2017年08月27日

小板の日米戦争

日本が歴史上で始めて外国に敗れた日米戦争から60年あまり経ち、戦争の体験者も次々と世を去って行きました。私は軍隊には行かなかったものの、国民総動員令で14歳で食糧増産や建物疎開に連れて行かれて戦争を経験しました。その仲間達も世を去り、生き残りは少なくなりました。

この小板でも、あの戦争中に戦死したもの、戦病死した人、シベリヤ抑留で辛うじて生き残った者、敗戦の年に緊急動員されて外国に行かないで敗戦となり命拾いをした幸運な人など様々でした。
折々に聞かせてもらった戦争の話も、私の人生と共に消えて行くのかと思うと少々残念で文章にしておこうかと書きました。

集落の上(かみ)から、まずYさん、彼は戦車兵、満州(北中国)のロシアとの国境部隊に派遣されていた。小便も凍る寒さの話しや、100キロも走ると戦車のキャタピラーを交換しなければならない話など、私には興味があった。
鋼板で出来た日本の戦車は、厚い鋳鉄製の防弾板で囲まれたアメリカやロシヤの戦車には、全く歯が立たなかったことは、後日の読書で知った。
彼は幸運にも終戦直前に内地に配属替えとなりシベリヤ行きは免れた。

隣がKさん、海軍に志願して、水兵から下士官、そして敗戦時は士官だった。たたき上げの潜水艦乗り、電気関係の機関員で電検3種の資格保持者。
私の父の崇拝者で休暇に福井の家に泊まりに来ていたのを覚えている。水兵帽の水兵さんが、いつか短剣を下げて白の夏服の下士官に変わったときは、子供心に格好がええと感心したのを覚えている。
日米開戦の時は大型のイ号潜水艦の乗組員で、シンガポール軍港沖でイギリス東洋艦隊の見張りに従事、新鋭戦艦プリンスオブウェールズと、戦艦レパルスの出港を補足、追尾して海軍航空隊に連絡、マレー沖で雷撃機の集中攻撃で撃沈、チャーチル首相を落胆させた、日本海軍の華やかな戦いの話しを聞かせて貰った記憶がある。
でも、戦争の中期からは戦っては敗れるの連続、レーダーの開発がうまくゆかず、出港直前まで東芝の技術者が調整に来てな、それでもうまく行かなくてな、仲間の潜水艦乗りは殆ど死んだと、そして「俺は戦争は嫌いだ」とはっきり宣言していた。

そのお隣がKFさん、彼は敗戦の年に徴兵検査、すぐさま徴兵されて九州に配属、1ヶ月か2ヶ月で終戦、戦争の厳しさを経験しなかった。おかげで軍国主義否定の私とは基本的に意見が対立、陸軍は悪くないとのたまう、小板で数少ない幸運な人間だった。

次はSさん、彼は19年に動員された、腕のいい石工さんで真面目な人間だった。小板の上田屋の娘さんと結婚、戸河内の寺領から小板に移り住んだ。見浦の田圃50アールを小作していた、小学校3年を頭に5人の幼子を残して兵隊に。
奥さんが懸命に働いたが仕事が遅れて、雪が降っても稲こぎが出来ない。稲を干す稲ハゼが雪の中に残った。見るに見かねた父の命令で稲の脱穀を手伝った覚えがある。
動員先は陸軍船舶部、輸送船に乗って船を守る?部隊、(当時は輸送船でも小型の大砲か機関砲を積んでいた)敵の軍艦や潜水艦、航空機に発見されれば即沈没だが気休め的装備の操作係。
秋に一時休暇で親父さん挨拶に来られた折り、「命拾いをしました、サイパン島に軍需物資を運びましてね、陸揚げが済んで島を離れた翌日、島はアメリカの艦隊に包囲されましてね、もう何時間か遅れたら命を落とすところでした」と話されたのを覚えている。その後サイパン島の軍隊は全滅、民間人も多数死亡したのは周知のとおりである。
その後は輸送船の消耗が激しくて乗り組む船がなくなり、無事に復員された。

