2013年01月06日

農兵隊 14才で動員に

昭和20年1月 松原尋常高等小学校から的場八郎君と二人、基礎訓練を受けるため、県立七塚原伝習農場に出発しました。降り積もる雪を踏みしめて。
 
敗戦につぐ敗戦で追いつめられた政府が子供まで戦争に動員を始めていました。ちなみに友人の斉藤正司君は少年兵を志願した。彼は戦後、帰宅は出来たが航空隊で罹った病でまもなく死亡。一級上の女の子は従軍看護婦で戦死。私の周辺でも戦争の犠牲になった人数は枚挙につきません。
中東の戦争やアフリカの内戦で子供を戦争に使うと非難していますが、狂気の日本軍部も全く同じ事をしていたのです。
自分たちの過ちを祖国を守る愛国心にすり替えて、動員と言う名目で強制労働に、志願兵にと子供達を送り込んだのです。
 
国家とは何ですか、愛国心とは何ですか、私達は口に出してこの問題を論ずる事はまれです。戦前の間違った愛国心が国民をどんなに悲惨な環境に追い込んだか、広島の惨状の一片でも知る人は、その起こった事だけを非難し、その由来までは思いをはせない、現在はそんな不可解な平和論が横行しています。
私が体験した農兵隊と言う組織、その中での記憶を記述することで、貴方とこの問題を共有したいと思うのです。
 
昭和19年から20年、すでに日本の近海はアメリカ海軍の潜水艦で監視されていました。特に大陸からの資源を運ぶ輸送船は格好の標的になったのです。国内で不足する食糧は中国の東北部(満州と呼ばれていました)から、朝鮮半島を経て、船で朝鮮海峡を渡りました。その船が狙われたのです。
敗色が濃厚になった日本は近海の朝鮮海峡の制海権まで失っていたのです。国外からの資源がなくては生きて行けない事は今も昔も変わらなかったのに。
食料はとうの昔に配給制になっていて、軍関係は何グラム、一般人は何グラムと詳細に決められていましたが、それが危うくなったのです。
一般の市民は米の飯など夢のまた夢、麦飯になり、芋類が入った芋飯になり、雑穀が入る、米粒が少なくなり、一部の人達を除いて白米のご飯は夢で見るだけ、食堂はとうの昔、雑炊になり、それも政府から配られる配給切符や食料切符がないと食べられませんでした。しかも、長い長い行列に並んで。
 
しかし、軍人には腹が減っては戦はできぬと重点的に食料は回ったのですが、社会は餓えに苦しんでいたのです。軍需物資の増産はかけ声だけでは人は動かない、腹が減っては戦は出来ないと、政府は閣議で食料増産を決定しました。席上、石黒農林大臣が軍隊や工場に若者が取られて老人だけの農村では、どうやって働き手を確保するのかと問題提起をしたと聞きます。それなら子供を使えと。
そこで各学校から2名づつ集めて農兵隊を作ったのです。幹部として実業高校の3年生が、隊長として校長先生の古手が、そして寄せ集めの集団が出来上がったのです。そのアマチュアの集まりは何もかにもが試行錯誤、やることなすこと上手く行かない、従ってしわ寄せは子供達にと言うシステムが出来上がったのです。
 
まず幹部の養成、当時、茨城県内原にあった満蒙義勇軍養成所で(少年を満州の農村に日本村を作る為に送り込んだ組織の訓練所)(松原からも1年上の友人が参加させられて満州に行った)即席訓練された17、8の少年5名と、先生の古手と、軍人の古手の大人が2人、これで何も知らない14歳の子供120人をコントロールして働かせ、食料を増産すると言うのだから、負け戦というものは、何もかも狂ってしまうものらしい。
 
農兵隊広島県大隊山県中隊第2小隊第4分隊、分隊長見浦哲弥が私の肩書き、分隊長にされたのは学校の成績が参考にされたのだろうが、そんなものが通用するような環境ではない。お陰で仲間からいじめられるわ、幹部からは標的にされるわ、散々な目に会わされた。
 
本部は新庄村、宿舎は現在は浜田道のインターのところにあった廃牧場の畜舎。
 
最初は畜舎の改造が間に合わない。そこで新庄中学の講堂の二階に間借り、同じ年齢の少年が片や農兵隊でぶん殴られても命令に絶対服従、片や中学生で自分の意志の表現が出来て家に逃げても警察が逮捕に来ることはない、そんな天と地の違いが同じ空間にいた。
 
一応、寝る場所と食事が出来るようになると開墾作業が始まってね。サツマイモの植え付け時期が迫っている、何月何日までにこれこれの面積を畑にして苗を植えろ、命令するのはたやすいが、与えられた土地は熊笹の密生地、全面を耕していては間に合わない、笹を刈り取って大きな溝を掘り、溝と溝の間に土を盛り上げてそれに芋苗を植えろ、簡易開墾と称してね。
おまけにノルマがあって一人一日にこれだけを畑にしろと面積が割り当てられる、要領のいい奴は笹の少ないところを我がちに占領、ポサットした奴は密生地と決まっていて、完了しないと宿舎に帰れない、勿論食事はない。
例によって、のろまな常連が5−6人荒れ地で泣きながら鍬をふるっていましてね。勿論私も一員、お月さんが出ても誰も呼びに来ない、宿舎から2キロ以上も離れた山の中、幹部連中が就寝前の点呼で人数が足りないと騒ぎになって、始めて命令した奴が気がついた、「あいつら、まだ山の中か」。
「もう帰ってもええ」と迎えに来て、宿舎に帰って、冷え切った盛り切りの麦飯と塩汁の夕飯にありついた時は、こんな事がいつまで続くのかと暗澹な気持ちになりました。14歳の子供がね、そこにあったのは正邪の世界ではない、いかに上手いことをするかの要領の世界でした、見浦の家庭では教えられなかった世界があった。
 
