2017年08月05日

ウォーキング

毎年10月になると深入山ウォーキングなるイベントが催される。目下、その準備の人達で山道が賑やかである。深入山のグリーンシャワーなる広場が起点で、旧国道191号線を歩いて、小板で新国道に合流して深入山を1周する、延長7キロ位か。途中に私が松原校に通学するときに泣かされた、標高890メートルの水越垰がある。

そして今日は開催日、9時頃から道路に人影が。日頃人影の少ない旧国道にウォーキングとはいえ賑やかになるのは心楽しいものである。それに若者の途絶えた道にカラフルなウェアが続くのは、往来の激しかった昔をしばし偲ばせる。

それにしても時代の変化の大きさに驚かされる。道路が整備され、公共交通が不必要なほどマイカーが普及して、歩くことがスポーツになり始めている。戦時中の動員で北広島町新庄にあった宿舎まで徒歩40キロあまり、休憩時間を含めて10時間かかった。勿論、歩き難い砂利道は子供にとって遠い異次元の世界と感じたものだ。

我が家の孫くん3人のうち下の二人が10キロコースにチャレンジした。ところが4キロでダウン、家に走り込んでゲーム三昧、日本の将来を思うと背筋が寒くなる。少子化で子供を甘やかしすぎると思うのは老人のひがみか。

考えてみれば旧国道が賑わうのは”しわいマラソン”と”深入山ウォーキング”だけ。戦中、戦後の、悪路に国運と生活を委ねた賑わいは、繰り返したくはないが、懐かしい。

我が家から旧道の峠まで約2キロ、(峠から谷に沿って下る急坂(オシロイ谷)があって徒歩の時は、このコースを歩いた)松原の高等科に通った2年間、お世話になった道である。自然が一杯でね、ムササビを見たのも、ドンビキと呼ぶ巨大なヒキガエルを見たのもこの道だ。もっとも人権もへったくれもない戦時中のこと、勤労奉仕と称して遅くまで作業をさせられて、明かりもなくて夜空を見上げて頭上の隙間に導かれて帰った道でもある。自動車が普及を初めて、オシロイ谷の近道の人通りが途絶えてから40年近く、細い山道はヤブの中に埋もれて知る人以外は道の存在も忘れ去られた。

深入山ウォーキングは旧国道の車道を通って深入山を一周する。秋日和ならば絶好のハイキングコースだが、この道にまつわる物語を語る人はいないし、誰も知らない、ただ歩くだけ。100年あまりのこの道の歴史は、日本の近代史の一部と重なっているというのに。

時代が進んで便利になったのは有りがたいかぎりだが、歩くことが少なくなって要介護の老人が増えた感じがする。新聞の老々介護に疲れての心中やら殺人と言った記事を見ることが多くなった。他人事ではない、懸命に生き日本の復興に力を注いできた人生、その功労の報酬に人に迷惑をかけないで、ひっそりと旅立つのが理想である。私は小5から働き続けてきたのだから、せめてそのぐらいの我儘は聞いてほしいものだと思っている。

今年も無事、深入山ウォーキングは終了した。ただ歩くだけでなく、私の提言の一部でも聞いて欲しいと思っている。

2016.10.2 見浦哲弥

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2016年05月10日

スクールバス

毎朝7時30分に赤いマイクロバスが大規模林道小板橋から出発する。我が家の孫三人の通学のためのスクールバスである。
これは各集落ごとにあった小学校や分校が消滅したためである。そのための費用は国や自治体が負担するのだが、相当の金額であろうことは素人の私達でも理解できる。教育の機会均等は国の基本理念であることはいうまでもないが、恩恵を受ける側に感謝の気持ちが薄いのでは国家としての団結力は弱くなるのでは。

