2017年08月27日

小板の日米戦争

日本が歴史上で始めて外国に敗れた日米戦争から60年あまり経ち、戦争の体験者も次々と世を去って行きました。私は軍隊には行かなかったものの、国民総動員令で14歳で食糧増産や建物疎開に連れて行かれて戦争を経験しました。その仲間達も世を去り、生き残りは少なくなりました。

この小板でも、あの戦争中に戦死したもの、戦病死した人、シベリヤ抑留で辛うじて生き残った者、敗戦の年に緊急動員されて外国に行かないで敗戦となり命拾いをした幸運な人など様々でした。
折々に聞かせてもらった戦争の話も、私の人生と共に消えて行くのかと思うと少々残念で文章にしておこうかと書きました。

集落の上(かみ)から、まずYさん、彼は戦車兵、満州(北中国)のロシアとの国境部隊に派遣されていた。小便も凍る寒さの話しや、100キロも走ると戦車のキャタピラーを交換しなければならない話など、私には興味があった。
鋼板で出来た日本の戦車は、厚い鋳鉄製の防弾板で囲まれたアメリカやロシヤの戦車には、全く歯が立たなかったことは、後日の読書で知った。
彼は幸運にも終戦直前に内地に配属替えとなりシベリヤ行きは免れた。

隣がKさん、海軍に志願して、水兵から下士官、そして敗戦時は士官だった。たたき上げの潜水艦乗り、電気関係の機関員で電検3種の資格保持者。
私の父の崇拝者で休暇に福井の家に泊まりに来ていたのを覚えている。水兵帽の水兵さんが、いつか短剣を下げて白の夏服の下士官に変わったときは、子供心に格好がええと感心したのを覚えている。
日米開戦の時は大型のイ号潜水艦の乗組員で、シンガポール軍港沖でイギリス東洋艦隊の見張りに従事、新鋭戦艦プリンスオブウェールズと、戦艦レパルスの出港を補足、追尾して海軍航空隊に連絡、マレー沖で雷撃機の集中攻撃で撃沈、チャーチル首相を落胆させた、日本海軍の華やかな戦いの話しを聞かせて貰った記憶がある。
でも、戦争の中期からは戦っては敗れるの連続、レーダーの開発がうまくゆかず、出港直前まで東芝の技術者が調整に来てな、それでもうまく行かなくてな、仲間の潜水艦乗りは殆ど死んだと、そして「俺は戦争は嫌いだ」とはっきり宣言していた。

そのお隣がKFさん、彼は敗戦の年に徴兵検査、すぐさま徴兵されて九州に配属、1ヶ月か2ヶ月で終戦、戦争の厳しさを経験しなかった。おかげで軍国主義否定の私とは基本的に意見が対立、陸軍は悪くないとのたまう、小板で数少ない幸運な人間だった。

次はSさん、彼は19年に動員された、腕のいい石工さんで真面目な人間だった。小板の上田屋の娘さんと結婚、戸河内の寺領から小板に移り住んだ。見浦の田圃50アールを小作していた、小学校3年を頭に5人の幼子を残して兵隊に。
奥さんが懸命に働いたが仕事が遅れて、雪が降っても稲こぎが出来ない。稲を干す稲ハゼが雪の中に残った。見るに見かねた父の命令で稲の脱穀を手伝った覚えがある。
動員先は陸軍船舶部、輸送船に乗って船を守る?部隊、(当時は輸送船でも小型の大砲か機関砲を積んでいた)敵の軍艦や潜水艦、航空機に発見されれば即沈没だが気休め的装備の操作係。
秋に一時休暇で親父さん挨拶に来られた折り、「命拾いをしました、サイパン島に軍需物資を運びましてね、陸揚げが済んで島を離れた翌日、島はアメリカの艦隊に包囲されましてね、もう何時間か遅れたら命を落とすところでした」と話されたのを覚えている。その後サイパン島の軍隊は全滅、民間人も多数死亡したのは周知のとおりである。
その後は輸送船の消耗が激しくて乗り組む船がなくなり、無事に復員された。

