその理論を聞きに来る人は一人もいない、「見浦に農薬を撒き始めたから家も撒かにゃー」で始めるのだから、貴重な時間が見る間に終了、上手く行かない。
一言「教えてくれ」が見浦には言い難かった、「ありゃー高等科も中退ぞ、あいつにだきゃー頭さげとうない」、私の態度が生意気だったのですね。

一冊の”農業気象”なる専門書、難しくて正直な話、ごく一部しか理解できなかったのですが、自然現象の観察と結びついて、農作業の効率化に役立った。
この小板でも高校の農業科を卒業した青年も2人いました。でも失礼なが゙ら学校で教えられた知識が実際の農業の中に生かされているとは思えなかった。学校で何をしていたのでしょうね?教える人がいなかったか?

ともあれ、あれから60年余り時間がたちました。現在はテレビで天気図や予報も何種か見ることが出来る、おまけにコンピューターの発達で正確度も100パーセントに近い、勿論、小さな集落の天気予報は完全とは行かないまでも生活や経営には大いに役立っています。若い世代は当然との事と利用してますが、前世代の私には驚天動地の出来事の一つなのです。今日は天気予報の昔話でした。

2016.2.16 見浦 哲弥

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2016年09月16日

マイカー

我が家の足はインプレッサ、彼は4輪駆動、多少ガソリン食いの傾向はあるが、豪雪地帯の小板では代えがたい能力の持ち主である。勿論、10年落ちの中古車、見浦家に住み着いて10年余りになる。マフラーが錆びて自家修理をしたが遂に新品に交換したと言うからその古さを理解してもらえるだろう。
貧乏の生涯だった私は、たった一度だけ新車を購入した。親父ドンが直腸がんで入院して小板の仕事と看病との二本立てをこなした時、当時の自家用車はマツダのR360と言う軽三輪トラック、新車の半額と言う中古車だから故障がなくて走れば幸運と言う代物。空冷のV型2気筒で360cc 12馬力、当時のマツダは営業用の3輪トラックから民生用の小型車に進出しようとしていて、そこで登場したのがR360。対抗車はダイハツのミゼット、こちらは同じ軽三輪トラックとは言ってもバーハンドル、サドルシート、単気筒10馬力、しかし、頑丈で荷物を積んでよく走る、猛烈に売れ始めていた。後発であるし同じ路線では太刀打ちが出来ない、そこでR360はデラックス路線で対抗したんだ。即ち、丸ハンドル、完全キャビン、2気筒エンジン、等々、これが当たっていっぺんに売れ行きを伸ばしたんだが、その代償は高くて故障続出、その中古車ときたら、まず非力である。公称12馬力が虫木峠を登らない、国道だよ?。チェンジをローにして引っ張るとエンジンがヒートして力がなくなる、こうなると道端で停車してエンジンの冷めるのをまつ、それを何度か繰り返して、やっと峠を越したんだ。当時のマツダはエンジンに関しては技術が低かったね。50年を経て日本の自動車会社の中で注目されるエンジンを何個か持つ現在からは想像が出来ないが。

丁度、父が直腸がんで倒れて広大病院に入院したんだ。かなりの手遅れで手術の成否が30パーセントの状態だったから、広島と小板と掛け持ちで飛び回った。その足がR360、何せ片道5時間ぐらいかかったからね、おまけに故障続出、仕事にならない。手持ちの金をかき集めて当時一番安かったトヨタのパブリカを購入したんだ。トヨタが大衆車向けとして設計した100パーセントの実用車、これは故障知らずで良く走った。今でも名車だとおもっているが、空冷の対向2気筒700cc、28馬力、前輪はトーションバースプリングで独立懸架で4人乗り、シートはハンモックで暖房は無し、徹底的に軽量化がしてあって走りは抜群で100キロ出しても怖くはなかったね。ただしエンジン音はいただけなかったね。ポポポと乗用車らしからぬ音がして遠くからでも音さえ聞けばパブリカと判る、そして空冷だから暖房が効かない、冬は寒くてね、しかし故障知らずの快適で親父の看病に通えたんだ。
その車重の軽さは雪の多い小板で抜群の威力を発揮して、スタッドレスタイヤ出現前の雪道は頼りになった。スノーチェーン装着で走るのだが硬い雪の上なら底まで潜らない、在来車が悪戦苦闘する横を走り抜けるという荒業が出来た、今でも傑作車だと思っている。
ところが、あのボボボという排気音は不評で販売は伸びなくて間もなく改良?普通の車になった。

新車に乗ったのはこの車だけ、あとは長い人生、中古車との付き合いばかりだった。御蔭で中には名車と呼ばれる車もあって結構面白い車人生だったが、現在は20年前のインプレッサ、基本設計の良さで傷だらけの車体が東奔西走、見浦一族の貴重な足をつとめている。