私は小板に帰郷して始めて遠距離通学の現実を知った。福井市でも三国町でも10分も歩けば学校に着く。それが小板分校に通う餅ノ木集落の生徒は1時間かけて4キロの山道を通ってくる、小学生も高学年にもなれば体力もつき、差して困難の距離ではないが低学年の1−2年生を庇いながらの登校は毎日1時間の遅刻、複複式の授業だから抜け落ちた教科の補修などする時間は先生にはない、従って期末試験で好得点を取るなどは夢のまた夢、それを小板の連中は餅ノ木は頭が悪いときめてかかったんだ。ところが都会の転校生から見ると餅ノ木の自然の子は私が知らない山のような智識の持ち主だった。

餅ノ木の上級生はどんなに天候が悪くても、都合が悪いことがあっても、下級生を学校まで庇いながら登校する。地元の人間は、当たり前としか評価をしなかったが、私は素晴らしいと思った。だから餅ノ木の生徒とは仲良しだったし、彼等も見浦君と見浦君と親しんでくれたんだ。

それから松原にあった中学校へ(高等科といった)通った。旧国道191号線は深入峠を越えて9キロ近くある。深入峠からはオシロイ谷という近道を走って降りて7km、どんなに急いでも1時間、天候が悪いと1.5時間はかかったもんだ。おまけに、ご存知の太平洋戦争で中学生も勤労奉仕なる強制労働があって作業の終了が夕方の5時ということもあって、校門を出る時は、すでに夕暮れ、山道のオシロイ谷は真っ暗、懐中電灯も何もない坂道を空を見上げて、僅かに見える隙間の下が道と判断して登ったものだ。ちなみに松原の校舎は海抜650m、深入峠は870m、見浦家は780m、従って高低差は220m、その1/3を一気に登る近道は日中も厳しい道、それを中学生が夜道を1人で帰る、今なら人権問題になる。

樽床にダム工事が始まって小板の分校にも生徒が増えた。工事関係の子供さんが通学してきたためだ。最盛期には70人を超す生徒がいたから、当然中学校も分室が出来て本校から先生が通ってくるようになった。小板の生徒が松原の本校に行くのは入学式と卒業式の2度だけになって徒歩での毎日通学はなくなったが、やがて松原の中学校も廃止されて中学生は戸河内中学校に通うことになった。そこで登場したのは寄宿舎制度、私の子供達はそのお世話になった。山奥の小さな学校から人数が多い学校への環境変化は当然イジメが発生した。大きな学校を経験した私は小3で発生したイジメに何とか対応して免疫が出来たが、おかげで高等科(2年制の中学)でも、動員でも、大人の新入りの時も、なんとか対応することが出来たんだ。
人間は集団で暮らす動物、順列をつけるためのイジメは大なり小なり必要悪として存在する、その訓練のためにも小規模校よりは中規模校以上の生徒数が欲しい、その配慮不足がイジメが原因の生徒の自殺という悲劇を呼ぶのだと私は考えている。

最近はイジメによる若者の殺人事件が珍しくない。イジメは悪として完全否定をしている社会にも無理があるように思う。決してイジメを肯定するわけではないが、順列をつけるための一つとして小さなイジメは必要悪の気がするのだ。

とはいえ逼迫する地方財政の中で義務教育とは言いながらスクールバスの配慮はありがたい。暖房のきいた車内は冬季の雪中登校の厳しかったことを孫達は想像も出来ないだろう。

人口減少が始まって各所で学校統合が論議され、実行されて、スクールバスによる遠距離通学が珍しくなくなった。勿論、廃校になる地区の心情も猛反対も理解が出来ないではないが、限られた財源と国民の負担を考えると、一方的な主張は子供達に笑われるのではないか。最低の費用で最大の効果は教育の世界でも例外ではないのだから。

ともあれ、今朝も赤いスクールバスは孫達を迎えに来た。将来、彼達が国家の為に役立つ人にならんことをと祈りながら見送った。

2016.1.10 見浦 哲弥

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2016年01月10日

山深い中国山地にも遅い春がやってくる。その季節、誰も気がつかないままに、山肌の林の中に細い白線が現れるのを、貴方は知っていますか?住人は春の風物詩の一つと見過ごしているこの現象、それを何故か気になったのは私が町で育った異邦人?だったせいです。

