2017年07月23日

牧場の親父の社会構造論

もう50年余りも牛を飼っています。しかも放牧形式の集団飼育で、この方式の飼育形態は日本では数少ないのではと思っています。
近辺でも見浦牧場のような小さな牧場から中山、松永のような大牧場まで大小様々な牧場が存在しています。
私が生きたこの中国山地でも大小様々な形態の牧場が設立され消えて行きました。辛うじて生き残った牧場の一つ、見浦牧場が生きている日本社会の仕組みを、牛を飼う生活を通じて考えて見たいと思うのです。
最初の2頭から現在の180頭まで増えてゆく過程の中で、彼等が群れを作る仕組みや、集団のルール、ツキノワグマから身を守る護身術、等々、生きるための変化を作り上げて行きました。そんな彼等を見ていると人間も教えられるところが多々あるのです。今日はその話を聞いてください。

牛は集団で暮らす動物で厳然たる順列がありますが、その一生をよく見ると、生後12ヶ月くらいの所に境があります。それまでは、はっきりした順列が無いのです。勿論、餌を食べる時は力の強い子牛から食べ始めるのですが、横合いから小さな子牛が割り込んできても頭で押し出すくらいで、追っかけていじめることはありません。ところが12ヶ月を過ぎると押し出すだけでなく後を追いかけて順列を守れといじめるのです。
牛の世界は厳しい順列の世界、その能力と力で決まる順列を守ることで集団の中での生活が許される、そんな厳しい掟で集団が維持されている。注意深く観察すると他にも数々の掟があり、それを守ることで集団で暮らすことが許される、牛はそんな掟を守る集団なのです。

ここ小板はツキノワグマの生息地、近隣の山林が人工林に変わって、自然の食料が減りました。一方、登山客やトレッキングなど観光客が増加し、弁当のなどの残り物の味を覚えて集落の近隣で生活する個体が増えました。彼等は生きるための知恵を持っています。知能も体力も野生動物の中でも図抜けて高い。他の文章で報告した様に見浦牧場でも被害が出ているのです。

もともとこの地帯のツキノワグマは性質が温和と言われています。
天候が良くて、山にドングリや柴栗が豊富で食べ物が充分あれば、牧場の周りで気配は感じても、牛の餌を狙って畜舎や倉庫を荒らすことはありません。
ところが自然は時々悪天候も贈り物とする。山が不作で食べ物がなくなると彼等の頭がフル回転をする。生きるためにね。人間の周囲に現れて、農作物を狙い、果樹園を荒らす。そして畜舎に侵入して牛の餌を横取りをする。それでも足りない時は倉庫を壊して餌をあさる。

十数年ごとに、極端な悪天候がやってくる。輸入や備蓄の取り崩しなど、人間は生きるための手段を持っているが、それを持たない熊君は最後の手段として牛を襲うのです。

襲撃されて死亡した牛は、これまでに7頭あまり、食われたのは2頭ですが、追い回されて暴走して死亡、恐怖のショック死など死因は様々ですが、この50年間にかなりの被害がありました。

ところが牛も知能が高い動物、熊に対する恐怖は集団の中に知識として蓄積されて弱いながらも対抗する方法を編み出しているのです。
まず、1―2頭で行動することがなくなりました。近くで熊の気配を感じたら集団が大きくなり、一箇所に留まる時間が短くなります。たとえ美味しい草があっても絶えず移動します。そんな集団の行動を見ていると、熊がどの方向にいるのか、近くなのか、気配だけなのかが判るのです。
もっとも乳離れをしたばかりの子熊だけの時は集まってからかっていましたから、危険に際して彼等なりの判断を持っているようで、さすが高等動物と変な感動をしたものです。

朝夕、牛を見ながら生活していると、人間と同じように個体によって少しずつ性質が違います。優しい牛、気の荒い牛、仲間をいじめる牛、いたずら牛、など様々です。
ところが注意深く見ると、いじめる牛の集団は小さくて、いいリーダーで優しい牛の集団は大きくなるのです。