目下、見浦牧場には2トンダンプ2台、1.5トントラック1台、乗用車1台が活躍中、いずれも中古車であることはいうまでもない。

敗戦直後、数少ないバス便に乗り遅れて花見に来た消防車に便乗したことがある。デフのない昔のフォードでとんでもない走り方をした。それでも車の便利さを痛感させられて、どこへ行くのも2本の脚という当時の自動車は夢の機械だったんだ。あれから70年、日本には自動車があふれている。そして、その便利さを当たり前のように受け入れている。本当は、この時代に巡り会った恩恵として感謝すべきなんだけど、誰もそこまでは思いはいたらない。

今日も牛の出荷で三次まで高速道路を走る、当然のことのように。

2015.8.17 見浦哲弥

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2016年05月25日

めだし帽

めだし帽、近頃コンビ強盗の犯人が顔を隠すために愛用している帽子である。本来簡易型の防寒帽として雪国で愛用されてきた帽子なのに犯罪の必需品になるとは心外のきわみである。

例年、積雪が始まると作業帽が防寒帽にとってかわる。私の愛用品は昔、淑子が土産に買ってくれたアメリカ製の皮製の防寒帽、もう何十年も愛用している。さすが本場物、性能は私の防寒帽の中では最高品、猛吹雪の時はかかせない。次は大野モータースの社長がくれたアメリカ軍の払い下げ防寒帽、軍需品だけあって布製だが実用的には満足できる製品、もう10年余り使っている。

しかし、肉体労働の見浦牧場では冬でも汗ばむ、この点ではこの2品は多少問題がある。そこで、もう一つの愛用の防寒帽は国産のめだし帽。第一に値段が安い、おまけに軽い、そこそこに防寒である。もっとも雨には弱いが、これは数を揃えればいいと、私の越冬の目玉だったのに今冬は行方不明。仕方がないから前二者の帽子で我慢していたのだが、やはり不便、それが発見された。勿論しまい忘れ、老人のさがである。しかも何枚も発見されたから嬉しい反面、物忘れの進行を突きつけられて、こりゃ大変だと痛感した次第。

85歳ともなれば、肉体も頭脳も衰えるのは当たり前である。それが毎日6−8時間、時には10時間も働けるのだから「有り難い」と感謝しなければならないが、それと引き換えに貧乏と馬鹿正直を引き当てた。が、S君の言に従えば家族が健康で仲良くて、しかも三人の孫達が元気とくれば、この上のない幸せだと、この周りには、そんな家族は見当たらないぞと。

めだし帽が活躍するのは冬である。冬でも時期によって気象は様々、風が強い時はめだし帽では役に立たない。気温が極端に低い時は毛皮で裏打ちされたアメリカ製が最高だが、老人となった現在では帽子の多少の重さでも気になって、出来るだけ軽い方が作業をしやすいためだ。仕舞い忘れの目だし帽の出現で頭だけは豊かな使い分けができている。

ともあれ、防寒帽の心配のない春風の訪れを、千秋の思いで待ちわびている今日この頃である。

2016.2.17 見浦 哲弥

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2016年05月07日

オガコ一代記 敷き料おがくず変遷記

昔は、といっても私の子供の頃、家畜の寝床は刈草と藁(ワラ)を敷くと決まっていました。化学肥料などなかなか買えない農村が貧乏だった時代、肥料の主役は牛馬に踏ませて作った草や藁の堆肥(ダヤゴエ)が主役でした。
ですから、田植えが済んだら暇があると草刈、田圃の畦をはじめとして、家の周りの草地(勿論野草です)、草刈山の柴草(野草だけでなく、笹や萩や落葉樹の芽生えまで含めて)、ひたすらに草を刈る、草刈鎌もその土地、土地の鍛冶屋さんで使い勝手と切れ味が違う、おまけに研ぎ方で切れ方も違う、熟練が物をいう世界でした。

稲刈りが済むと敷き料には豊富な藁を投入する、ところが長いまま入れると、踏み固められてダヤゴエを掘り起こして橇(ソリ)に積むのが大変な重労働になる(重量物は雪を利用して橇で運ぶ、小道と細い畦道では重量物を多量に運ぶのは困難でしたから)、そこで掘り起こす専用のコエホリなる頑丈な三つ爪の鍬(スキ)が登場する、でも堀起こすのは重労働でしたね。