そして、F君、芸北町にあった大佐川電気利用組合の電工さん。
彼のことは、陸軍で満州のロシアとの国境の警備隊だったことしか知らない。が、彼は小板でただ一人のシベリヤ抑留の体験者、ご存じだろうが満州で逃げ遅れて捕虜になった軍人がシベリヤに連行されて強制労働をさせられた話、彼は不運にもその一員となった。何年働かされたのかは私の記憶にはないが、一、二度地獄のようなシベリヤ体験を聞いた覚えがある。
極寒の地で劣悪な居住環境、不足の食料、独ソ戦で荒廃したロシアでは一般の国民も苦しい生活だったと言うから当然かもしれないが、膨大な死者(5万人とも6万人ともいわれる)を出した。その話しを彼は「仰山死んだでー、ところがの大方が町の人での、田舎の人間は中々死なんのんよ」と、日本国内の貧しい農村で育った人間は、町の人より耐久力があったと言う話しだ。しかし、粗食でも血糖値を高く維持して命を支える貧農の体は、豊かになった戦後の食事で糖尿病の多発を引き起こし、寿命を縮める一因になったのだから皮肉である。
彼の話で忘れられないのは、日本での職業を何度も調べられたと言うこと。大工、左官、電工、その他、エトセトラ・・・当時のロシアで不足していた技能の持ち主だったら、即、収容所から出されてロシア女と結婚させられ職場につかされる、腹いっぱい飯が食えてな、地獄から天国への道があったんだ、でもな、それは生涯日本に帰れない道、歯を食いしばって頑張ったんだと。
当時、ロシアは独ソ戦争で2000万人ともいわれる若者を失い、荒廃した国土を再建する為、猫の手も借りたい事情だったと、勉強になりました。

晴さんの長兄のKRさん、彼は吉田町の青年学校の先生だった。私に動員がかかる前年、彼の家族が次々と広島の陸軍病院に見舞いに行くのを見た記憶がある。間もなく病死と聞いた、陸軍に徴兵された彼が過酷な新兵教育に耐えられなかったと。何しろ5歳も6歳も年下の私達の動員の現場でも殴る蹴るの暴行は日常茶飯事だったからね。人間の値打ちは一銭五厘(徴兵通知の葉書の値段)と言われた時代 、死因は肋膜炎だと聞いた。優しい大人しい青年だった記憶がある。

隣はTさん、彼は海軍の志願兵、要領のいい奴で悪運強く生き残った。燃料の尽きた軍艦が樹木で偽装されて、瀬戸内海の島陰に砲台代わりに係留されていたなど、敗戦間際の海軍の話をよく聞かされた。夏で偽装の木が枯れ始めると「木を取り替えないと丸見えですよ」とアメリカ軍機にビラを撒かれて馬鹿にされたと。

KHさん、彼はKFさんと同年兵、敗戦の年に緊急徴兵された。配属されたところが陸軍の通信隊、伝書鳩の世話をするのが仕事、善人の塊だった彼は軍隊では苦労は少なかったらしい。ところが親父さんも徴兵されて、予備役の衛生兵だった、御年47歳、平均寿命が50歳に満たない時代、正直よぼよぼの兵隊さんだ、それまで召集しなければいけないほど追いつめられたんだ。そんな戦争を天皇まで脅かして始めた将軍は現在靖国神社に祭られている、そんな矛盾には国民の声が小さい。
でも考えて欲しい。一軒の農家から働き手の男を2人も軍隊に招集して農村が成り立つはずない。それでも国民の食料を作れという、軍国主義とはそんな思想なのだ。
ちなみに47歳の老人兵として徴集されたのは、他には松本熊市さん、児高徳馬さんの2人がいた。

N君、彼は腕のいい溶接工、広島郊外の軍需工場で働いていた。幸い原爆の直接被害はうけなかったものの、直後の市内で死体処理に動員されて連日作業をした。実体験だけに身の毛もよだつ話を淡々と聞かせてくれた。私も8月9日に出張で立ち寄った可部駅で駅前広場にぎっしり並べられた被災者の死体を見た。まだ息のある人は日陰や貨車の中、目と口だけを残して包帯だらけの被災者が水、水と訴える微かな声、今も耳に残る、真夏のことで生きている人にも蛆が湧いて這い回る姿は正に地獄だった。
西岡君は街に倒れている死体をトラックに積んで街角に積み上げて重油をかけて焼く仕事をしたと、2人で手足を持って放り上げる、皮膚がズッルとむけてねと、私の体験の何百倍もの辛い話しは戦争を始めた指導者を憎む私の原動力だった。