そして、F君、芸北町にあった大佐川電気利用組合の電工さん。
彼のことは、陸軍で満州のロシアとの国境の警備隊だったことしか知らない。が、彼は小板でただ一人のシベリヤ抑留の体験者、ご存じだろうが満州で逃げ遅れて捕虜になった軍人がシベリヤに連行されて強制労働をさせられた話、彼は不運にもその一員となった。何年働かされたのかは私の記憶にはないが、一、二度地獄のようなシベリヤ体験を聞いた覚えがある。
極寒の地で劣悪な居住環境、不足の食料、独ソ戦で荒廃したロシアでは一般の国民も苦しい生活だったと言うから当然かもしれないが、膨大な死者(5万人とも6万人ともいわれる)を出した。その話しを彼は「仰山死んだでー、ところがの大方が町の人での、田舎の人間は中々死なんのんよ」と、日本国内の貧しい農村で育った人間は、町の人より耐久力があったと言う話しだ。しかし、粗食でも血糖値を高く維持して命を支える貧農の体は、豊かになった戦後の食事で糖尿病の多発を引き起こし、寿命を縮める一因になったのだから皮肉である。
彼の話で忘れられないのは、日本での職業を何度も調べられたと言うこと。大工、左官、電工、その他、エトセトラ・・・当時のロシアで不足していた技能の持ち主だったら、即、収容所から出されてロシア女と結婚させられ職場につかされる、腹いっぱい飯が食えてな、地獄から天国への道があったんだ、でもな、それは生涯日本に帰れない道、歯を食いしばって頑張ったんだと。
当時、ロシアは独ソ戦争で2000万人ともいわれる若者を失い、荒廃した国土を再建する為、猫の手も借りたい事情だったと、勉強になりました。

晴さんの長兄のKRさん、彼は吉田町の青年学校の先生だった。私に動員がかかる前年、彼の家族が次々と広島の陸軍病院に見舞いに行くのを見た記憶がある。間もなく病死と聞いた、陸軍に徴兵された彼が過酷な新兵教育に耐えられなかったと。何しろ5歳も6歳も年下の私達の動員の現場でも殴る蹴るの暴行は日常茶飯事だったからね。人間の値打ちは一銭五厘(徴兵通知の葉書の値段)と言われた時代 、死因は肋膜炎だと聞いた。優しい大人しい青年だった記憶がある。

隣はTさん、彼は海軍の志願兵、要領のいい奴で悪運強く生き残った。燃料の尽きた軍艦が樹木で偽装されて、瀬戸内海の島陰に砲台代わりに係留されていたなど、敗戦間際の海軍の話をよく聞かされた。夏で偽装の木が枯れ始めると「木を取り替えないと丸見えですよ」とアメリカ軍機にビラを撒かれて馬鹿にされたと。

KHさん、彼はKFさんと同年兵、敗戦の年に緊急徴兵された。配属されたところが陸軍の通信隊、伝書鳩の世話をするのが仕事、善人の塊だった彼は軍隊では苦労は少なかったらしい。ところが親父さんも徴兵されて、予備役の衛生兵だった、御年47歳、平均寿命が50歳に満たない時代、正直よぼよぼの兵隊さんだ、それまで召集しなければいけないほど追いつめられたんだ。そんな戦争を天皇まで脅かして始めた将軍は現在靖国神社に祭られている、そんな矛盾には国民の声が小さい。
でも考えて欲しい。一軒の農家から働き手の男を2人も軍隊に招集して農村が成り立つはずない。それでも国民の食料を作れという、軍国主義とはそんな思想なのだ。
ちなみに47歳の老人兵として徴集されたのは、他には松本熊市さん、児高徳馬さんの2人がいた。

N君、彼は腕のいい溶接工、広島郊外の軍需工場で働いていた。幸い原爆の直接被害はうけなかったものの、直後の市内で死体処理に動員されて連日作業をした。実体験だけに身の毛もよだつ話を淡々と聞かせてくれた。私も8月9日に出張で立ち寄った可部駅で駅前広場にぎっしり並べられた被災者の死体を見た。まだ息のある人は日陰や貨車の中、目と口だけを残して包帯だらけの被災者が水、水と訴える微かな声、今も耳に残る、真夏のことで生きている人にも蛆が湧いて這い回る姿は正に地獄だった。
西岡君は街に倒れている死体をトラックに積んで街角に積み上げて重油をかけて焼く仕事をしたと、2人で手足を持って放り上げる、皮膚がズッルとむけてねと、私の体験の何百倍もの辛い話しは戦争を始めた指導者を憎む私の原動力だった。