思い出すと見浦牧場の最初は1―2頭飼いの農家が生産した子牛を買って初めたのです。放牧しても夕方になると人間が集めて畜舎に連れて帰らなくてはなりませんでした。そして10数頭に増えた頃も夕方の牛集めは仕事の一つ、しかも何頭かは別行動、広くもない牧場を探して歩くことが日課でした。
ところが何時の頃からか、この作業がなくなりました。別行動の牛が出ても数頭以上の集団を組みます。熊の被害が出始めた頃からですね。

彼等は自然の摂理に從って行動しているのです。1頭でいる時に襲われたら100%殺される。ところが集団が大きいほど、殺される確率も確実に小さくなる。そして集団の大きさを、リーダーの優秀さと優しさが決めている。この法則に気付いた時は驚きましたね。動物の本能は人間の教科書より素晴らしいと。

戦後の日本経済の高度成長で道路が良くなりました。生活も豊かになりました。市場経済の恩恵を受けて一般の人達も、それなりの恩恵を受けました。そして、すべての事柄をお金に換算して利害を判断する悪しき考えが常識化しました。田舎から思いやりや、助け合いの精神が消えて、「なんぼ呉れるんなら助ける、儲けにならないなら、わしゃ知らん」などとぬかす奴まで現れて、殺伐な雰囲気が流れることもある、そんな時代になりました。

私が「ヒューマンリング」に書いた当たり前の人助けが美談となリました。文章「同行崩壊す」を読んだ人が感心して、これでないと田舎は成り立たない言ってくれました。当然のことが忘れ去ろうとしていると。

イギリスの産業革命をもたらした原始資本主義は極端な格差を生み出して、底辺の人達は基本的人権まで否定されました。この問題を理論的に論破したマルクスの資本論は議会制社会主義と一党独裁の共産主義の政治体制を生み出しました。しかし、70年余りの共産主義の政治体制は崩壊し、人間はひとつの枠、ひとつの考えに押し込むことは不可能だと答えが出ました。
そして時代はアメリカの修正資本主義、全世界がこのシステムに飲み込まれました。しかし、メイフラワー号でアメリカに移住したイギリスの清教徒のグループは資本主義の欠点を聖書の教えでカバーしようとしました。それが世界に修正資本主義を広める要因となりました。
が、日本人はキリスト教と資本主義の微妙なバランスで成り立っているアメリカの方式を宗教抜きで導入しました。いや日本の宗教家がことの本質を理解しないまま、政治に結びついたり、在来の殻にこもったりして新しい役割を担うことを放棄してしまった、私にはそう感じるのです。

敗戦から70年、都市には高層ビルが林立し、新幹線の高速運行は当たり前に、高速道路と自家用車は当然の必需品になりました。そんな豊かな日本なのに、何かが欠け、何かが間違っている、それが私の文章が思いもかけない人達に読まれ、感銘?を与えている原因では、そう思っているのです。

私は昭和29年に日本社会党に入党しました。「格差のない平等な社会」のモットーは、動員で強者が弱者を搾取する現実を少年の目で確認した私には魅力でした。が、この組織の中にも様々な格差があり、差別がありました。
広島であった若手党員の研修会で当時の江田書記長が会の終了後、取り巻きだけを連れて街に繰り出して行った時、理想と現実のギャップを感じたものです。

ある時、県本部に前田先生(山県郡の活動家の大先輩)のお供で立ち寄った時、呉の市会議員の立候補者と立ち話をする機会がありました。「どうして社会党ですか」と、お聞きすると「選挙で票が集まるから」と当然のように答えられた。思想信条が同じだからという言葉を期待していた私にはショックでした。左の人間でも目前の利益が優先するのだと。

しかし、前田先生は私心のない人でした。正しいと信じたら利害は思考の外でした。そのせいで加計町の3大名家の一つと評された前田家が崩壊したのですから、その生き方は私に影響を与えました。弱者に助けを求められたら全力を尽くせと、前田先生、私の親父さんなど、私は何人かの素晴らしい人生の師を持つたのですが、貧乏からは逃れることは出来ませんでした。でも、理屈だけの人間にならなくて済みました。

