2017年10月21日

弥畝山風力発電所

2015.11.2 裕子さんが律子のお店の応援にきている。その食後の話、お盆に深入山に登ったら風力発電の風車が見えた、あれはどこかとグーグルで検索して話題になった。そこで百聞は一見と見学に行った。

裕子さんと孫の淳弥君と、北広島町八幡まで国道191号線を北上、191スキー場の三叉路で右折、県道波佐匹見線を約1キロ弱、再び三叉路を左折、県道115号線に入る。2車線の道路は間もなく1車線に、平坦な道路を1キロも走ると集落が現れる、木束原集落である。整備された水田と数件の農家、彼方の低い山すそに2軒の別荘が時代の変化を告げるだけで、数十年前の八幡村の風景が現存する。私が30歳代、飼料の稲藁を買い集めるために通った集落、懐かしさもひとしおの集落である。集落の中の平坦な道をたどること2キロ、殆ど登ることなく峠である。木束峠海抜798メートル、ここから比較的なだらかな坂道を約1キロ下ると島根県の波佐匹見線との三叉路に出る、右が周布川の源流である。その川に沿って深い谷をくだること2キロ、小さな集落の中の三叉路を左に曲り坂道を約3キロ登ると峠、左に行くと弥畝山であるが現在は私有地。

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峠の手前に資材置き場があった。取り付け前の巨大な翼が3枚、運搬用の長大なトレーラーが翼を1枚積んで停車していた。長さが40メートル以上もあろうかという翼は地上で真近で見ると、その巨大さを実感する。峠の交差点から左右に伸びる作業道があって、間隔を置いて風車のタワーがそびえる。低い潅木が繁って道路からは見えるのは数個のタワーだけだが列状に建設されていて壮観である。見学時は2基が建設中で1基はタワーと発電機が取り付けられていて、もう1基はプロペラの取り付け中、100メートルに及ぶクレーンがそびえて羽根が1枚だけ装着されていた。作業を見学できたら感動するだろうとなと思ったんだ。

峠から日本海側は島根県弥栄町、比較的平らで小山が散在する。それが弥畝山で急にそびえ立って、峯が連なっている。地球の自転に伴う気象上の風を利用するには最高の地点かもしれない。この地形に目をつけた技術者は只者ではないと思ったが、冬季のすさまじい気象をしる地元民としては果たして強度的に耐えるものか少しばかり不安を覚える、他人事ではあるが。

もう一つ不安に感じたことがある。エネルギーを失った風がもたらす気象の変化である。実は小板集落の隣に出来たダム聖湖は冬季の積雪の変化をもたらした。深い谷間の集落にあった樽床集落が水没し、湖面の上昇で風の通路が45メートルあまり上昇した。その上を吹き拔ける北風は勢いを増して我が小板は多雪地帯の八幡地区と同じ積雪量、もしくは多いくらいに変化した。同じような現象が風下になる八幡地区で積雪の記録を更新しないかと、老婆心ながら心が痛む。

弥畝山は標高961メートル、その稜線に100メートルばかりの風車が立てば、八幡から見えなければおかしいと思っていたら、息子達から雄鹿原の診療所の帰りに八幡洞門を通ってすぐに5基の風車が見えたと報告があった。最近の変化なのと県境の向こうの出来事なので情報が遅れているのかもしれない。建設が完了した時は何基の風車が稜線から顔を出すのか、これも興味がある。この地方も携帯電話の中継塔が思いもかけないところにまで建設されて、たまのドライブにこんなところにと驚くのだが、今後は風力発電の風車で驚くことになるのかも知れない。

今まで利用されなかったエネルギーを電力に変えて活用する、素晴らしいことである。しかし、50メートルに近い羽を回転させるメカニズムは近年の技術の進歩がなくては成立しなかった。特にプロペラの回転軸の取り付け部の荷重はとんでもない数字になるはずである。回転軸に密生している取付のボルト穴はその巨大な荷重を想像させる。久方ぶりに近代工業発展の成果の一端を見た。

ともあれ、こんな山の中まで開発が進んできた、道路の改良で都会が近くなった、ダム建設で山の中にも日本近代化の足跡が見えると思っていた矢先、今度は山の稜線越しに風力発電のプロペラが見える。時代の足音が近づく一方で、人口流出で山村が崩壊してゆく、この矛盾をどう解決してゆくのか、老い先短い老人の一人として、そのことを心配している。

2016.9.20 見浦哲弥



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2017年10月14日

最高の季節

お盆が過ぎると小板最高の季節がやってくる。気温が20度をきり、爽やかな空気が、深入山の山頂から贈り物として下ってくる。まだ日中は夏を偲ばせる暑さなので、早朝の一時は小板の数少ない美点を再認識させるのだ。

お向かいのS君は大阪で大型トラックの運転手として働いた経験を持つ。その彼が生まれ故郷の小板に帰って30年近く、子供さん達は大阪で暮らす。その彼が季節の変わり目ごとに小板が最高ともらす、「空気がようての、水が美味しゅうての、景色がいい、おまけに地震がのうての、水害がない、日本で一番ええとこでの」とのたまう。私の記憶では38(さんぱち)の豪雪とルース台風という水害があったが、いずれも死者は出なかった。一度台風の通り道に当たって立木がなぎ倒されたことがあったが今考えると竜巻の通り道の様な被害だった。それ以外記憶に残るような災害が無いのだから、ま、住みやすいところなのだろう。

何回も繰り返すが私がこの地に帰ってきたのは昭和16年(1940年)、従って76年暮らさせて貰ったということになる。その間、見浦家にも、小板にも、戸河内町にも、いや日本国にも大変動があった。私の文章など、その表面をなでたに過ぎない。その軌跡をたどると辛かった事のほうが多くて思い出すのも苦しいが、平和な晩年を迎えているのだから幸せ、幸運と言えるのかも。