Mさん、陸軍の下士官、陽気で明るい人で私の製材の師匠さん。
彼は南方に派遣された。そのニューギニア島での戦闘の話しは忘れられない。ニューギニア島は有名なラバウルの近くと言えば判って貰えるかな。オーストラリアの隣の島でね。
島とはいえ本当は日本の本州にまけない大きな島、オーストラリアの反対側に上陸して島を横断してポートモレスビーという港を占領して対岸のオーストラリアを攻撃するという、壮大な計画だったとか。密林の中に道を造り中央の大きな山脈を越えて対岸に達する、口で言うのはたやすいが、筆舌で表わせない現場の苦労は東京の参謀本部いる奴らに判らない、ただ命令するだけ、こんな事が山盛りの戦争だったのですよ。

ようやく山脈を乗り越えてオーストリヤ軍に接触して驚いた。上官の話と違って彼等の勇敢なこと。攻め込んだら、すぐに敗走すると聞かされていたのが、案に相違で猛然と反撃されて手も足も出ない。おまけに我が軍は明治38年制定の38(サンパチ)銃なる小銃、弾が5発しか出ない、それも一々操作をしてね。ところが豪州軍は自動小銃、連続して80発も弾が出て戦争にならない。そこでオーストラリア軍に出会ったらひたすら密林の奥に逃げ込だと。彼らも地下足袋なる履物で足音も立てずに出現する日本兵は怖いから林の中までは追ってこなかったからなと。ところが大問題が起きたという。日本の軍隊は米の飯が食料、飯盒なる鍋で炊いて食事をする。ところがジャングルの中で焚き火をして煙が上がろうものなら戦闘機から爆撃機までが殺到して爆弾をおとし飯が炊けない。飯が食わないと戦争は出来ぬと、日本兵の士気は地に落ちたんだって。そこへ知恵者が現れて炭を使えば煙は出ないぞと発言、おまけに日中なら敵機の目にとまらない、当時は赤外線センサーなるものは前線になかったからな、その案は直ちに採用されて「誰か、炭焼きが出来るものはいないか」と募集されたとか。但し炭焼きといっても炭窯を築いて木炭にする全工程の技術屋でなくてはいけない。彼は動員前は炭焼きさん、早速、応募したとか。即、木炭の増産を命令されて監督に、敵機の来ない後方の密林で木炭生産が始まったんだとか、命令される兵隊から炭焼きの監督さんに昇進、近場のガダルカナル島では日本軍全滅の悲劇もあったのに、敗戦まで楽をさせてもらいましたと。

次は陸軍上等兵のKさん、衛生兵である。陸軍で習ったことが全て正しいという軍国主義者、社会主義にかぶれた見浦を認めるなどもってのほか、敗戦後も20年位は私の話を聞こうとはしなかった。しかし、全てが逆転した戦後の社会は彼を受け入れなかった。様々な試行錯誤の末、全てを失った彼は死に際に、「見浦が正しかった」と呟いたと息子さんから聞いたときは、なにも言えなかった。

IHさん、彼も陸軍上等兵。確か中国戦線だったと思うが、記億が定かでない。機関銃の砲手と聞いていたが、戦争の話を聞く機会がなかった。ただ腕に小銃の貫通銃創があった。
IMさん、Kの兄さん、大下に養子に入った。彼は中国戦線で2度目の召集で戦死した。私が中学の1年の折、奥さんが生まれたばかりの娘さんを背負って広島まで見送りに行くのに出会った。2人とも泣きながらオシロイ谷を下って行くのを見て戦争の悲劇の一端を感じた。兵隊になって戦死することは名誉だと教えられて、信じていた少年が、先生の言葉は本当かなと疑問を持った最初である。彼は中国戦線から白木の箱で帰った。

Nさん、私を弟のように可愛がってくれた好青年。彼は海軍に志願した。そして戦争の末期、戦死したと箱に入って帰ってきた。中には名前を書いた白紙が1枚、それで好青年が海に沈んだ。もう一度言う、あの戦争を始めた将軍は靖国神社にいる。

軍隊に行った人達は、他にも2-3人いる。現存している人も居るが、戦争の話は語られることがなかった。辛い、悲しい、矛盾が山積していた世界だったのは、私も動員で経験したことから推測できる。思い出したくないことが山積みだったのも。