理論は大切です。しかし所詮は人間の考えたこと、絶対はありません。それを自然の摂理で補正しながら参考にして生きる、その一つが無学な農夫の社会構造論なのです。

たった、それだけのことなのに「見浦さんの方へ、足を向けて寝られん」と感謝された時は心臓が引っくり返るほど驚きました。平凡な人間にはショックが大きすぎた。
当然のことを、ほんの僅か、お手伝いしただけで、その言葉をもらえたのには、私の社会構造論が役立っているのかもしれません。

2017.3.11 見浦哲弥

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2017年05月10日

年年歳歳花相似たり

和弥のお嫁さんの亮子くんは見浦牧場の大黒柱である。その彼女が後5年で50歳になると宣った。日々仕事に追われる毎日で自分の年を数えるのも忘れがちだが、歳月の扉は確実に時間を積み上げる。息子の和弥の所に半ば押しかけで来てくれた彼女、3人の健康な孫を見浦家に贈ってくれた、我が家の恩人である。

跡取りと思っていた長男がコンピューターの道を選んで九州で就職、会社の同僚と結婚、やりたい仕事が出来ないからと東京へ、そして40代でそのソフト会社の最年少重役に、彼は彼なりに自分の人生を追いかけた。

そこで後を継いでくれたのが一番下の和弥、ところが時は農村崩壊の始まり、妹が飛んできた「あんた気が狂うたんじゃ無いの、あの子は町でも食べて行ける頭を持っとる、こんな所に残したら嫁さんもおらんで」と。それでも親父さんが「見浦家が潰れる」と訴えた一言は重かった。そして彼は見浦家を継ぎ、亮子君は広島市から追いかけてきてくれた。そして3人の男の子を産んでくれた。それぞれ特徴のある子供たちを。長男は中学2年、私が動員で小板を離れた年になって、大人びてきた。

時は全国的な農村崩壊のとき、国内の食料自給率は30%あまり、1億人に及ぶ人口の食料の大部分を輸入に頼る危険は知識人でなくても感じているが、大変だの声は聞こえるが他人事のよう、戦後の食糧不足のときのような真剣味は感じられない。

農業の復興は人作りなくては不可能だと私は思う。農業の教育は高校から大学まで整備されてはいるが、知識の詰め込みだけで人作りには程遠い。長男の晴弥が九大の農学部に在学中に九大の実習牧場に行った折の報告が頭をよぎる。彼に九大は国立の有名大学、農学部なら研修農場がある筈、見浦牧場で未解決の問題のこれこれを調べてくれと依頼したんだ。ところが彼が報告して曰く、「実習に行ったら、場長が“ここは農業を教えるところではない、農業とはこんなものだということを伝えるところだ”と言った」とか、「親父さん、役に立つ話はなかったよ」と、そこで思い切ったんだ。習えるところが無いのなら自分で実証し教えるしかないと。学問のない1農民が挑戦するには、あまりにも巨大な壁だったが後へは引けない。お陰で家族を厳しい道に連れ込んでしまったのだが、やっとこさ、ここまでたどり着いて文章にしている。役には立たないかもしれないが、これは私の意地である。

幸い私の家族は、それぞれ気性は異なるものの、皆前向きの性格、有り難いことだ。彼等のこれからの人生を見ることが出来ないのが残念だが、生きてよかったと思える家族たちである。

年年歳歳花相似たり、歳歳年々人同じからず、長い年月この言葉を噛み締めながら生きてきた。大切な私の心構えの言葉である。

さあ今日も1日全力を尽くそう。同じ日は二度とは訪れない。明日は明日、今日は今日、前を向いて全力で生きようと、自分に言い聞かせている。

2017.2.6 見浦哲弥









































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2016年12月31日

私とお天気

昔は、といっても60年ほど前の話ですが、たいていの農家には牛や馬がいました。
ところが、この地方は中国地方でも有数な豪雪地、牛や馬を飼うといっても、冬場のエサが大変だったのですよ。
確かに、牛馬は草食動物ですから、周囲に繁茂している、あぜ草や野草、柴草を刈って食わすだけでも育ちます。春から秋口まではね。
稲刈りが済んだら豊富にあるワラがその役割を引き継ぐのですが、ワラは消化率が非常に悪い。確か消化率40何パーセントだったかな。ですからヌカ、ふすま、商品にならないくず米などを加えてやる。そして夏の間に作っておいた、山草やあぜ草などの乾草を食わせる。この量が多いと牛馬は元気で春を迎えましてね。

