2018年03月25日

蒸気機関車

私は蒸気機関車が好きだ。テレビで蒸気機関車が登場する番組は見逃す事が出来ない。
この遠因は私の生まれた福井の記憶にあるらしい。小板の大畠に戸河内の上殿から手伝いに来ていた佐々木さんという小母さんがいた。弟の信弥さんが生まれたとき、身内同然だった小母さんに手伝いに来てもらったんだ。後年、小母さん曰く、「哲弥さんには参ったよ。少しでも時間があったら汽車を見に行こうと駄々をこねて」と。

福井の住所は駅の裏側にあった。ほんの少し歩くだけで福井駅の操車場につく。昔は大きな駅には必ずあった広い操車場、鉄道の進化で見られなくなったが、その風景は脳裏に焼きついている。
操車場の古枕木の柵にすがって何時間も汽車を見ていたんだとか。動輪4個だけの豆機関車が長い貨物列車から貨車を1両ずつ切り離して引いてゆく。その先にある小さな盛り上がりに押し上げると”トン”と坂の下りの方に押し出す。そこで貨車は自力で走り出すんだ。貨車のブレーキところには赤と青の小旗を持った操車係が何時の間にか乗っていて、旗を振り振り坂道を下るんだ。下った先にレールの切り替えのポイントがあって、行き先の貨物列車の後尾めがけて走る。連結の瞬間は赤旗が振られて「ガシャン」と大きな音がして完了。
その作業が面白くて、今度の貨車はどっちへ行くのかと懸命に眺めたものなんだ。

福井は裏日本、鉄道は北陸線、表日本の東海道線、山陽線と違って2級鉄道だった。従って1級線で勤めを果たした機関車が勢揃いで、コブの数、形、動輪の数、大きさ、デフェンダーのあるなし、先導車輪は、ないのから2軸まで、炭水車がある、なしなど、様々だった。だから福井の操車場は私の好奇心を満足させる絶好の教室だったんだ。

福井の見浦では夏休みになると父の故郷の小板に帰るのが恒例だった。広島から小板までの小さなバスは嫌いだったが、広島までの汽車の旅は楽しかった。2級路線とはいえ北陸本線は幹線、牽引する機関車は骨董品ではない。おまけに福井から敦賀に出るまでに今庄という山越しがあった。現在は北陸トンネルが貫通していて10分足らずで通過してゆくが、当時はスイッチバックで前進後退を繰り返しながら、その峠を越してゆく。あれから80年足らずで、このスイッチバックは数少なくなって、貴重な、その一つが当県の備北にある、孫には見せたいものの一つである。

北陸線は琵琶湖の北端、米原で東海道線に接続する。ここからは東海道線、大阪からは山陽線で、日本の新鋭の機関車を見放題。楽しかったな。大きな機関車が長い客車を引く、力強いし頼もしいのだが煤煙も凄くて風向きによっては、煤や石炭の微粉が窓から飛び込でくる。車窓の景色に夢中になってしがみついていると鼻の穴が真っ黒になってね。福井から帰るのには広島で必ず一泊するのだが、まず風呂、昔の汽車旅行でお風呂が欠かせないのは、この煤煙のおかげ。

昔は現在のようなトンネル掘削の技術がなかったから、長いトンネルは少なかったが、それでも鉄道の特性でトンネルは多かった。トンネルに入る前に必ず汽笛がなる。急いで窓を閉めないと車内が煤煙で一杯になる。昔の汽車旅行には現在と違った世界があったんだ。

広島の手前に西条という盆地がある。その間の瀬野川駅と八本松駅の間に急な坂道が続く。山陽線の新型機関車でも、この坂道には苦闘した。八本松からの下りは快調に走るものの、瀬野川駅からの登りは応援の機関車が後ろにつく。そして汽笛を合図に西条に向かって、前ひき、後押しで登ってゆくんだ。もっとも、これは敗戦から立ち直りはじめてからのこと。敗戦直後は機関車が1両であえぎながら辛うじて登ったんだ。何の用事でその汽車に乗車したかは記憶にないが、満員で客車のトイレに入れないので、飛び降りて線路わきで用を済まして、走って再び飛び乗れるほどのスピードだったと言えば理解をしてもらえるだろうか。