最後に声を大きくして言う、私は戦争が嫌いだ、始めた奴はもっと嫌いだ。
                                       
2015.1.17 見浦哲弥



追記
私の同級生も2人死んでいる。一人は斎藤正司君、彼は高等科卒業後(いまの中学3年の年齢)海軍航空隊に志願して入隊した。敗戦前の日本には訓練する飛行機も機材もまったくなくて、毎日が手作業の飛行場作りだったとか。短い時間だったが過労で体を壊して帰宅後間もなく死んだと聞いた。アメリカの飛行場作りはブルドーザだったのにね。

もう一人は一級上の藤本さん、彼女は従軍看護婦を志願して帰ることはなかった。

豊かな時代になって爺ちゃんの時代に起き、体験したことを誰も話さなくなった。でも2度と起こさないためにも聞いておくべきだと思うのだが。

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2017年08月05日

ウォーキング

毎年10月になると深入山ウォーキングなるイベントが催される。目下、その準備の人達で山道が賑やかである。深入山のグリーンシャワーなる広場が起点で、旧国道191号線を歩いて、小板で新国道に合流して深入山を1周する、延長7キロ位か。途中に私が松原校に通学するときに泣かされた、標高890メートルの水越垰がある。

そして今日は開催日、9時頃から道路に人影が。日頃人影の少ない旧国道にウォーキングとはいえ賑やかになるのは心楽しいものである。それに若者の途絶えた道にカラフルなウェアが続くのは、往来の激しかった昔をしばし偲ばせる。

それにしても時代の変化の大きさに驚かされる。道路が整備され、公共交通が不必要なほどマイカーが普及して、歩くことがスポーツになり始めている。戦時中の動員で北広島町新庄にあった宿舎まで徒歩40キロあまり、休憩時間を含めて10時間かかった。勿論、歩き難い砂利道は子供にとって遠い異次元の世界と感じたものだ。

我が家の孫くん3人のうち下の二人が10キロコースにチャレンジした。ところが4キロでダウン、家に走り込んでゲーム三昧、日本の将来を思うと背筋が寒くなる。少子化で子供を甘やかしすぎると思うのは老人のひがみか。

考えてみれば旧国道が賑わうのは”しわいマラソン”と”深入山ウォーキング”だけ。戦中、戦後の、悪路に国運と生活を委ねた賑わいは、繰り返したくはないが、懐かしい。

我が家から旧道の峠まで約2キロ、(峠から谷に沿って下る急坂(オシロイ谷)があって徒歩の時は、このコースを歩いた)松原の高等科に通った2年間、お世話になった道である。自然が一杯でね、ムササビを見たのも、ドンビキと呼ぶ巨大なヒキガエルを見たのもこの道だ。もっとも人権もへったくれもない戦時中のこと、勤労奉仕と称して遅くまで作業をさせられて、明かりもなくて夜空を見上げて頭上の隙間に導かれて帰った道でもある。自動車が普及を初めて、オシロイ谷の近道の人通りが途絶えてから40年近く、細い山道はヤブの中に埋もれて知る人以外は道の存在も忘れ去られた。

深入山ウォーキングは旧国道の車道を通って深入山を一周する。秋日和ならば絶好のハイキングコースだが、この道にまつわる物語を語る人はいないし、誰も知らない、ただ歩くだけ。100年あまりのこの道の歴史は、日本の近代史の一部と重なっているというのに。

時代が進んで便利になったのは有りがたいかぎりだが、歩くことが少なくなって要介護の老人が増えた感じがする。新聞の老々介護に疲れての心中やら殺人と言った記事を見ることが多くなった。他人事ではない、懸命に生き日本の復興に力を注いできた人生、その功労の報酬に人に迷惑をかけないで、ひっそりと旅立つのが理想である。私は小5から働き続けてきたのだから、せめてそのぐらいの我儘は聞いてほしいものだと思っている。

今年も無事、深入山ウォーキングは終了した。ただ歩くだけでなく、私の提言の一部でも聞いて欲しいと思っている。

2016.10.2 見浦哲弥

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2017年03月12日

ひろしま

2016.5.27 広島の平和公園にアメリカの大統領オバマさんがやってきて記念碑に献花して下さった。間一髪12時間の違いで命を永らえた私にとって感無量のものがある。