ところが、この干草作りが大問題、何しろ当地は中国地方で最高といわれる多雨地帯、お天気が続くのは、草の短い春先と8月15日のお盆前後の十日くらいと来るから大変、乾くまで3−4日もかかる干草を大量に作るのは先ず不可能でして、運が悪いと仕上がる寸前で雨、ひっくり返して乾かして又雨、なんて悲惨なことが起きる。
おまけに干草は1度雨に会うだけで養分の40パーセント以上が失われるとかで、2度雨に会った干草は牛は見向きもしない。
もちろん、ラジオの天気予報はありましたが、現在と違ってこれが当たらない。
特に夏場の短い安定期を過ぎると、天気予報は晴れなのに微気象的に雨がやってくる、深入山の頂上から見ていると、表側は晴れているのに、裏側は雨が激しく降りながら通ってゆく、そんな景色を何度も見ました、お天気は魔物でした。

ですから明日のお天気を占うのは大変で、まさか下駄を蹴り上げて裏表で決めるとまでは行きませんでしたが、えーいままよと干草刈を始める、その翌日が雨で、そんな事が多くありました。
ところが、ある日、遠い親戚のお婆さんが「雲が刈尾(刈尾山)から深入(深入山)へ流れると天気がようなる」と、教えてくれました、それから雲の流れに注意するようになりました。
確かに流れ方がお天気に関係があることは判ったのですが、流れる方向や、早さにも関係して、予測が6割も当たれば大当たり、でも下駄より遥かに進歩でしたね。

そこで、農業気象の専門書をとりよせて読みふけりました。ところが、義務教育の知識だけでの読みこなしは大変な努力が必要でした。
現在はテレビで時々刻々の天気図を見ることが出来ますから、大いに役だてていますが、ラジオだけの当時は自分で天気図に等圧線を書き込んでという、のめり込みまでは出来ませんでした。日々の生活に追われて忙しくてと、これは言い訳ですが。

ところが、この勉強は無駄ではありませんでした、思いもかけないところで役立ったのです。

見浦牧場も最初は水田1.5ヘクタールの米農家でした。小板は広島県の北海道と呼ばれる寒冷地帯、稲の品種も寒さに強く、病気にも強い、他では見られない特殊な品種でノギ(モミの先から出ている鋭い毛)の赤いアカヒゲ、白いシロヒゲ、ノギのないチョウシュウ、の3品種が見浦の稲でした、比較的多収でまぁまぁの味のアカヒゲ、ノギが長くて脱穀するのに力がいりました。収量がそこそこで、藁が比較的長くて(藁細工をするのに長さも重要でした)、でも脱穀は楽でした。シロヒゲは短幹ですがノギが落ち難く食味はよくない、でも比較的多収でした。最後はチョウシュウ、米はまずいは、収量は低いは、とんでもない品種でしたが冷害には滅法強い、冷害でシイラ(籾の中が空の事)しか出来ない年も、この稲だけは実る。この3品種での米作り、このほかにモチ米がありましたが名前は忘れましたが藁は長かった。

戦後、陸羽132号という品種が入ってきました。福井の試験場で開発された有名な品種で食味は格段に優れていました。ところがイモチ病に弱い、冷害にも弱い。
私が経営を担当してからは、小板に適した品種があるはずと奔走しました。なにしろ普及員さんが推奨する品種は戸河内の町中以南の平場に適した品種、海抜300メートルと780メートルでは北海道で関東の稲を作るようなもの、アテにならないと思った。小板の寒冷は戸河内では特別、自分で探すしかない、同じ努力をするのなら、少しでも多く取れて味が良くてと、新しい品種と追い求めました。農民は保守的な反面、大変な新し物好きなのです、とても臆病ですが。そして見付けたのは藤坂5号と八甲田という東北地方の品種、これは当たりましたね。種籾の分譲依頼が相次いで見る間に普及したのですが、国の普及員が渋い顔をしたのはいうまでもありません。