瀬野川駅には、そのために沢山の機関車がいたね。福井の機関区とは違って最新の蒸気機関車がね。世が世なら、そんな私はいっぱしの鉄道マニアになっていたと思うのだが。

日本が高度成長期に突入すると、蒸気機関車は見る見る姿を消して、公園の片隅にひっそりと残骸をとどめるだけになった。そして世の中は、ディーゼル機関車、電気機関車、高速電車とめまぐるしく進化をとげたんだ、そして現在は新幹線と高速道路が主役、私の昔話を聞いてくれる人はいなくなった。

でも、私に頭の中には機関車の汽笛と蒸気の音が鮮明に記憶されている。

テレビの画面に機関車がでると目が釘付けになる、私は85歳の鉄道マニアなんだ。

2015.9.15 見浦哲弥

posted by tetsu at 07:38| Comment(0) | 思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

猛暑

2015.8.1 梅雨があがったと言いながら続いた悪天候が晴れ上がって、遅れに遅れた草刈、ローリングが出来ると喜んだら今日は38度を越す猛暑、テレビも有線も熱射病で倒れる人続出と報じる。とはいえ草刈はやめる訳に行かず一日中トラクター作業。ところが貧乏牧場、キャビンつきのトラクターは皆無、従って冷房なる近代設備とは無縁だから、炎天下、作業帽が日差しをさえぎるだけ。連日、35度の高温がしては熱中症にならないよう老化した頭に鞭打って水を飲み塩分を取る。それでもこの高温はただ事でない。40度に達したところもあるというからと、自分を慰めるのだが、何処まで続く猛暑かなである。

8.11 天気予報では午後から雨で午前中に刈り倒した草の取入れをとの計画が朝から小雨、予定は狂ったが猛暑の終焉である。もっとも、ここ2-3日は夜半から朝までは気温の低下で凌ぎやすくはなっていたのだが、久方ぶりの雨は秋到来を告げている。考えてみれば時間が飛ぶように消えてゆく。何処まで続くと思った猛暑も一瞬だった。

小板は海抜780メートル、高冷地である。真夏の一時を過ぎれば朝晩は都会人が羨望の空気と気温の世界である。勿論、それを狙って別荘が増える。自然が満載の小板では様々な生き物がいる。大はツキノワ熊から猪、狐、狸、いたち、てん、鹿にいたるまで、野生動物に付き合うのは日常である。ただし、豊富だった小板川の魚や水棲動物は住み着いたサギ君の活躍で全滅に近いが、自然と対話するのには事かかない。

8.14 お天気が回復するが、回復すれば仕事が追いかけてくる。朝からトラクターで草刈、牛の予防注射をして、刈おきの草のレーキング。朝晩は涼しくとも日中は30何度、朝夕は過ごしやすいのだが、その温度差の大きさで疲労が蓄積する。それでも真夏は過ぎた。これからは真冬に直行するのみ。そして「早よう暖くう(ぬくう)ならんかのー」と、ぼやく寒い日がやってくる。こうして”年々歳々時相似たり、歳々年々人同じからず”を繰り返す。

真夏の猛暑になると母が亡くなった広島の夏を思い出す。私の育った福井も三国も、まして小板では想像も出来ない暑さだった。おまけに広島名物の夕凪と来る。昭和17年の日本では冷房などはデパートくらい、あとは扇風機があればご馳走と言う世界、団扇と風鈴にひたすら頼るその中で、癌で倒れた母を見送る、私にとって残酷な暑さだった。

小板は深入山と臥竜山との間にある、小さな高原である。最盛期には100人足らずの住民と20ヘクタールの水田があった。かの有名な38豪雪では4メートル近い積雪があった。しかし、夏は爽やかな風が谷間を吹き抜けるし、真夏でも朝夕は季節を忘れる涼しさだった。
が、地球温暖化の影響か、小板にも猛暑がやってくる。今年のように36度も越えると、そして連日ともなると、熱中症も他人事でなくなる。しかも、この時期は牧草の収穫で炎天下のトラクター作業が続く。そのせいか、新型のトラクターは運転席はキャビンで、エアコン、ステレオつきだが、貧乏牧場の年代物のトラクターは屋根もない。3時間も連続作業をしていると目が回ってくる。が、圃場の大きさや作業の都合では、そんなことも言っておれない、「えー、ままよ」と頑張る。勿論、水筒のお茶を飲みながらね。

とにかく小板も猛暑だった。が、幸いなことにお盆を過ぎると、又高冷地の気象が戻ってきた。毎朝の爽やかな空気は小板ならではである。

8.26 猛暑が過ぎて爽やかな空気がやってきて「エー季節やねー」となる。途端に晴天が続かない。御蔭で草刈の予定が狂って作業がうまく行かない。世の中は ”エーこと”と都合の悪い事がセットでやってくる。

2015.8.26 見浦哲弥

posted by tetsu at 07:33| Comment(0) | 中国山地の自然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

心遣い〜食肉加工場の建設〜

3女の律子が我が家に帰ってきて、新しい風が吹き始めました。この人は20年余り以前に犬山の斉藤精肉店で2年働いた経験がある。斉藤さんは私の生き方を朝日新聞の記事で読んで共感し、サラーリーマンから転身して成功された人。訪ねてこられたこともある。特別に御願いして家族の中で働かせてもらった。それから20年、姉、祐子さんの会社を手伝うことで、ミニ新聞社の経営、販売、営業、など様々な業種をこなしてきた。ふと気がつくと世の中は電子化で新聞事業は斜陽化、社業縮小で居場所がない。そこで手についている牛肉の加工技術と調理師の資格を生かさない手はないと、牧場の牛肉を売ってやるかということになった、と私は理解している。

時は農業も6次産業化が必要と騒がれている時代、見浦牛肉の味はテスト試食の段階でもファンは多い。何時直販をするのかと声がかかってから久しい。もとより人生終末の私が音頭を取るわけには行かないが協力は出来る。限られた乏しい資金の中でのやりくり、できるだけ、手作り、中古品でスタートしようと一決、加工場の建設が始まったのである。

さて、場所は見浦家が大規模林道に面した崖、役場との交渉や登記で時間がとられて、和弥がユンボを操作して崖を崩して敷地づくりが始まったのが5月、基礎、床のコン打ちと始まった。職人ではないから仕上げは見事というわけには行かないが、何でもこなす見浦牧場の面々、敷地が出来、図面も出来上がって、基礎コンも、型枠作りから生コンの流し込みまで家族でこなす。何とか出来上がって、今度は建築材木の手当て、久方ぶりに山に入ると荒れた山でも自然木の松や杉で一杯、牧場の周囲の山だけでも充分すぎるほどの立木、さてこれを伐採して製材にかけないと、と思案する。なにしろ小板の近辺から製材所が消えているのだ。経済大国になったとかで、国産の木材を使うよりは外国の加工済み木材を買うほうが合理的だそうで、中小製材所は仕事がない、従って倒産廃業と言うことになって、近辺には20キロ離れた芸北の細見に1軒あるのみ。それも毎日は営業はしない。若い時に簡易製材所を動かしたこともある私は「機械がありゃー自分でやるがのー」と悔しがるばかり。

ところが工事場の前を芸北運送の社長が通り過ぎた。早速、電話がかかってきて、何を建てるのかと問い合わせ、斯く斯くしかじかで食肉の加工場を作ることになった、と返事すると「手持ちの製材品があるので使って欲しい」と。10年余り前、倒木が多量に出たときに製材した桁やタルキ等々、倉庫の邪魔にもなるので無償でやるから取りに来いと。続いて郵便配達の山根さんが、先年、道路の立ち退きで家を解体したときのサッシが取ってあるので使って欲しいと。別荘の真田さんも不要の材料があるからと。同じく大野さんも使えないステンの業務用の流し他を無償でと。何時の間にか建物の半分以上は材料が揃って工事が始まったんだ。