日本が暴走した2,26事件から我が家の近辺で起きた日本暴走の結果、内外の多くの人命が失われた。その張本人の陸軍の急進派の御大は靖国神社神社にいるというから日本人も狂っている。天下の秀才と言われた東条が2000年も続いたという日本を破壊して、他の指導者がそれぞれ自決して自分を裁いたのにピストル自殺の真似事ですまし、責任をヒロヒト天皇に擦り付けようとした、その彼を靖国へ祀るというのだから狂っている。陸軍きっての秀才と言われた彼の生き様は頭でっかちだけでは集団を指導し生き延びさせることは不可能だということかもしれない。自然の中で暮らしている牛群を見ていると利口な牛即リーダーでは牛がうまく育たなかったね。強さと利口と優しさと決断とのバランスの取れた牛がリーダーだと安心して見ていられたがね。

あれから70年、幼いながら戦前の広島を知っているし、(毎年夏休みには親父さんの勤務地の福井から小板に帰省していた。昔は2日がかりの大旅行、必ず広島に一泊した)戦時中の広島も陸軍の幼年学校受験の為、広島で宿泊した。原爆直前の広島に建物疎開の作業で県庁の講堂に泊まって10日ほど働いた。広島の原爆前日の夜広島を離れて辛うじて生き残った、あの一日の記憶は未だ新しい。そして原爆投下の3日後、一時帰宅を許されて帰宅の途中、乗換の可部駅で被災者を見た。駅前の広場や構内の貨車の中に並べられた数多くの瀕死の被災者や、死体を見た。「水、水」と微かに訴える声は未だに耳に残る。数年後小板にお婿さんに来た友人は動員で広島で被災者の死体処理で働いた体験を話してくれた。感情が麻痺して何も感じなかった、そして恐怖を実感するまでには長い時間が必要だったと。

牛田に住んでいた岡本の伯母さんは6日の朝、挨拶をしながら家の前を通り過ぎた人たちが15分もしないのに焼けただれた皮膚をぶら下げて幽鬼のような姿で「水、水」と訴えながら帰ってきた姿を忘れることが出来ないと話してくれた。それは地獄だったと。70年は草も生えないと言われた広島だが私が働いた1年半後,道端には雑草が生え、八丁堀から本道通りには、まばらながらバラックのお店が並んだ。現在、パン屋のアンデルセンのお店になった銀行の廃墟は無残な姿を晒していたが、広島は生きていた。もっともバラックの裏は水道の鉛管が幽鬼のように無数に立ち並び、傷んだ蛇口から水が無駄に流れてはいたが。

お店の坊っちゃんの子守で歩いた道端の本川小学校の地下室にはドス黒い水が溜まっていた。近所の伯母さんが「まだ何人も沈んでいるのよ」と話してくれた言葉は頭から離れない。
早朝、荷物を積んだ馬車が本道りを通る。その馬糞を素早く掃除するのも小僧さんの役目だった。でも日本人は凄い、復興し始めた広島は見る見る変化していった。夜学の途中の広島駅の変化は今でも思い浮かべることができる。でも裏道りは寂しくて怖かったね。
その広島が見事に復興した。廃墟の中にあつた原爆ドームは華やかなビル群に囲まれて感心を持つ人以外、注目をひかない。あの惨劇を思い出すのが8月6日の原爆記念日のときだけ、体験した人以外、あの惨劇は想像出来ないのだろう。

そして私の文章の中でも語られることが少なくなった。でも忘れてはいない。拙い私の文章の中の、あちこちに散見する戦争や原爆への思いを嗅ぎ取ってほしい、そんな気持ちでキーを叩いている。
2016.9.22 見浦哲弥

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2016年05月10日

スクールバス

毎朝7時30分に赤いマイクロバスが大規模林道小板橋から出発する。我が家の孫三人の通学のためのスクールバスである。
これは各集落ごとにあった小学校や分校が消滅したためである。そのための費用は国や自治体が負担するのだが、相当の金額であろうことは素人の私達でも理解できる。教育の機会均等は国の基本理念であることはいうまでもないが、恩恵を受ける側に感謝の気持ちが薄いのでは国家としての団結力は弱くなるのでは。

私は小板に帰郷して始めて遠距離通学の現実を知った。福井市でも三国町でも10分も歩けば学校に着く。それが小板分校に通う餅ノ木集落の生徒は1時間かけて4キロの山道を通ってくる、小学生も高学年にもなれば体力もつき、差して困難の距離ではないが低学年の1−2年生を庇いながらの登校は毎日1時間の遅刻、複複式の授業だから抜け落ちた教科の補修などする時間は先生にはない、従って期末試験で好得点を取るなどは夢のまた夢、それを小板の連中は餅ノ木は頭が悪いときめてかかったんだ。ところが都会の転校生から見ると餅ノ木の自然の子は私が知らない山のような智識の持ち主だった。

餅ノ木の上級生はどんなに天候が悪くても、都合が悪いことがあっても、下級生を学校まで庇いながら登校する。地元の人間は、当たり前としか評価をしなかったが、私は素晴らしいと思った。だから餅ノ木の生徒とは仲良しだったし、彼等も見浦君と見浦君と親しんでくれたんだ。

それから松原にあった中学校へ(高等科といった)通った。旧国道191号線は深入峠を越えて9キロ近くある。深入峠からはオシロイ谷という近道を走って降りて7km、どんなに急いでも1時間、天候が悪いと1.5時間はかかったもんだ。おまけに、ご存知の太平洋戦争で中学生も勤労奉仕なる強制労働があって作業の終了が夕方の5時ということもあって、校門を出る時は、すでに夕暮れ、山道のオシロイ谷は真っ暗、懐中電灯も何もない坂道を空を見上げて、僅かに見える隙間の下が道と判断して登ったものだ。ちなみに松原の校舎は海抜650m、深入峠は870m、見浦家は780m、従って高低差は220m、その1/3を一気に登る近道は日中も厳しい道、それを中学生が夜道を1人で帰る、今なら人権問題になる。

樽床にダム工事が始まって小板の分校にも生徒が増えた。工事関係の子供さんが通学してきたためだ。最盛期には70人を超す生徒がいたから、当然中学校も分室が出来て本校から先生が通ってくるようになった。小板の生徒が松原の本校に行くのは入学式と卒業式の2度だけになって徒歩での毎日通学はなくなったが、やがて松原の中学校も廃止されて中学生は戸河内中学校に通うことになった。そこで登場したのは寄宿舎制度、私の子供達はそのお世話になった。山奥の小さな学校から人数が多い学校への環境変化は当然イジメが発生した。大きな学校を経験した私は小3で発生したイジメに何とか対応して免疫が出来たが、おかげで高等科(2年制の中学)でも、動員でも、大人の新入りの時も、なんとか対応することが出来たんだ。
人間は集団で暮らす動物、順列をつけるためのイジメは大なり小なり必要悪として存在する、その訓練のためにも小規模校よりは中規模校以上の生徒数が欲しい、その配慮不足がイジメが原因の生徒の自殺という悲劇を呼ぶのだと私は考えている。

最近はイジメによる若者の殺人事件が珍しくない。イジメは悪として完全否定をしている社会にも無理があるように思う。決してイジメを肯定するわけではないが、順列をつけるための一つとして小さなイジメは必要悪の気がするのだ。

とはいえ逼迫する地方財政の中で義務教育とは言いながらスクールバスの配慮はありがたい。暖房のきいた車内は冬季の雪中登校の厳しかったことを孫達は想像も出来ないだろう。

人口減少が始まって各所で学校統合が論議され、実行されて、スクールバスによる遠距離通学が珍しくなくなった。勿論、廃校になる地区の心情も猛反対も理解が出来ないではないが、限られた財源と国民の負担を考えると、一方的な主張は子供達に笑われるのではないか。最低の費用で最大の効果は教育の世界でも例外ではないのだから。

ともあれ、今朝も赤いスクールバスは孫達を迎えに来た。将来、彼達が国家の為に役立つ人にならんことをと祈りながら見送った。

2016.1.10 見浦 哲弥

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2016年01月10日

山深い中国山地にも遅い春がやってくる。その季節、誰も気がつかないままに、山肌の林の中に細い白線が現れるのを、貴方は知っていますか?住人は春の風物詩の一つと見過ごしているこの現象、それを何故か気になったのは私が町で育った異邦人?だったせいです。