この地帯はタタラ鉄を巡って山陰と山陽が争ったところ、その戦いを阻んだのは急峻な山肌と積雪だった。その山腹を乗り越えるために何本も刻みこまれた道、その残雪跡が雪解けに白線をつくる。ひそかに、ひそかに切り開いた何本もの道、敵対する相手の目をかすめて作り上げたその道が、雪解けに一時姿を現す。そのつもりで見ると、そこここの斜面に遠い戦国の戦いの痕が見える。長い年月の風雪に、ところどころは消え去った白線の彼方に、過ぎ去った時代の中国山地が見えるんだ。

目を転じて集落の中の小道を見る。幅1メートルばかりの古道が田圃や屋敷で消えては現れ、現れては消える。そして谷川にそって峠を目指し、急斜面を下り、雑木林の中に姿を消す。戦いに敗れた落武者たちがたどった道、人足が牛馬の背にタタラ鉄を積んでひたすら海を目指して歩いた道だ。次の宿場の松原には茶店があった。飯を食って牛馬に餌を食わせて一休み、それを楽しみにひたすらに歩く。その遠い昔の小道は今は知る人もなく、心をやる人もいない。しかし、古道にたたずんで目を閉じれば、遠い遠い昔の息吹を感じるはず。貴方は感じないか、草いきれに混じってほのかに漂う歴史の香りを。

集落を縦貫する1車線の道路がある。100年余り前に建設された近代日本の夜明けを告げた旧国道だ。広島から益田まで人力で切り開いた191号線、この道は戦いに明け暮れた近代日本の象徴、舗装のない砂利道だった。その道をフォードの小さなバスが住民を満載して走った。車の後ろに荷物籠をつけて、それでも足りずに屋根にも荷物を積むガードがあった。お客が満員の時は荷物のかわりに若者が屋根の上でガードにしがみつく。非力で荷物満載の車は、峠にかかると青いガソリンの煙を吐きながら、ひたすらにローギヤで走る。体力のない婦人は車酔いに耐えながら嘔吐をこらえる。そんな難行苦行の田舎道、それが中国山地、それが小板、それが幼い日のわたしの記憶。

勇ましい軍人さんの号令で75年前、第二次世界大戦が始まった。アメリカと戦った太平洋戦争というやつだ。あえぎながらでも広島と結んでいた小さなバスは燃料不足で廃業、山間の住民はただ歩くのみ、役場も病院も買い物も、ひたすらに歩く、そして背負う。靴もズックも長靴も、お金持ち以外には遠い夢、藁で作ったワラジとゾウリが履物の全て、一度きりの時間が藁細工と歩くことで失われてゆく。それが当たり前だった、疑問は持たなかった。
だが戦争が始まるとトラックが通り始めた。小さなトラックが木炭を積んでね、加計にあった小さな製鉄所が増産でね、戦争でコストの高い倒産寸前の小さな製鉄所も仕事が増えたんだ。ところが道路は旧態依然、穴ぼこだらけの砂利道を砂埃を巻き上げながらトラックは走り、悪童達の格好の遊び相手となった。登り坂でスピードが落ちたところで車の後ろにぶらさがる、何百メートルかいったところでスピードが出ないうちに飛び降りる。今考えると危ないゲームだったね。手を離す瞬間を間違えてスピードが出ていて着地に失敗、スリ傷を作ったこともあった。

閑話休題、戦争も末期になって国道とは名ばかりの小板の道路に緊張が走ったんだ。トラックの交通量が飛躍的に伸びた、その一つは前にも書いた戦闘機の防弾板、もう一つはイギリスの傑作機モスキートの登場だった。それが影響をもたらした。防弾板の話は別の文章に書いたので重複は避けよう。今日はモスキートの話にしよう。
この飛行機は正式にはデ・ハビランド・モスキートと言う双発の戦闘機、足が速くて、旋回性能が良くて、機体が木製で軽いと来る。おまけに大出力のエンジンを二つ積んで高速が出るという代物、多目的機である。戦争の末期に日本軍がミャンマー(当時はビルマといった)に侵攻した頃から活躍を始めたという。
忠勇無双の日本軍はこの飛行機に散々な目に合わされたとか。わが国は物まね日本と陰口をたたかれたお国柄、木材は沢山ある、日本でも木製の飛行機を作れと軍人さんが号令をかけたからさあ大変。この地帯で唯一残っていた原生林、中の甲谷からブナの大木を切り出してベニヤ板にして飛行機を作るという大計画、泥縄もいいところだが頭に血が上った軍人さんは大真面目、途端に小板の道路は賑やかになったね。

