2015年03月10日

田植え歌

数えて見ると、もう70年あまりの昔になった、田植えの季節に聞こえていた田植え歌、子供だった私が大人に混じって懸命に働いた田植えの日、腰の痛みに耐えながら親父さんの前歌に続いて五月女さんと後歌を歌う、歌の意味は判らなくても土の香りのメロディは心の休まるものがあった。
梅雨時に何日も続いた田植え、そして五月女さんとの合唱、私の心には、まだ聞こえている。

田植機が進化して手で苗を植えれば新聞社が飛んでくる昨今では想像もつかないが、腰を曲げて一株一株と早苗を植えてゆく作業は昔かたぎの農民でも悲鳴を上げるほど辛い作業だった。朝の5時起きで始まる田植えは日が暮れて田圃が夕闇に包まれるまで、4-5回の食事とその間の休憩で束の間、身体を休めるだけ、それが田植えが終わるまで連日続くのだから過酷である。自分の家の田植えが済んでも集落全体の田圃が緑にかわるまでは、田植えは終わらない。テゴー(手伝い)という形の賃仕事が、貧しいこの田舎では高給に属する賃金になるのだから、体が悲鳴を上げても休むわけには行かない。

田植は黙ってするには辛い作業、そこで世間話、「何処そこの誰それは怪しい」から始まって夜這いの話まで、子供には少々刺激が強すぎたが、学校の勉強よりも興味があったね。そんな話の種が尽きると、誰となく田植え歌が始まる。苗代(当時は田圃の一角に厚く種籾を撒いて苗を育てていました)には苗取りの歌、今は一つしか覚えていないが「ミヤジマノー、ゴカイローハ、ドナタガ、コンリュウナサレター、」と早乙女(ソウトメ)の頭が声を張り上げる。「シンタノ、タクミノ、タケタノ、バンジョウ、キヨモリ、コンリュウナサレター」と残りの早乙女が声をあわせる。まだ薄暗い早もやの苗代で歌った苗取り歌、ひなびた合唱に声を合わて何度も何度も繰り返したのは昨日の事のようだ。ちなみに仮名の歌詞を独断で文章に変えると「宮島の御回廊はどなたが建立なされたー、新田の、匠の武田の万上、清盛建立なされたー」となる。

9時過ぎに2番目の朝飯がある。一日、5度の食事の五度飯の制度は随分変なしくみだと思ったのだが、親父ドンに非合理だと文句を言ったら、とんでもない答えが返ってきた。彼曰く「働きに来てくれる人の中には貧乏な人もいるんだ。朝は朝飯を食わずに、夜は夕食抜き、そんな人の為に遅めの朝食、早めの夕食なんだ」。
私が始めて知った世間の裏側、そして思いやりのシステムだった。
しかし、この意味の深さを本当に理解したのは、随分後のこと、当時は5度飯のおかげで、朝は5時起き、夜食後の10時ごろまでの夜なべ、子供には辛かった。それで随分この仕組みを恨んだもんです。

現在も一つのショーとして田植え歌が歌われています。でも昔の生活に直結していた田植え歌とは感じが違います。生活観がにじみ出ていた昔の田植え歌は、私の老化とともに消えようとしています。苗取りが終わって田圃での田植えになると、男衆(おとこし)の即興の歌いだしに、早乙女さんの1人が即興で応える。2度目からは同じ歌いだしに、早乙女さんの大合唱。何度か繰り返すと、又、新しい歌いだし、今度は五月女さんの誰が応えるのかな、ベテランの五月女さんが2-3人もいると次から次と繰り出される即興の田植え歌に腰の痛みが軽くなる。
歌の中には、子供には理解の出来ないエロチックな歌詞あって、それが、おてんとうさんの下で明るく合唱される。田植えは嫌だが、雰囲気は楽しかった。日暮れになると、男衆が「ヒハクレル、ユクヤゴウデ、コマドヘツナイダ、」と歌いだす、と、本日の田植えは切りを付けて終了になる。現金なもので「ヤマヲコシ、タニヲコシ、サガリマツニ、ツナイダ」と応える声には力が入りましてね。耳を澄ますと今でも、その歌声が時の彼方から聞こえてくるようで!!
ちなみに先の歌を文章に直すと「日は暮れる,行くや郷で、駒を何処に繋いだ、山を越し、谷を越し、下がり松に繋いだ」となるのですよ。
 
2014.9.17 見浦哲弥

posted by tetsu at 07:16| Comment(0) | 地域の歴史を語る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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