臆病ですがより多く収穫したいという欲望は農民の誰もが持っている願い、新しく導入した新品種が、少しばかり温度が足らないとなると、作り方も少しずつですが変えてゆく。
例えば、水を張っただけの水苗代が、表面に油紙を張って保温する保温苗代に、更には苗床の上にトンネルを作ってフイルムを張る保温折衷苗代にと、様々な改良をし工夫をして栽培法も改良する、そしておいしい米、増収と懸命だったのです。

進化の一つに病気の予防がありました。多収穫の品種は病気に弱かった、特にイモチ病は大敵でした。これは稲の熱病で非常に伝染性が強い、この病気にかかると稲の葉が赤くなって、最後にはゆでたようになって枯れてゆく、恐ろしい伝染病でした。穂が出る前に発生するのを、葉イモチ病と呼び、穂が出てからは穂イモチ病といいました。
葉イモチ病に罹らず、やれ一安心と気持ちを緩めた途端、稲穂が白くなって傾かない穂イモチ病、稲刈りをしてハゼ干しをして脱穀(籾を落とすこと)をすると籾が全部風に飛ばされる、僅かに籾入れに集まった籾も食べられるお米は入っていない病気の空籾だけという悲惨な結果になるのです。肥料を入れて良くできた稲ほどこの病気には弱かったですね。
ですから、当時のお百姓は山草を刈って牛馬に踏ませた厩肥(ダエゴエといいました)と下肥と呼ばれたダル(人糞尿)だけが肥料でした。この方式だとイモチ病の発生が少なかったから、収量も低かった。当然ですね。

そこへ、セレサン石灰と言う農薬が出ました。これがイモチ病に大変よく効く。ただし有機水銀剤で微量ながらお米に残留する、ある程度体内に蓄積するとイタイイタイ病を発症すると言う事がわかって姿を消しました。一時は日本人の頭髪に含まれる水銀量は世界最高と言われるほど使われたのです。

閑話休題、当時小板で使われたのは3キロ入りの粉剤でして、これを手回しのダスターなる送風機と薬剤の箱とを組み合わせた農機具で散布したのです。
農業普及員という技術屋さんが稲の葉の裏表に粉が附着するよう丁寧に撒くようにと指導されていましたね。
ところが、それが大変な労力でして、泥田の中の炎天下での重労働、全部の田圃に散布するのは大変で中々普及しなかった。2−3年後に動力散粉機なる機械が町の補助金付きで推奨され共同購入し、一気に予防が普及しました。
ところが小型のエンジンが付いたこの機械は薬剤を入れるとかなりの重量、浅い田圃ならまだしも、深い田圃になるとこれも悪戦苦闘の重労働でした。何とか田圃に入らないで全面に薬をまく方法はないかと考えましたね。

話は戻るのですが前述の穂イモチ病、この病気も稲穂が出る寸前と、開花が終了した時を狙ってセレサン石灰を撒くと、ほぼ完全に防ぐことが出来ると指導されたのです。
ところが出穂前の稲は60−70センチにも伸びて茂っている、茎葉全体に附着するように散布するは、言うは易すく行なうは難しでした。

農薬はある、散布の機械もある、後は新しい散布法を見つけるだけで、この病気は防ぐことが出来る、それを見つけることで小板でも米の多収穫ができる、必死でしたね。

ある夕暮れ、焚き火の煙が、たなびいているのをぼんやり眺めていました。何かが頭の中で懸命に訴えている、何かが。
煙が地表をある高さでゆっくり移動しながら下がっている、あれが農薬だったらいいのになと、”そうだあの煙の中に農薬を吹き込んだら”と思いつきました。
思いついたら即、行動が私の身上、すぐ機械を始動して農薬をたなびいている煙の中に吹き込みました。思ったように農薬の煙も地表に留まりながら下がってゆきました。
上手くいった、さてその理由はと、農業気象の本を読み返しました。今度は気合が入っていました。

貴方もご存知のように強風の日は別にして日中と夜間では気温に変化があります。陽が射せば地表の温度が上がり、暖められた空気は上昇してゆきます。夜になれば放射冷却で地表の温度は下がり空気は下降してきます。即ち一日に2度空気の向きが変わる時がある、そのとき空気が停滞するのです。そして上昇気流が下降気流に変わる時、短い時間ですが(15−20分)を狙えば田圃の中へ入らなくても農薬は撒ける、下降気流は天の助け、短い時間でも高い効率は人間にとってもプラスでした。もっとも少し遅れると稲の葉に露がついて薬害がおきましたが。