冬になって2月になると積雪も落ち着き、田圃も川も一面の銀世界、橇で何処にでもダヤゴエを運べる、なにしろ2メートルをこす積雪でしたからね、雪解けまでに運んでしまわないと川やら畦が現れる、毎日が戦争でした。もちろん吹雪の日はお休みでしたが、今度は屋根の雪下ろしが登場する。何日も降り続くと雪の重さで家が鳴りまして、こちらも戦争になる。さて田圃の真ん中に積み上げられたダヤゴエの山の大きさが、その農家の働き度の指針、隣よりも家のが大きいと鼻をたかくする、素人と子供が百姓の大畠では勝ち目がない、「道路から見ると大きく見えるように幅広に積め」と親父に言われたときは、本当に悔しかったですね。

その時代から20年近くたって本格的に牛を飼うということになって最初に問題になったのは敷き料でした。
でも、当時はまだ稲作が盛んで手刈でハゼ干し(細い木材や竹で作った何段もの干し場)が主役で稲藁は簡単に手に入りました。もっとも秋の晴天にどこの家でも一斉に脱穀(藁と籾に分離する)をする。藁は野天に放置されていましてね。雨に濡らさないで集めるのは一苦労でしたが、集められた稲藁は飼料に敷き藁にと大活躍でした。が牛の数が10頭を越すと充分な敷き料とまでは行かず、牛舎は糞尿で泥寧(ぬかるみ)と化し、新しい対策が必要でした。

当時も乳牛は多頭飼育が当たり前でした。ところが搾乳牛は敷料を敷かない、コンクリート床か木床、後に厚いゴムマットになりましたが、糞尿分離で繋ぎ飼い、尿は流れて溝に入り尿溜めに、糞はバーンクリーナーなる機械で自動的に集められる、見学に行くたびに羨望のまなざしで眺めたものです。もっと子牛を生む時は分娩房に入って、ここには敷きわらが敷いてありましたが、見浦牧場の参考にはならない、中身のない頭をしぼりましたな。
ある日、ふと見た農業雑誌の片隅に読者の投稿が眼に止まりました。畜舎に厚く川砂をしいている、尿だけ浸透して糞尿が分離できるとの文でした。糞だけなら自然乾燥で処理が楽になったと、小さな農家の思い付きだったのでしょうが、妙に気になりました。
ところが、小板では砂は貴重品、小川の小板川では川泥はあってもモルタルに使うほどの砂も手に入りません。40キロも50キロも下流から運んでもらう高価な品物、とても敷料に利用するのは無理でしたが、あるとき学校の砂場が頭に浮かんで来ました。走り幅跳びや三段跳びで着地する砂場です。そういえば小板に来て驚いた事の一つだったな、砂のかわりにオガクズが厚く敷いてあった。

そうだ、砂の代わりにオガクズを敷こう。早速、戸河内の製材所にかけつけました。幾らでもあげる、実は始末に困っていたんだ、あちこちの畑の隅に置かせてももらったり、山に捨てたり。
実は私も20代のはじめ丸鋸の簡易製材をしていたことがあるのです。出てくるオガクズは厄介者、大水が出たときに溝に流し込んで川へ放流、現在なら警察沙汰、なにしろダイナマイトを淵に放り込んで魚をとるなんて、無法がまかり通った敗戦の頃でしたから。
それでも、移動製材とも呼ばれた簡易製材は周囲に立木(リュウボク)が゙なくなると、後にオガクズとコワと呼ばれる木切れの山を残して移動してゆく。オガクズの処理が問題になったことはありませんでした。

ところが、帯鋸と動力の送材台車が導入されて、中小の製材工場が設立され、精度と能率の劣る簡易製材は姿を消したのです。しかし、定置式となった製材所から排出されるオガクズの処理が問題になり始めていたのを私は気がつきませんでした。畜舎の敷料としてのオガクズの利用は、私たちにとっても製材工場にとっても利害が一致したのです。

利益に結びつくとなると、新しい技術の波及は電光の速さでひろがります。畜産屋が製材所に殺到して、取りにいってもタンクが空ということが多くなりました。私たちも対抗策として木工所も集収先として次々と開発して行きました。機械カンナのカスや丸棒削りのカス等、オガクズとは劣る木屑も利用するようになりました。工場の外に山済みするよりも見浦を利用する方が得と工場側も積極的になってくれました。

が、オガクズが容易に手に入ることを知った畜産家の中には、冬は畜舎の暖房に使えると考えたのです。敷料だけでも冬場のオガクズは使用量が増えます。その上、暖房に使用されて冬場のオガクズが取り合いになりました。ところが夏場は不要です。そのご都合主義に製材工場が悲鳴を上げました。
「見浦さん、夏場のオガクズを引き取ってもらえんか」
「取るけど、要る時は貰えんで必要が少ない時だけ処理しろというのは、少し無理と違うか」
「無料というので、勝手に積んで行くんで、どうもならん」
「それなら前金で年間幾らで全量を買い取る、それなら他人のオガクズを勝手に取ることは出来ないはず」
「うまい考えだ、それで行こう」
「では最初は年間前払い5万円で全量買い取ることに」
「よろしく頼む」。