Mさん、陸軍の下士官、陽気で明るい人で私の製材の師匠さん。
彼は南方に派遣された。そのニューギニア島での戦闘の話しは忘れられない。ニューギニア島は有名なラバウルの近くと言えば判って貰えるかな。オーストラリアの隣の島でね。
島とはいえ本当は日本の本州にまけない大きな島、オーストラリアの反対側に上陸して島を横断してポートモレスビーという港を占領して対岸のオーストラリアを攻撃するという、壮大な計画だったとか。密林の中に道を造り中央の大きな山脈を越えて対岸に達する、口で言うのはたやすいが、筆舌で表わせない現場の苦労は東京の参謀本部いる奴らに判らない、ただ命令するだけ、こんな事が山盛りの戦争だったのですよ。

ようやく山脈を乗り越えてオーストリヤ軍に接触して驚いた。上官の話と違って彼等の勇敢なこと。攻め込んだら、すぐに敗走すると聞かされていたのが、案に相違で猛然と反撃されて手も足も出ない。おまけに我が軍は明治38年制定の38(サンパチ)銃なる小銃、弾が5発しか出ない、それも一々操作をしてね。ところが豪州軍は自動小銃、連続して80発も弾が出て戦争にならない。そこでオーストラリア軍に出会ったらひたすら密林の奥に逃げ込だと。彼らも地下足袋なる履物で足音も立てずに出現する日本兵は怖いから林の中までは追ってこなかったからなと。ところが大問題が起きたという。日本の軍隊は米の飯が食料、飯盒なる鍋で炊いて食事をする。ところがジャングルの中で焚き火をして煙が上がろうものなら戦闘機から爆撃機までが殺到して爆弾をおとし飯が炊けない。飯が食わないと戦争は出来ぬと、日本兵の士気は地に落ちたんだって。そこへ知恵者が現れて炭を使えば煙は出ないぞと発言、おまけに日中なら敵機の目にとまらない、当時は赤外線センサーなるものは前線になかったからな、その案は直ちに採用されて「誰か、炭焼きが出来るものはいないか」と募集されたとか。但し炭焼きといっても炭窯を築いて木炭にする全工程の技術屋でなくてはいけない。彼は動員前は炭焼きさん、早速、応募したとか。即、木炭の増産を命令されて監督に、敵機の来ない後方の密林で木炭生産が始まったんだとか、命令される兵隊から炭焼きの監督さんに昇進、近場のガダルカナル島では日本軍全滅の悲劇もあったのに、敗戦まで楽をさせてもらいましたと。

次は陸軍上等兵のKさん、衛生兵である。陸軍で習ったことが全て正しいという軍国主義者、社会主義にかぶれた見浦を認めるなどもってのほか、敗戦後も20年位は私の話を聞こうとはしなかった。しかし、全てが逆転した戦後の社会は彼を受け入れなかった。様々な試行錯誤の末、全てを失った彼は死に際に、「見浦が正しかった」と呟いたと息子さんから聞いたときは、なにも言えなかった。

IHさん、彼も陸軍上等兵。確か中国戦線だったと思うが、記億が定かでない。機関銃の砲手と聞いていたが、戦争の話を聞く機会がなかった。ただ腕に小銃の貫通銃創があった。
IMさん、Kの兄さん、大下に養子に入った。彼は中国戦線で2度目の召集で戦死した。私が中学の1年の折、奥さんが生まれたばかりの娘さんを背負って広島まで見送りに行くのに出会った。2人とも泣きながらオシロイ谷を下って行くのを見て戦争の悲劇の一端を感じた。兵隊になって戦死することは名誉だと教えられて、信じていた少年が、先生の言葉は本当かなと疑問を持った最初である。彼は中国戦線から白木の箱で帰った。

Nさん、私を弟のように可愛がってくれた好青年。彼は海軍に志願した。そして戦争の末期、戦死したと箱に入って帰ってきた。中には名前を書いた白紙が1枚、それで好青年が海に沈んだ。もう一度言う、あの戦争を始めた将軍は靖国神社にいる。

軍隊に行った人達は、他にも2-3人いる。現存している人も居るが、戦争の話は語られることがなかった。辛い、悲しい、矛盾が山積していた世界だったのは、私も動員で経験したことから推測できる。思い出したくないことが山積みだったのも。