穴ぼこだらけの砂利道、悲鳴を上げる木炭車、手もっこと鍬とショベルの修路工夫さんがつききりで道直し、でもひと雨来ると穴ぼこ道が再現する、まさに賽の河原だった、あの風景は昨日のことだ。

敗戦の混乱が落ち着き始めて、そう1955年頃かな、日本の産業復興の兆しが見えると、隣部落の樽床にダム建設が本格化し始めた。長い前哨戦があったと聞くから、ダム建設の話は終戦後間もなくおきた。
大田川の最後の発電ダムの建設とて、落差も大きく出力も巨大、住民は樽床ダムと呼ぶが、地図上では聖湖と記されている。この地帯でも有数の大きな樽床部落を殆ど飲み込む大工事、1車線の砂利道での資材搬入は無理と15キロ下流の三段峡の入り口からケーブル線を建設、峰を3つ越して建設現場へ直接資材の搬入を始めた。ところが工事用のケーブル線での人間の輸送は危険で資材以外は道路を利用するしか方法がなかった。
そこで冬季でも交通を確保すための除雪が始まった。ブルドーザーが轟音を響かせて積雪を排除して道を確保する。積雪で諦めていた冬季の交通が約束されて病人を橇で搬送する苦労も昔話になった。私もその恩恵で命拾いをした人間の1人。
ところが除雪機械が工事用のブルドーザー、従って雪だけでなく路面もけずる。春ともなれば沿線の田圃は雪と共に放りこまれた砂利が小山になって続く、これには苦情が殺到した。そこでようやく路面舗装が始まったんだ。

戦争をしないと国内は様々な点で改良され進歩する。都市近郊でしか見られなかった舗装道路、アスファルト舗装で夢のようじゃなと感激したのも束の間、舗装がされても道幅や急坂は昔のまま、自動車が増えて1車線での離合(すれちがい)が苦痛になる、対向車がくれば道幅が広いところまで後退しなければいけない、どちらがバックするかで争いになる、なかには居据わる奴がいて小心者が割りを食うこともあって、問題もおきた。

その時期、かの有名な田中角栄氏が登場、政治力を発揮して道路が良くなり始める。なにしろガソリン税なるものを新設、国庫に集まった新税は全て道路改良・新設に向けるというのだから画期的。しかも、その税率たるや、本体のガソリンより高い。その税金は建設省がにぎって全部が道路に使う目的税。時あたかも日本の経済が上昇期に入ってマイカーブームがおき、猫も杓子も免許を取って自動車を買う、それが生きる目的。従ってガソリンが売れる、そして道路にお金が回る、とんでもない循環が始まったんだ。勿論、抜け目のない政治家諸君には土建屋さんから政治献金が潤沢に入ってくる、公共事業が資金源とは怪しからんとの世論はあっても、僻地の道路はあれよあれよと言う間に2車線になり、高速道路に接続し、長大なトンネルが掘削されて、七曲の山道は山の下のトンネルに変わり、歩いて二日がかりだった広島が、マイカー時代の初期で5時間、高速道路を利用すると2時間はかからない。住民は先日までの不便など何処吹く風、当然のように自家用車をぶっとばす。

一家に1台のマイカーは常識で、見浦牧場では乗用車、トラックが計5台、運転手が5人、役場も学校も病院も20キロの彼方、買い物一つでも3、40キロ走らなければ用がたせない。自動車は生命線になって、一人暮らしの老人が車がなかったら生きてゆけない、とんでもない世の中になってしまったんだ。