勿論、屋根や壁は中古品というわけには行かないが、皆さんの好意で材料の大部分が揃ったのだから、人生は日頃の生き方が大切だ。

基礎つくりは手作り牛舎の経験でお手のもの。水平作りも、最初のころは長い樋に水を張ってなどと笑い話をしながら、簡易とはいえ測量器で簡単にだす。型枠を組み立てコンクリートを流し込む。大工さんは長年付き合いの斉藤さん、高齢で緻密加工とは行かないが施主の無理がきく、私たちのとんでもない要求にも対応して無理な加工もしてくれて、問題がおきると大工さんと息子と私の3人で「エイヤ」と解決、それで20年も30年も持ちこたえる建物ができる、見浦牧場の最良の友。こうして低価格で使用可能(保険所の検査が通る)な加工場の建設が進んでいった。

とは言え、牧場の作業は、工事とは関係なく毎日進行する。そのやり繰りをしながらの建築は、なかなか思うに任せない。何とか建前を済ませて、屋根を葺いて、外装をして、内装にかかったのは10月に入って。計画では10月には完成、11月には保険所の検査に合格して仕事を始めようかが、遅れに遅れて、ようやく内装に。大工さんもあちら、こちらの友人の大工さんに声をかけてくれるのだが、皆さん高齢、鬼籍に入った人もいて、仕事よりは年金生活と応援の人がいない。さればと10月5日から家族の素人大工を総動員、律ちゃんと和くん(カックン)と3人で天井はりを始める。素人の悲しさ、最初の仕事と終わりでは仕上げに格段の差、プロのようには行かないが仕事は進む。それで、それから一ヶ月、雨降りは加工場の方へ全力投球をすることに決めた。

市場経済の議論をする気はないが、”投資は最小で最大の効果を”は原則である。建物は加工場であるかぎり食品衛生上の要件を満たせば豪華である必要がない。勿論、法律の範囲内に収まらなければ保険所は許可を出さないが、その限界が何処にあるかは、私達は素人であり、大工さんも始めての経験で知識がない。そこで堂々巡りの議論が始まる。特に内装工事が始まって喧々囂々、結論が出ない。そこで保険所に電話、16日にアドバイスに来てくれることになった、一歩前進である。

ここまでに、今回の加工場の構造の説明はなかったので、概容を記すことにする。

加工場は6メートル×8メートルで48平米、屋根はガルバニュームの波トタンぶき、外壁はカラートタンの乾式構造、屋内は倉庫、食肉加工場、食品調理場の3室、律ちゃんが働き易いようにと計画した。

ところが、骨組みの材木が貰い物で多少寸法が違う。大工さんが何とか組み上げたのだが、内張りの段階で修正の箇所が出て余計な手間がいる。壁は乾式構造なので、ラス板を張って断熱材を入れてボードを打ちつける。投資は最小にがモットーだから天井も壁も保健所の審査基準すれすれの材料、これが大工さん気にいらないと不満を並べる。それをなだめるやら、すかすやら気使いも大変である。

10.16 保健所に御願いして内検をしてもらう。広島から婦人の検査官が来場、親切な人で判らなかった問題が解決、仕事が軌道にのる。電気屋さんにも見積を御願いして、内張りも完了して床を仕上げ塗りをしてもらって、器具の搬入を始める。やっと終わりが見え始めた。

ところが意外なところに問題が発生、電気工事を依頼した会社が、合理化と過疎化で広い芸北地区で作業員がいない。中電を定年退職した社員に臨時で依頼しているのだが、高齢化で現場に出れる人は二人とか。これで旧6ヶ町村をカバーしているというから大変、新規工事で作業中でも故障修理の依頼が入ると飛んでゆく、それが並みの距離ではない、中国山地の過疎化がこんなところまで影響しているとは。電気工事が完成したのは12月に入ってから。それからガス屋さんに依頼して工事が完成したのは12月の19日、外は60センチの積雪だった。あとはレンジフードの取り付けだけ、年内に保健所の許可を貰うことは不可能になった。

ともあれ加工場の話が持ち上がって1年が経過した。何もなかった処にチープな加工場が出来上がった。巷間、かしましい6次産業には程遠いが小さな牧場の小さな挑戦が始まる。見浦族のささやかな旗の下でね。我が先祖はどう評価するのか、もうすぐ聞けるかもしれない。

2013.12.22  見浦哲弥
posted by tetsu at 07:24| Comment(0) | 見浦牧場の足跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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