他の工場では木屑のタンクが満杯になったら1時間以内に必ず引き取りに行くと約束したりして、実行しました。約束ですから不要のオガクズは牧場の片隅につみあげたりして、5年も経つと見浦はあてにできると評価が確定しました。なにしろ、タンクが満杯でと連絡しても「今日は忙しい」と返事をする畜産家もいたそうで、ますます信用が高まって20年くらいは敷料の心配はしなくて済んだのですが。

ところが日本経済が発展するに連れてオガクズの環境にも変化が起きました。まず、簡易製材が姿を消し定置型の製材工場が旧町村ごとに現れました。その工場に山積みされていた国産の松や杉の丸太が消え、直径が1メートルもある外国の丸太が何本も置かれるようになりました。そして身近なホームセンターに製材された輸入木材の製品が並ぶようになりました。
森林組合の年間報告書に国産材の使用が20パーセントに落ち、外国からの木材製品に置き換わったと記されるようになりました。製材所の丸太置き場に山積みされていた外材も見られなくなり、次々と製材工場の廃止が起き、とうとう大田川流域の区域では1箇所になってしまいました。しかもフル操業をするほど原料が集まらない、従ってオガクズも手に入り難くなりました。もっとも近隣の牧場も廃業が相次いで、見浦牧場が生き残っているのが話題になる現状でしたから消費も減ったのですが。

しかし、需要があれば供給が必要、そこに商売が発生する。廿日市に木材港と呼ばれる輸入木材の拠点があります。したがって大規模な製材工場もある。思い余って電話をしてみたのです。担当者いわく「発生単位が大きくて、小さな個人牧場は対象にしていない。しかし、貴方が望めば搬送業者は紹介できる」と。勿論、お願いしました。

そして、連絡してきたのが、4トントラック1台で営業している Oさん、お会いしてみると、気さくな人のよさそうな運転手さん、専用の車で23リューべが2万5千円、ためしに1台御願いすると最高級のオガクズが納入されました。そこで毎月1台で契約、現金決済というのは辛かったがオガクズの心配はなくなりました。従前の引き取り先も減少したとは言えオガクズは発生していましたから。
ところが安定していたのは2年くらいだったかな、日本経済が混迷してデフレになっちゃった。おまけに政治が右往左往、適切な対応が出来ないものだから、経済も縮小するばかり、中型や大型まで製材所が廃業してゆく、したがって、ここでもオガクズの取り合い、価格がみるみるうちに高騰、4万円になって、それでも計画どうり納入してくれれば、我慢するのだが、納入が2ヶ月おきになり、3ヶ月ともなると対策を立てざるを得ない、本気になりましたね。

最初に考えたのがチップ工場、様々な原木を粉砕して製紙工場に原料として納入する、その際発生するのがダストと呼ばれる微粉と木の皮、これが代用にならないかと。勿論、オガクズに較べれば効果は数段劣ると判っていましたが、高騰を続けるオガクズにはもう頼ってはいけないと。ところが吸湿性がよくない、したがって多量に投入する必要がある、購入場所が往復で70キロと今までの倍の距離、欠点を数えればきりがありませんが、オガクズの代用が出来るかどうかが重要な点でした。

思い立ったら実験するのが見浦牧場のいいところ、牛は迷惑でしょうが直ちに実施、敷料としての厚さ、オガクズとの併用、単独使用、そして使用済みの敷料の発酵の状態、やることは山ほどありましたが、いずれも時間が必要な条項ばかりでした。

テストを始めて1年が経ちました。吸収力は劣るものの、多少は糞と尿が分離するので、案外敷料の役割を果たしてくれる、ことに木質部のオガクズと違って皮の部分は腐りやすいこともあって発酵も良好でした。ただ粉砕し切れなかった木切れが混在する、この堆肥を機械で圃場に撒く事ができるかが課題として残りました。しかし案ずるよりは行うは易くで、機械は順調に散布してくれました。もっとも大きな木片は手で拾いますが。

次から次へと新しい問題がおきる見浦牧場、でもまだ挑戦するエネルギーが残っているようです。

今日も巨大製材工場のオガクズを満載した巨大トラックが島根の巨大牧場へ見浦牧場の傍らの林道を疾走してゆきます。その巨大に抵抗して、ささやかな見浦牧場が智恵で対抗しています。そんな見浦牧場に理解と声援を御願いしたいと思うのですが。

2013.9.10 見浦 哲弥
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