この地帯はタタラ鉄を巡って山陰と山陽が争ったところ、その戦いを阻んだのは急峻な山肌と積雪だった。その山腹を乗り越えるために何本も刻みこまれた道、その残雪跡が雪解けに白線をつくる。ひそかに、ひそかに切り開いた何本もの道、敵対する相手の目をかすめて作り上げたその道が、雪解けに一時姿を現す。そのつもりで見ると、そこここの斜面に遠い戦国の戦いの痕が見える。長い年月の風雪に、ところどころは消え去った白線の彼方に、過ぎ去った時代の中国山地が見えるんだ。

目を転じて集落の中の小道を見る。幅1メートルばかりの古道が田圃や屋敷で消えては現れ、現れては消える。そして谷川にそって峠を目指し、急斜面を下り、雑木林の中に姿を消す。戦いに敗れた落武者たちがたどった道、人足が牛馬の背にタタラ鉄を積んでひたすら海を目指して歩いた道だ。次の宿場の松原には茶店があった。飯を食って牛馬に餌を食わせて一休み、それを楽しみにひたすらに歩く。その遠い昔の小道は今は知る人もなく、心をやる人もいない。しかし、古道にたたずんで目を閉じれば、遠い遠い昔の息吹を感じるはず。貴方は感じないか、草いきれに混じってほのかに漂う歴史の香りを。

集落を縦貫する1車線の道路がある。100年余り前に建設された近代日本の夜明けを告げた旧国道だ。広島から益田まで人力で切り開いた191号線、この道は戦いに明け暮れた近代日本の象徴、舗装のない砂利道だった。その道をフォードの小さなバスが住民を満載して走った。車の後ろに荷物籠をつけて、それでも足りずに屋根にも荷物を積むガードがあった。お客が満員の時は荷物のかわりに若者が屋根の上でガードにしがみつく。非力で荷物満載の車は、峠にかかると青いガソリンの煙を吐きながら、ひたすらにローギヤで走る。体力のない婦人は車酔いに耐えながら嘔吐をこらえる。そんな難行苦行の田舎道、それが中国山地、それが小板、それが幼い日のわたしの記憶。

勇ましい軍人さんの号令で75年前、第二次世界大戦が始まった。アメリカと戦った太平洋戦争というやつだ。あえぎながらでも広島と結んでいた小さなバスは燃料不足で廃業、山間の住民はただ歩くのみ、役場も病院も買い物も、ひたすらに歩く、そして背負う。靴もズックも長靴も、お金持ち以外には遠い夢、藁で作ったワラジとゾウリが履物の全て、一度きりの時間が藁細工と歩くことで失われてゆく。それが当たり前だった、疑問は持たなかった。
だが戦争が始まるとトラックが通り始めた。小さなトラックが木炭を積んでね、加計にあった小さな製鉄所が増産でね、戦争でコストの高い倒産寸前の小さな製鉄所も仕事が増えたんだ。ところが道路は旧態依然、穴ぼこだらけの砂利道を砂埃を巻き上げながらトラックは走り、悪童達の格好の遊び相手となった。登り坂でスピードが落ちたところで車の後ろにぶらさがる、何百メートルかいったところでスピードが出ないうちに飛び降りる。今考えると危ないゲームだったね。手を離す瞬間を間違えてスピードが出ていて着地に失敗、スリ傷を作ったこともあった。

閑話休題、戦争も末期になって国道とは名ばかりの小板の道路に緊張が走ったんだ。トラックの交通量が飛躍的に伸びた、その一つは前にも書いた戦闘機の防弾板、もう一つはイギリスの傑作機モスキートの登場だった。それが影響をもたらした。防弾板の話は別の文章に書いたので重複は避けよう。今日はモスキートの話にしよう。
この飛行機は正式にはデ・ハビランド・モスキートと言う双発の戦闘機、足が速くて、旋回性能が良くて、機体が木製で軽いと来る。おまけに大出力のエンジンを二つ積んで高速が出るという代物、多目的機である。戦争の末期に日本軍がミャンマー(当時はビルマといった)に侵攻した頃から活躍を始めたという。
忠勇無双の日本軍はこの飛行機に散々な目に合わされたとか。わが国は物まね日本と陰口をたたかれたお国柄、木材は沢山ある、日本でも木製の飛行機を作れと軍人さんが号令をかけたからさあ大変。この地帯で唯一残っていた原生林、中の甲谷からブナの大木を切り出してベニヤ板にして飛行機を作るという大計画、泥縄もいいところだが頭に血が上った軍人さんは大真面目、途端に小板の道路は賑やかになったね。