”大畠(見浦の屋号)が又オカシゲなことを始めて“と白い眼で見ていた周囲の農家も、効果があることがわかると早速まねを始めました。ところがその理論を聞きに来る人は一人もいない、「見浦に農薬を撒き始めたから家も撒かにゃー」で始めるのだから、貴重な時間が見る間に終了、上手く行かない。
一言「教えてくれ」が見浦には言い難かった、「ありゃー高等科も中退ぞ、あいつにだきゃー頭さげとうない」、私の態度が生意気だったのですね。

一冊の”農業気象”なる専門書、難しくて正直な話、ごく一部しか理解できなかったのですが、自然現象の観察と結びついて、農作業の効率化に役立った。
この小板でも高校の農業科を卒業した青年も2人いました。でも失礼なが゙ら学校で教えられた知識が実際の農業の中に生かされているとは思えなかった。学校で何をしていたのでしょうね?教える人がいなかったか?

ともあれ、あれから60年余り時間がたちました。現在はテレビで天気図や予報も何種か見ることが出来る、おまけにコンピューターの発達で正確度も100パーセントに近い、勿論、小さな集落の天気予報は完全とは行かないまでも生活や経営には大いに役立っています。若い世代は当然との事と利用してますが、前世代の私には驚天動地の出来事の一つなのです。今日は天気予報の昔話でした。

2016.2.16 見浦 哲弥

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2016年09月16日

マイカー

我が家の足はインプレッサ、彼は4輪駆動、多少ガソリン食いの傾向はあるが、豪雪地帯の小板では代えがたい能力の持ち主である。勿論、10年落ちの中古車、見浦家に住み着いて10年余りになる。マフラーが錆びて自家修理をしたが遂に新品に交換したと言うからその古さを理解してもらえるだろう。
貧乏の生涯だった私は、たった一度だけ新車を購入した。親父ドンが直腸がんで入院して小板の仕事と看病との二本立てをこなした時、当時の自家用車はマツダのR360と言う軽三輪トラック、新車の半額と言う中古車だから故障がなくて走れば幸運と言う代物。空冷のV型2気筒で360cc 12馬力、当時のマツダは営業用の3輪トラックから民生用の小型車に進出しようとしていて、そこで登場したのがR360。対抗車はダイハツのミゼット、こちらは同じ軽三輪トラックとは言ってもバーハンドル、サドルシート、単気筒10馬力、しかし、頑丈で荷物を積んでよく走る、猛烈に売れ始めていた。後発であるし同じ路線では太刀打ちが出来ない、そこでR360はデラックス路線で対抗したんだ。即ち、丸ハンドル、完全キャビン、2気筒エンジン、等々、これが当たっていっぺんに売れ行きを伸ばしたんだが、その代償は高くて故障続出、その中古車ときたら、まず非力である。公称12馬力が虫木峠を登らない、国道だよ?。チェンジをローにして引っ張るとエンジンがヒートして力がなくなる、こうなると道端で停車してエンジンの冷めるのをまつ、それを何度か繰り返して、やっと峠を越したんだ。当時のマツダはエンジンに関しては技術が低かったね。50年を経て日本の自動車会社の中で注目されるエンジンを何個か持つ現在からは想像が出来ないが。