ところが近代化された道路は昔は夢だった大きな橋やトンネルを建設することで成り立っている。私達が日常的に利用する橋にも何億円もする高価な橋が珍しくない。ところが人工物なのだから耐用年数なるものが存在する。老朽化した時は寒気がするほどの巨額の費用がいるはずだ。人口が減り始め、経済も停滞しがちの日本にそんな資金が何処にあるのかと、いささか不安である。

取越し苦労の老人の呟きを踏み潰すように、今日も家の横の大規模林道を岡山の港から益田の巨大牧場に20トン積みのバルク車(バラ積みの飼料の運搬車)が吹っ飛んでゆく、時代は移り変わる、か?

2014.8.9 見浦 哲弥
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2015年11月07日

廃屋

日本が人口減少に変じて、各所に起きた現象に廃屋がある。もっとも、わが小板で廃屋が目立ち始めたのは、ここ20年余りにもなるか、無住はそれ以前からだから、随分昔からの現象である。しかし、無住と廃屋は大きく違う。とくに解体されることなく朽ちて行く廃屋の住民に与える影響は大きい。まるで年老いて衰え行く我が身を見せられるようで、気持ちが沈んでゆく。

見浦牧場の前にある一軒のお家も廃屋に向けて進行中である。私が帰郷した70年前すでに新築の面影はなかったから、築100年余りのお家である。典型的な茅葺で、私が10代の頃、葺き替えの出役に行った覚えがある。確か40年毎の周期だから、その点からも100年以上の古家であることは間違いない。

旧国道、広島-益田線の道路沿いで小さなお店だった。駄菓子が少々と缶詰と酒と酒のつまみが並んでいた。それだけでは食べてゆけないので、田圃も2-3反あったのでは。親父さんは陸軍の伍長さん、我が小板では親父の陸軍中尉を除くと最高位、何事かあると軍服を着て肩章をつけて現れる小板の名士だった。何しろ小板最古の先住民、某家の分家と来るから、小板の住民は煙たくても頭があがらない。
彼には娘さんと息子さんがいた。でも娘さんは原爆で行方不明になり、息子さんはシベリヤ抑留になった。何とか生きて帰る事は出来たが、帰国後の生活はうまく行かず、離婚して一家離散、幸いお爺さんはその前に死んだ、が、家は人手に渡った。

新しい住人は、家に手を入れて大事にした。お店だったところも部屋に改造、住宅としては大きな家となった。時代の流れで屋根は萱屋根に鉄板で蓋う流行の鉄板葺きになった。新住民の改造で家の中は見違えるようになった。立派な仏壇も座り、屋根も5年おきの塗装で、貧乏、貧乏と口癖ながら手入れの行き届いたお家だったが、一人娘さんが町内に嫁いで跡継ぎがいなくなった。それでもお婆さんは家を守った。屋根も塗装をかかさなかった。除雪機も自分で使って除雪もした。しかし、冬のある日、見取る人なく旅立って無住になった。

家は生きている。無住と言うことは、家にとっても終わったということだ。まだ命が続いている間に次の住人が現れれば再生もするが、無住が数年もすると家も死んでゆく。かの家も無住になって、はや10年、屋根が崩れ始めた。あの鉄板の破れの下には仏壇があると人は言う、が゙固く閉ざされた屋内のことは誰も知る由もない。辛うじて窓の破れから見える室内は山積した埃の下に昔の栄光が見える。

小板には廃屋がまだ数件ある。大規模林道の道下にも大きな藁屋根の農家が倒壊している。お爺さんが腕のいい山仕事の職人で、自分の住宅を新築するに当たって材木を吟味して建てたんだ。それがお婆さんの自慢で板の間や縁側に足跡が付いたら大変な騒ぎで、子どもの頃はそれで叱られた。それでも、お婆さんがこだわるだけあって、つやが出るまで磨き上げた囲炉裏端の板の間は、見事だったね。
しかし跡継ぎの娘さんが大阪に出て、老人が死に絶えて無住になると手入れをする人もなく荒れ始めたんだ。
それでも婆様が自慢していた家だけあって、無住になっても往時の姿が崩れなかった。さすがだねと話し合ったものだ。ある年大雪が降って滑り落ちた雪が屋根まで届いた。それが例年になく高いところまで、そして暖かい日に少し融けて凍りついた。その重量で鉄板がずり落ち、棟に大穴が開いたんだ。それでも作りのいい建物は中々倒れない。少しずつ腐ってゆくだけ。倒壊するまで10何年もかかったんだ。そして婆様が自慢だった美邸は残骸と化して醜態をさらしている。