最後に声を大きくして言う、私は戦争が嫌いだ、始めた奴はもっと嫌いだ。
                                       
2015.1.17 見浦哲弥



追記
私の同級生も2人死んでいる。一人は斎藤正司君、彼は高等科卒業後(いまの中学3年の年齢)海軍航空隊に志願して入隊した。敗戦前の日本には訓練する飛行機も機材もまったくなくて、毎日が手作業の飛行場作りだったとか。短い時間だったが過労で体を壊して帰宅後間もなく死んだと聞いた。アメリカの飛行場作りはブルドーザだったのにね。

もう一人は一級上の藤本さん、彼女は従軍看護婦を志願して帰ることはなかった。

豊かな時代になって爺ちゃんの時代に起き、体験したことを誰も話さなくなった。でも2度と起こさないためにも聞いておくべきだと思うのだが。

posted by tetsu at 09:04| Comment(0) | 地域の歴史を語る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月05日

ウォーキング

毎年10月になると深入山ウォーキングなるイベントが催される。目下、その準備の人達で山道が賑やかである。深入山のグリーンシャワーなる広場が起点で、旧国道191号線を歩いて、小板で新国道に合流して深入山を1周する、延長7キロ位か。途中に私が松原校に通学するときに泣かされた、標高890メートルの水越垰がある。

そして今日は開催日、9時頃から道路に人影が。日頃人影の少ない旧国道にウォーキングとはいえ賑やかになるのは心楽しいものである。それに若者の途絶えた道にカラフルなウェアが続くのは、往来の激しかった昔をしばし偲ばせる。

それにしても時代の変化の大きさに驚かされる。道路が整備され、公共交通が不必要なほどマイカーが普及して、歩くことがスポーツになり始めている。戦時中の動員で北広島町新庄にあった宿舎まで徒歩40キロあまり、休憩時間を含めて10時間かかった。勿論、歩き難い砂利道は子供にとって遠い異次元の世界と感じたものだ。

我が家の孫くん3人のうち下の二人が10キロコースにチャレンジした。ところが4キロでダウン、家に走り込んでゲーム三昧、日本の将来を思うと背筋が寒くなる。少子化で子供を甘やかしすぎると思うのは老人のひがみか。

考えてみれば旧国道が賑わうのは”しわいマラソン”と”深入山ウォーキング”だけ。戦中、戦後の、悪路に国運と生活を委ねた賑わいは、繰り返したくはないが、懐かしい。

我が家から旧道の峠まで約2キロ、(峠から谷に沿って下る急坂(オシロイ谷)があって徒歩の時は、このコースを歩いた)松原の高等科に通った2年間、お世話になった道である。自然が一杯でね、ムササビを見たのも、ドンビキと呼ぶ巨大なヒキガエルを見たのもこの道だ。もっとも人権もへったくれもない戦時中のこと、勤労奉仕と称して遅くまで作業をさせられて、明かりもなくて夜空を見上げて頭上の隙間に導かれて帰った道でもある。自動車が普及を初めて、オシロイ谷の近道の人通りが途絶えてから40年近く、細い山道はヤブの中に埋もれて知る人以外は道の存在も忘れ去られた。

深入山ウォーキングは旧国道の車道を通って深入山を一周する。秋日和ならば絶好のハイキングコースだが、この道にまつわる物語を語る人はいないし、誰も知らない、ただ歩くだけ。100年あまりのこの道の歴史は、日本の近代史の一部と重なっているというのに。

時代が進んで便利になったのは有りがたいかぎりだが、歩くことが少なくなって要介護の老人が増えた感じがする。新聞の老々介護に疲れての心中やら殺人と言った記事を見ることが多くなった。他人事ではない、懸命に生き日本の復興に力を注いできた人生、その功労の報酬に人に迷惑をかけないで、ひっそりと旅立つのが理想である。私は小5から働き続けてきたのだから、せめてそのぐらいの我儘は聞いてほしいものだと思っている。

今年も無事、深入山ウォーキングは終了した。ただ歩くだけでなく、私の提言の一部でも聞いて欲しいと思っている。

2016.10.2 見浦哲弥

posted by tetsu at 14:21| Comment(0) | 地域の歴史を語る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする