2010年09月11日

幻の古戦場

ここ小板は,広島,島根の県境に近い中国山地の分水嶺近くに有ります。
冷涼な気候と清冽な空気、恵まれた自然を慕って訪れる人も増え、別荘も建ちはじめました。しかし、ここが無名の古戦場であったことを知る人もなく、また古文書が残されている話も聞いた事はありません。
ただ、地名が余りにも生々しく古戦場を連想させてしまうのです。

私がこの地に帰郷した昭和16年、新しい友人達の言葉の中の地名に違和感を感じました。それがこの話しの始まりです。「オーイ、てっちゃんやー、オオセンバラに水浴びに行こーや。」夏の暑い日差しの日、悪童連が誘いに来る、オオセンバラなる処はどんなところや、と思いましたね。
集落の平場を流れた小板川が幅40メートル長さ200メートルの狭い山間を流れ下るところがあります。それを抜けるとまた平場、その川幅の狭まった所の堰が水浴場。深さが1メートル 長さが30メートルくらい、これが学校公認の山の子のプール、水浴びの間の甲羅干し、体を温めて又泳ぐ。楽しい遊び場でしたが、なんでここがオオセンバラかいのー、と思いましたね。

何時の頃か父にその事を聞きました。確か父だったと思いますが、彼曰く「あれは応戦原と書く」と答えてくれました。
驚きましたね。応戦原、敵を迎え戦う事ではありませんか。しかも応戦原の傍らの家の屋号は城根、城根の家を建てるために斜面を整地して屋敷を造ったときに土の中から、錆びた槍や刀が続々と現れたとか、城根屋敷の上側の斜面に残っていた石塚の周りでは折れた刀や槍の穂先が、子供の時にはまだあったと古老の話、まさに本物の古戦場。
応戦原から300メートルほど下流に深入山からの支流、出ガ谷(イデガタニ)との合流点があります。それを500メートルほど遡ると小さな原っぱがあるのです,そこがチニワ,「ワラビを取りに行こうやー」とよく行きました。ではそこは、と聞くと血庭と答えが返ってきました。
好奇心は最高になりました。それからは小板の地名に関する事は根掘り葉掘り聞き集めましたね。
いや、あるわあるわ、次々と古戦場まがいの地名が現れてきましてね。

前述の城根はすでに書きました。シロネと書いてジョウネ。城の根っこなら、上にお城があるはずと思ったら80メートルほどの峯がタカノス,鷹の巣と書きます。
登ったことの有る友達は石垣があったといいます。後年境界を決めるために歩いた時は藪が生い茂って確認は出来ませんでしたが、小さな物見の砦があって鷹巣城。

その峯の後ろがカクレザト、隠れ里と書きます。平場から見ると両側の稜線が同じように見えて、その間に平地があるとは思えない。小さな谷川があって小板川の本流と合流する所は狭い谷で、その奥に集落ができて人が住める場所があるなどとは、猟師や木こりならいざしらず、一般人には想像もできない、そんなところもあるのです。

応戦原から500メートルほどさかのぼると,国道191号線に突き当たります。その道が益田方面に旧芸北町八幡に越す小さな峠、それがドウセンダオ(道戦峠と書きます)道路地図帳にもちゃんと記載してありますから,私の話は全部が想像の産物ではないと理解して頂けるのでは。

その先の集落がコウツナギ(甲繋と書きます)、昔は5軒ばかりの集落があってその中の1軒が鍛冶屋さん。そしてその中を流れる小川はタチアライカワ(太刀洗川)こうなるともう物語の一つや二つ伝わっていても不思議ではないのですが、残念ながら古老から何も聞いていない、古文書がないと言うのは萱葺き屋根の住宅で火災が多かったと言う事で理解が出来ますが、昔話が一つもないと言うのは・・・・・・。

小板は4つの集落と隣接しているのですが、その一つ大規模林道の北側の集落はソラジョウ(空城と書きます)ですが砦が有ったとは聞いていない、でも話しの要素は揃いました。
そこで独断と偏見で作り上げた私の昔話はこうです。

・・・・・・

関が原の天下分け目の合戦より100年ほど前、山陰の雄、尼子氏と、安芸にその人有りと記された吉川氏の勢力争いが、ここでも起きました。

山陰から山陽側に越すためには幾つかのルートが有りますが、主要な道はそれぞれ守りが固められて攻めにくい、しかもこの芸北地区は山陰側からは山が険しい。国道186線や191線を走ると山肌を急に下って行きます。改良された現在がそれですから、谷底を這い登った古道で大軍を移動するのはすこぶる困難な仕事なのです。しかし、一カ所だけ山陰側には隠されたルートがあった。