廃屋を見る度に思う。田舎には自他共に認める名家がある。しかし、跡継ぎがいない、いても人生教育がされていない、などで人為的にも滅んでゆく。何代も続いたと言う誇りも、それを裏づけする人間が繋がないと幻に終わってしまう。私の短い人生の中でも数多く見せてもらったんだ。

廃屋を見る度に生き様の廃屋にならないようにと自戒している。

2015.8.8 見浦哲弥

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2015年05月09日

深入山は火山

2014.9.14、今日は小板の話をしてくれとの依頼で大野モータースのイベントに出かけました。雑談の相手なら嫌いではないのですが衆目を集める演壇は苦手で、そんな話があると「尋卒(小学校しか出ていない)に恥をかかせなさんな」と断り続けてきたのですが、お隣で日頃の付き合いを考えるとそうも行かず、衰えた頭に鞭打って30分ばかり”誰も話さない小板の話”をしゃべって来ました。

ところが聞き手の中に友人の娘さんがいた。
彼女曰く、「私の知らんことばかりだった」、「おい、おい、あんたは小板で生まれたんぞ」、「それでも見浦さんは算数しか教えてくれんかった」
そこで気がついた。今日は深入山が死火山だったことも話そうと思ったんだ。それを完全に失念していた。
それで「深入山が火山だったことは?」と聞くと「えっ、ほんま」と、のたまった。その言葉で深入山の話を書かねばなるまいと思ったんだ。

深入山は国道191号線と旧191号線(現在は町道)が麓を取り巻いて走っている独立峰。広島側の松原から走ると柔らかな曲線の山峰がみえる。転じて島根側から道戦峠を越えると深入山の主峰と前深入と呼ばれる副峰が眼前に迫る。そして地元の住人が"イデガタニ”と呼ぶ巨大な深い谷が見える。

私が深入山が火山と知ったのは、そんな昔ではない。「ありゃー死火山ど」と教えてくれたのは誰だったか忘れたが、それまでの様々な疑問が解けたのだから、あの一言は強烈だった。
それが前述のイベントでの話に結びついた。

小板川の上流に一枚岩の川底が500メートルばかり続くところがある。地元の人がナメラとよんでいた、川遊びでヒラベ(イワナ)追っかけて川を上ると行き当たる、魚の隠れる溜りがなくて、たまの溜りも小さなヒラベしかいなかった、刈尾山側の六の谷とは異質の川だった。もしかすると、あれは溶岩か?と思ったんだ。そのナメラに合流する小さなカジヤ谷の急な谷底も同じ岩盤が続いていた。そういえば反対側の小山に植林された檜は何年たっても大きくならない。古老曰く、「この山は木が育たん山での、植林なんかしても無駄での」とのたまった。その小山を越した斜面は木の生長が早く、よく繁る、そこの宇名(あざな)は繁濃(シゲノウ)。そこで思い当たったんだ。稙林地は土が薄いから木が伸びない、土の薄いのは底に溶岩があるからだ。