昭和20年(1945)には戸河内に上殿、戸河内、松原の3国民学校(尋常高等小学校)がありましてね。松原校からは的場八郎君と私、上殿からは鈴木君ほか1名、戸河内からは中津君ほか1名の計6人、もう何十年も会っていない人もいて記憶も定かではない。
何年か毎に農兵隊の同窓会と称して集まりを持った事が何度かあったが、辛い思い出が多かった関係で、総勢120人あまりの中で出席するのは20人足らず、それも年毎に減って集まりも出来なくなった。
 
山県郡は地勢的に3つに別れるらしい、太田川流域の安野、加計、筒賀、戸河内、地区、江の川流域の大朝、新庄、本地、八重、壬生、南方、原、吉坂、都谷、地区、急峻な中国山地中腹部の八幡、雄鹿原、中野、美和、地区、の各町村。
この3地域は比較的交流が少ない、ことに太田川流域と江の川流域の対立は敵対意識に近い、後年、県会議員の選挙では見事に争った、お陰で芸北地区は漁夫の利で宮本氏が3代に渡って議席を保った、それは後世の話し。
 
ところが農兵隊でも、この関係が見事に起きた、団結の江の川系に対して太田川系は対立の意識はあるもののまとまらない、芸北は無色で傍観の姿勢、その中で私は目立ったものだから集中攻撃を食らった、辛かったね、七塚原の牧場派遣に志願したのも、それが原因、何十年かして、道路が整備され、自家用車が普及して交流の範囲が広がって始めて、地形的にも成る程と理解できた。
 
江の川流域は山や川で別れていても、町村の境が判らないほどなだらかで繋がっている、太田川流域は山は高く急峻、僅かに細長く太田川で結ばれているだけ、芸北地域は尼子と吉川の勢力の接点で支配者の交代が頻繁に起きて住民が保身のため日和見を決め込んだところと。
 
私が本領を発揮できたのは敗戦後、10月の終わりに七塚原牧場から帰隊してから、戦争の為の動員が農民教育の一環に変更されて、労働と共に授業が開始されてから。
何しろ神様より強いマッカーサー総司令部の命令は軍国主義の色彩は完全に払拭せよと、農兵隊も泡を食って取って付けたような教育機関に変身、もっとも高校を出たての17,8の子供が大声を上げて教えても理解できる奴はいなくて授業の最後に「判ったか」と聞いても返事をする者がいない、さらばと、やっと見つけてきた黒板に問題を書いて「出来るものは」と聞いても誰も手を挙げない、困り果てた即席の先生、出来そうな奴に「おい誰々、できるか」と聞く、そして答えが合うと「よう出来た、みんなも判るの、わからにゃ○○に聞け」で終わりにする手を考えた。
当時でも経済的にゆとりがあって頭のええ奴は広島や新庄の中学校へ、行けない奴が小学校の高等科ときまっていた、その高等科でも、卒業したら程度のええ奴は加計か八重の実業に行く、同級生の中には志願兵で航空隊へ行ったのもいたな、農兵隊は農業の跡取りか進学の出来ない奴か、勉強が大嫌いで学校が持て余した奴が送り込まれた、そんな感じだったね。
 
特に数学が出来ない、何しろ食品のカロリー計算も出来ないと言うので大変、業を煮やした先生「宿題にする、明日までにやっておけ」、自由時間が来ると2−3人いた見浦派が「教えてくれと」とやって来た、九九と足し算が出来れば誰でもできる、奴さん達、これで安心して寝られると大喜び、それを見ていた日和見派の勇気のある連中が「俺にも」と来た。
高等科でも上級生にも教えていた数学は得意の科目、「わかった」と喜んで貰うのは一種の快感でね、日頃の垣根が取れると後から後からやって来た、順番を取るとて貢ぎ物まで差し入れる奴もいて、前日までとは天と地の違い、あきれたねが、さすがに目の敵にして私をいじめていた連中は、遠くに固まってにらみつけるだけ、でも手は出てこなかった。
 
12月の終わり頃になって希望者は帰宅しても良いことになった、動員の命令が無効になったと通告があったらしい、表向きは一種の教育機関になっているので正式の解散は翌年の3月、それまでは存続するので出来れば居て欲しい、解散時まで在隊したものは、加計、八重の両実業学校に無試験入学の恩典がつく、軍需物資の払い下げ品も与えると、この説明は効果があって、それでも帰宅すると頑張ったのは10人足らず、その一人が私だった、農兵隊から持ち帰ったのは、1食の握り飯、お米が少々、琺瑯引きの海軍食器、その帰途の雪道遭難は”雪国の教え”に書いた。
 
敗戦の年の苦しかった1年、14歳のひ弱な都会子がタフな少年に変身した、黙って泣きべそをかくより、反撃して殴られろとタフな少年になった、そのために必要な1年だった。
 
時折あった同窓会の誘いもなくなった、苦楽を共にした仲間達も生きの残りは僅かになった、そして農兵隊山県中隊は忘却の彼方に消えようとしている      。
 
2012.7.10 見浦哲弥
posted by tetsu at 09:17| Comment(0) | 地域の歴史を語る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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