丁度、父が直腸がんで倒れて広大病院に入院したんだ。かなりの手遅れで手術の成否が30パーセントの状態だったから、広島と小板と掛け持ちで飛び回った。その足がR360、何せ片道5時間ぐらいかかったからね、おまけに故障続出、仕事にならない。手持ちの金をかき集めて当時一番安かったトヨタのパブリカを購入したんだ。トヨタが大衆車向けとして設計した100パーセントの実用車、これは故障知らずで良く走った。今でも名車だとおもっているが、空冷の対向2気筒700cc、28馬力、前輪はトーションバースプリングで独立懸架で4人乗り、シートはハンモックで暖房は無し、徹底的に軽量化がしてあって走りは抜群で100キロ出しても怖くはなかったね。ただしエンジン音はいただけなかったね。ポポポと乗用車らしからぬ音がして遠くからでも音さえ聞けばパブリカと判る、そして空冷だから暖房が効かない、冬は寒くてね、しかし故障知らずの快適で親父の看病に通えたんだ。
その車重の軽さは雪の多い小板で抜群の威力を発揮して、スタッドレスタイヤ出現前の雪道は頼りになった。スノーチェーン装着で走るのだが硬い雪の上なら底まで潜らない、在来車が悪戦苦闘する横を走り抜けるという荒業が出来た、今でも傑作車だと思っている。
ところが、あのボボボという排気音は不評で販売は伸びなくて間もなく改良?普通の車になった。

新車に乗ったのはこの車だけ、あとは長い人生、中古車との付き合いばかりだった。御蔭で中には名車と呼ばれる車もあって結構面白い車人生だったが、現在は20年前のインプレッサ、基本設計の良さで傷だらけの車体が東奔西走、見浦一族の貴重な足をつとめている。

目下、見浦牧場には2トンダンプ2台、1.5トントラック1台、乗用車1台が活躍中、いずれも中古車であることはいうまでもない。

敗戦直後、数少ないバス便に乗り遅れて花見に来た消防車に便乗したことがある。デフのない昔のフォードでとんでもない走り方をした。それでも車の便利さを痛感させられて、どこへ行くのも2本の脚という当時の自動車は夢の機械だったんだ。あれから70年、日本には自動車があふれている。そして、その便利さを当たり前のように受け入れている。本当は、この時代に巡り会った恩恵として感謝すべきなんだけど、誰もそこまでは思いはいたらない。

今日も牛の出荷で三次まで高速道路を走る、当然のことのように。

2015.8.17 見浦哲弥

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2016年05月25日

めだし帽

めだし帽、近頃コンビ強盗の犯人が顔を隠すために愛用している帽子である。本来簡易型の防寒帽として雪国で愛用されてきた帽子なのに犯罪の必需品になるとは心外のきわみである。

例年、積雪が始まると作業帽が防寒帽にとってかわる。私の愛用品は昔、淑子が土産に買ってくれたアメリカ製の皮製の防寒帽、もう何十年も愛用している。さすが本場物、性能は私の防寒帽の中では最高品、猛吹雪の時はかかせない。次は大野モータースの社長がくれたアメリカ軍の払い下げ防寒帽、軍需品だけあって布製だが実用的には満足できる製品、もう10年余り使っている。

しかし、肉体労働の見浦牧場では冬でも汗ばむ、この点ではこの2品は多少問題がある。そこで、もう一つの愛用の防寒帽は国産のめだし帽。第一に値段が安い、おまけに軽い、そこそこに防寒である。もっとも雨には弱いが、これは数を揃えればいいと、私の越冬の目玉だったのに今冬は行方不明。仕方がないから前二者の帽子で我慢していたのだが、やはり不便、それが発見された。勿論しまい忘れ、老人のさがである。しかも何枚も発見されたから嬉しい反面、物忘れの進行を突きつけられて、こりゃ大変だと痛感した次第。

85歳ともなれば、肉体も頭脳も衰えるのは当たり前である。それが毎日6−8時間、時には10時間も働けるのだから「有り難い」と感謝しなければならないが、それと引き換えに貧乏と馬鹿正直を引き当てた。が、S君の言に従えば家族が健康で仲良くて、しかも三人の孫達が元気とくれば、この上のない幸せだと、この周りには、そんな家族は見当たらないぞと。

めだし帽が活躍するのは冬である。冬でも時期によって気象は様々、風が強い時はめだし帽では役に立たない。気温が極端に低い時は毛皮で裏打ちされたアメリカ製が最高だが、老人となった現在では帽子の多少の重さでも気になって、出来るだけ軽い方が作業をしやすいためだ。仕舞い忘れの目だし帽の出現で頭だけは豊かな使い分けができている。

ともあれ、防寒帽の心配のない春風の訪れを、千秋の思いで待ちわびている今日この頃である。

2016.2.17 見浦 哲弥

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