考えてみると小板には井戸が一つもない。横穴と称して崖に小さなトンネルを水が湧き出るまで掘る、にじみ出た湧き水を集めてそれを飲料水にしていた。住民が増加するまでは4つあったとも伝えられた沼もことごとく田圃になった。小板全域で最盛期は約20ヘクタールの水田があった。梅雨時の朝靄の中の稲田は一幅の絵画だった。ところが、お盆の8月15日前後の乾期になると川の水が一気に減って水の取り合いが始まる。深入山は死火山、溶岩で出来ている、だからであった。溶岩の上には何千年か何万年かで出来た岩石や土が積もってはいるが、褶曲で出来た山々に較べると沁み込む雨水が格段に少ない、従って夏の渇水期が一月も続くと谷谷の湧き水が止まってしまう。小板の命の川、小板川も干上がりはしないが、田圃にまでは水が届かない。そこで日頃の付き合いは何処へやら、隣同士がにらみ合う。そんなことが何年かごとに繰り返されたんだ。ところが深入山の旧火口から流れ出る谷は、比較的水が切れない。これは渇水に苦しむ小板の住民には垂涎の的、悪い奴が山腹に溝を掘って盗水をした。松原の水が峠を越して小板に流れたので、峠の名前が"水越しの峠(みずこしのたお)、峠で双方の住民が鎌を持って睨みあいの喧嘩までしたと古老が話した。

1960年代に小板に開拓の話が持ち上がった。農閑期には飯を食わない、テーラーなるミニ耕運機の普及で役牛の和牛が急速に減って、堆肥の供給源がなくなると、農業の専門家が危機感をもったんだ。そこで和牛を肉用牛に転換して利用しよう、そのために草地開発をして畜産農家を育てようという事になったんだ。
その開拓事業に便乗して、全戸に水道をつけた。これが小板簡易水道の始まりである。貧しいお爺さんに「見浦さん、御蔭で毎晩新しいお湯の風呂に入れる。極楽で」と感謝されたのはこのときである。以来、小板の水不足は大いに改善された。

ところが集落外の住民が増えた。いわゆる別荘、その他である。経済的に余裕のある新住民の中に地下水を求める人が出た。掘削の機械も進化して比較的簡単に掘れるようになった。勿論、費用は高価、一般的ではないが挑戦する人が出た。そして3箇所で水を掘り当てた。深さ80メートル、50メートル、150メートル。即ち、溶岩の厚さがそのくらいあるということだ。

話がそれた。先日、テレビを見ていたら、中国地方の火山帯の分布が表示されていた。瀬戸内海の沿岸と島根県の海岸沿いに、そして二つの火山帯を結ぶブリッジ、それが湯来温泉を経て吉和、筒賀、そして細長く深入山、さらに匹見、美都、有福と島根の温泉群に続く。まさに深入山は火山だった。但し死火山(休火山かもしれない)。もっとも瀬戸内海側はいずれも加温する温泉、中国山脈に近づくほど湯温は下がり、頂上を越して日本海に迫ると再び湯温は上昇する。
ちなみに筒賀に温泉を泉源とする小さな池がある。その池では金魚が自然繁殖して様々な姿を見せてくれる。美しくないのもいてね。池の温度は年間を通じて19度で一定だとか。

深入山と前深入の間に大きな円形のくぼみがある。測って見たことはないので正確ではないが、直径が7−800メートル位の草原である。一箇所、壁が大きく切れ込んで、小板の水道の谷に水が流れこむ。この谷が深入山の唯一水が切れない谷、火口の証拠だ。湧水が切れないのは火口跡にたまった地下水が流れ出るためだと考えられる。勿論、素人の独断だから間違いかもしれないが、疑問を持たれた人は学術的に調べて欲しい。

深入山の頂上に陸地測量部の三角点がある。そこから聖湖側に少しばかり下ると板状の石が散乱している。遠足で登ったときは変な石があるなと思ったが、今考えると、この火山特有の石だったのかもしれない。

お天気の日は頂上から日本海が見える。空気が澄んでいるときは益田の沖の小島までが見える。貴方が登山を楽しむ時間を持っているのなら、是非、深入山にも登って欲しい。穏やかな表情の山の、もう一つの側面を探りながら。

2014.10.8 見浦哲弥



参考
・深入山は「約1億年前〜6500万年前に噴火した火山の岩石」でできているそうです。
日本シームレス地質図」より

・そのころの日本はまだ大陸に引っ付いていました。
(1)日本列島の地質構造の変遷』の6ページ参照 (図中の「30Ma以前」とは「3000万年以前」という意味です。)

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