私は、人生は50/50の割合で幸運と不幸が与えられていると信じている。不幸だけの人も幸運だけの人も存在しないのだと。しかし、小板の自然、風景はS君の感慨と同じ最高だと思っている。そして私の人生も幸運の方が多かったと感じているから、トータルではいい人生だったと宣言が出来る。誰にとっても故郷は素晴らしい、そして素晴らしい思い出になるように努力をしなければならない、二度とない時間を過ごさせてもらったのだから。

今日も深入山は綺麗だ、臥龍山も見事だ、そして私の時間もまだ続いている。

2016.9.1 見浦哲弥


posted by tetsu at 13:43| Comment(0) | 終末に向き合う | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

お祭りと饅頭焼き

2012.10.28 今日はお宮の幟(のぼり)建て、例年村祭り(11月2日)の前の日曜日が、お宮の掃除と幟建ての日である。去年は神楽団の長老が死亡したとて、神楽の奉納は中止だったが、今年は神楽があるとて、少しは明るい雰囲気だった。もっとも舞子は5人、いずれも広島在住、小板居住は60歳あまりの人が1人という現状では、今年が最後か?例年見浦家が勤めていた饅頭焼きは、去年の神楽中止を機に、もう止めようと話し合っていたところに、神楽団からも正式に中止要請があった。80歳になった晴さんにも、子育て最中の亮子くんにも無理、一つの時代が終わった。

饅頭焼きが始まって、もう20年になるか。祭りにやってくる府中の孫たちを見て、晴さんが言い始めた。「昔は神楽の晩には夜店が出てたな」と。私も記憶がある、神殿の前の大杉の根元にテントをかけて、たった1軒、露天のおじさんがやってくる。三国のお祭りの露天には比べるべきはないが、子供達には胸躍る時間だった。それが日中戦争が激しくなった頃なくなった。

敗戦で戦場から復員してきた若者たちが結婚して、子供たちが生まれて小板に賑やかな時代がやってきた。お祭りには夜店がやってきて、地元の堀田商店も饅頭を焼き始めて、小さな鎮守の森も神楽の夜は賑やかだった。

ところが日本の繁栄に逆比例して若者が減り、住所を都会に移す家が出始めて子供たちが少なくなった。外来の夜店はとっくの昔に来なくなって、堀田商店の饅頭焼きも赤字続き、集落の子供は10人ばかり、太鼓の音は昔と同じでも、寂しい村祭りが当たり前になった。

ところが我が家の晴さんは少々発想が違う、夜店がなくて寂しいのなら自分たちでやればいいではないか、子供たちに自分たちが味わった、神楽の晩の夜店の楽しさをプレゼントすればいい、プレゼントは商売でないのだから、利益が出なくても運営する方法があるのでは。

実は彼女が「考えたんだがのー」と話し始めたら大変で、先ず反論が出来ない、華やかではないがポイントを突いていて、なるほどと賛成させられるからだ。
何しろ、集落のことから、農協の理事、農業委員、PTA、まで、あらゆるところに口を出す、正論と感じると無視はできず、解決策を模索して奔走するのは私、長い時間の彼女との生活はこれで何度も泣かされた、饅頭焼きもその一つだった。

そこで条件を付けた、子供たちが負担にならない値段にする、専用の道具は買わないで家庭用の器具で間に合わす、利益はでなくても材料代だけは確保する、その条件を守るのなら最初の資金を見浦家で負担する事に賛成する、もちろん人件費は無償奉仕ということで。

もともと金儲けが目的の発想ではない、年に一度のお祭を楽しみの子供たちに神楽だけでなく、もう一つの思い出を作ってやろうが発想の原点、幼かった自分の思い出と重ねての提案だから、家内も私の提案を受け入れた。

世の中には発想は良くても現実が伴わないことが多い。晴さんの饅頭焼きもプラン倒れにならないかとを心配したのだが、もともと田尻一番の根性屋さん、言い出して走り出したら逃げ出すことが出来ない性質、問題が起きるたびに懸命に対策を考える、圏外の私としては、その熱意を牧場に振り向けてと口まで出かかったが、反動が恐ろしい、ひたすら見守るだけ。が、子供たちが、孫が動き出した、小板の祭りに帰るのは饅頭を焼くためと目的まで変わって男どもを除く見浦婦人同盟のお祭り行事として定着した。おまけに味もいいと評判、儲けは出ないまでもお祭りの神楽と言えば見浦の饅頭焼き、子供たちも小遣いを固く握って神楽の晩をまつ。が、それなりの時間が経過して彼女も年老いて気力が無くなった。我が家の孫達が小板神楽を見ながら見浦饅頭を食べる、そんな時まで頑張るが、続かなくなった。そして遂に中止、翌年か翌々年には神楽を奉納しようにも舞子の動員が困難になった。そして100年余り続いた小板神楽団も解散、お祭りの夜の太鼓も途絶えた。

時は農村の過疎を通り越して無住の集落が出現する時代、一時とはいえ彼女の努力は小板の河内神社の神楽の最後に花を贈った事になった。

あれから、もう10年あまりも過ぎたか、秋の村祭りの日は数少ない住民が集まって境内や内陣の掃除をするだけ、落ち葉を焼きながら昔は賑やかだったがと思い出話に花が咲く、それが何時まで続くかは誰も知らない。
そして晴さんの饅頭焼きも思い出の彼方に消えてゆく。

2017.5.24 見浦哲弥

posted by tetsu at 13:18| Comment(0) | 地域社会を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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