浜田側から波佐川を遡って、金城町波佐から現在の県道115号線に分かれると、源流に向かって一車線の狭い道が山あいに隠れているのです。谷川に沿って緩やかな道を登り切り源流に近い地点で左側のなだらかな林の中を500メートルも歩くと(現在は一車線の砂利道があります)そこは、もう八幡高原木塚原(キツカバラ)。地元の人しか知らない山道ですが、もし私が尼子の部将ならこれを利用しない手はない、そんな考えを起こさせるルートなのです。

さて、八幡から広島に進出するためには、三つのルートあります。
その一つ、八幡から雄鹿原へ越すルートは可成り急な峠を越さなければなりません。しかも雄鹿原側は急坂なのです。
その二つ、八幡から流れ出る太田川の支流柴木川は、急峻な三段峡を下ります。
となると3番目の殆ど高低差がなくて広島に向う現在の国道ルート191に沿ってと、考えるのが無理がありません。

その途中が小板、その境の小さな峠が道戦峠、そこから私の夢物語が始まるのです。

時は中世(時間設定はご自由に)山陰にその人ありと知られた尼子氏と広島吉田(現在の高田市)の吉川氏は、ここ芸北でも激しい勢力争いをしていました。
知勇で知られた尼子の部将(貴方が名前を考えてください)は、地元の猟師から耳寄りな話を聞きました。それが前節で述べた山道だったのです。
かねてから、山陽側に進出が念願の尼子も急峻な中国山脈を越えて大軍を移動する事が困難な事は知っていました。まして要所要所を吉川軍が守りを固めているとあっては。
そこにこの話です。彼は部下の軍勢を引き連れ、くだんの猟師に案内させて、この道をたどったのです。

首尾よく木塚峠から八幡高原に進出した尼子軍は現在の国道191号線沿いに広島を目指しました。
鷹巣砦の知らせで橋山集落から吉川勢の守備隊が急遽駆けつけました。先遣隊が空城川を遡り山道を登って小板に、本隊は松原を経て深入山の麓を通り小板に。
何故、橋山集落に吉川の守備隊が駐屯していたと思うのかと言うと、ここには坂根屋敷という土塀を巡らせた、この地域には珍しい古屋敷があったのですよ。私が20代の頃はまだ現存していて、そこで忍者映画の撮影があったりして。
道路から見上げる坂根屋敷は農家の風情ではありませんでしたね。

私はここが守備隊長屋敷で、その下に続くなだらかな棚田に守備隊の兵舎があった、そう考えたのです。

道戦峠での小競り合いの末、本隊同士が衝突したのが応戦原、ここからが地名の登場で貴方の空想力をお借りしなければなりません。

尼子の進入を許してはならじの吉川の防戦は激闘また激闘、死屍累々となっても勝敗はつかない。両軍は一時的に引いて休戦、吉川方がたむろしたのが、やや下流の血庭、血の庭と表現されたのですから、負傷者の山、さぞ悲惨な光景だったのでしょうね。

尼子軍が引いたのは道戦峠を越して2キロほどの甲繋(コウツナギ)、その小川が太刀洗川、刃こぼれがした刀を小川で洗って血糊を落とす、合戦でいたんだ鎧を繕う人もいる、そんな場面が浮かんでくるのです。

中国山地の小板という、小さな集落の地名から500年前の同じ空間に描かれたかも知れない出来事、それを空想できるのは私達地元の人間の特権なのですよ?。

長い歴史のある日本、目を閉じると、貴方がお住まいの地域でも、思いもがけない光景が浮かんで来るのでは。

私は山国の雨の日に、窓の外の鎮守の森の小道を三々五々退いて行く落ち武者達の姿を瞼の裏に見ているのです。


2009.5.5 見浦哲弥

kosenjou.jpg

追記

私達の時空は幾重にも重なり合っていると思っています。
貴方のお父さん、お母さん、お爺さんとお婆さん、その又先祖の人達、それぞれが生きた歴史が現在に続いている、それを多く知ることは、限られた私達の時間を有効に使う方法だと思うのです。その為にはより早い時期に興味を持たなければ、話してくれる先人達がいなくなってしまいます。

今、お読みになった出来事も、小板で生まれて育った人で興味を示した人は殆どいません。まして子供の頃に聞き歩いたなど、変人以外に考えられないと。
ですから10歳過ぎで移住してきた私の話を「見浦は昔の事をよう知っているのー」と感心する始末、学校で学ぶ歴史の他にも大切な歴史があると思うのですが。

2010.2.20 見浦哲弥
posted by tetsu at 12:28| Comment(0) | 地域の歴史を語る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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