穴ぼこだらけの砂利道、悲鳴を上げる木炭車、手もっこと鍬とショベルの修路工夫さんがつききりで道直し、でもひと雨来ると穴ぼこ道が再現する、まさに賽の河原だった、あの風景は昨日のことだ。

敗戦の混乱が落ち着き始めて、そう1955年頃かな、日本の産業復興の兆しが見えると、隣部落の樽床にダム建設が本格化し始めた。長い前哨戦があったと聞くから、ダム建設の話は終戦後間もなくおきた。
大田川の最後の発電ダムの建設とて、落差も大きく出力も巨大、住民は樽床ダムと呼ぶが、地図上では聖湖と記されている。この地帯でも有数の大きな樽床部落を殆ど飲み込む大工事、1車線の砂利道での資材搬入は無理と15キロ下流の三段峡の入り口からケーブル線を建設、峰を3つ越して建設現場へ直接資材の搬入を始めた。ところが工事用のケーブル線での人間の輸送は危険で資材以外は道路を利用するしか方法がなかった。
そこで冬季でも交通を確保すための除雪が始まった。ブルドーザーが轟音を響かせて積雪を排除して道を確保する。積雪で諦めていた冬季の交通が約束されて病人を橇で搬送する苦労も昔話になった。私もその恩恵で命拾いをした人間の1人。
ところが除雪機械が工事用のブルドーザー、従って雪だけでなく路面もけずる。春ともなれば沿線の田圃は雪と共に放りこまれた砂利が小山になって続く、これには苦情が殺到した。そこでようやく路面舗装が始まったんだ。

戦争をしないと国内は様々な点で改良され進歩する。都市近郊でしか見られなかった舗装道路、アスファルト舗装で夢のようじゃなと感激したのも束の間、舗装がされても道幅や急坂は昔のまま、自動車が増えて1車線での離合(すれちがい)が苦痛になる、対向車がくれば道幅が広いところまで後退しなければいけない、どちらがバックするかで争いになる、なかには居据わる奴がいて小心者が割りを食うこともあって、問題もおきた。

その時期、かの有名な田中角栄氏が登場、政治力を発揮して道路が良くなり始める。なにしろガソリン税なるものを新設、国庫に集まった新税は全て道路改良・新設に向けるというのだから画期的。しかも、その税率たるや、本体のガソリンより高い。その税金は建設省がにぎって全部が道路に使う目的税。時あたかも日本の経済が上昇期に入ってマイカーブームがおき、猫も杓子も免許を取って自動車を買う、それが生きる目的。従ってガソリンが売れる、そして道路にお金が回る、とんでもない循環が始まったんだ。勿論、抜け目のない政治家諸君には土建屋さんから政治献金が潤沢に入ってくる、公共事業が資金源とは怪しからんとの世論はあっても、僻地の道路はあれよあれよと言う間に2車線になり、高速道路に接続し、長大なトンネルが掘削されて、七曲の山道は山の下のトンネルに変わり、歩いて二日がかりだった広島が、マイカー時代の初期で5時間、高速道路を利用すると2時間はかからない。住民は先日までの不便など何処吹く風、当然のように自家用車をぶっとばす。

一家に1台のマイカーは常識で、見浦牧場では乗用車、トラックが計5台、運転手が5人、役場も学校も病院も20キロの彼方、買い物一つでも3、40キロ走らなければ用がたせない。自動車は生命線になって、一人暮らしの老人が車がなかったら生きてゆけない、とんでもない世の中になってしまったんだ。

ところが近代化された道路は昔は夢だった大きな橋やトンネルを建設することで成り立っている。私達が日常的に利用する橋にも何億円もする高価な橋が珍しくない。ところが人工物なのだから耐用年数なるものが存在する。老朽化した時は寒気がするほどの巨額の費用がいるはずだ。人口が減り始め、経済も停滞しがちの日本にそんな資金が何処にあるのかと、いささか不安である。

取越し苦労の老人の呟きを踏み潰すように、今日も家の横の大規模林道を岡山の港から益田の巨大牧場に20トン積みのバルク車(バラ積みの飼料の運搬車)が吹っ飛んでゆく、時代は移り変わる、か?

2014.8.9 見浦 哲弥
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