2017年02月25日

お客さんと話す

2015.9.10 雨、お店にお客さんが来る。横浜の人で山登りが趣味だとか、東日本は折から悪天候で西日本ならできるかと走ったが、こちらも雨、することもないので目に付いた牧場の売店で肉でも買って帰るかと立ち寄ったとか。

折角だから牧場でも見学させてもらうかと声をかけられた。丁度、私が通りかかって案内を引き受ける。都会の人は自分の専門外には智識が広くない。しかし、田舎の住民と違って好奇心は旺盛である。この人たちの関心を引くのには、地域の特性と一般に知られていない情報の提供が効果的である。そこで牧場が見える牛舎に案内、一望10ヘクタールの草地と約100頭の黒牛は、中国山地では珍しい風景になって、見る人の興味をそそるらしい。そこで見浦牧場の一風変わった情報の提供をしたんだ。

先ず牛が年間を通じて放牧されていること、そして海抜が800メートル近くで、積雪が2メートルばかりあること、厳寒期は零下10度以下が続くことも珍しくないこと、など。そして見浦牧場で生まれた牛のみで牛群が出来ていること、50数年外部から牛を導入しないで、選抜淘汰を繰り返したこと、高級牛のサシを追及する牛作りのでなくて、利益追求の大型化でなく、モットーは、安全で、美味しくて、リーズナブルな価格の実現を追及してきたなどを話して差し上げた。

自然の中での牛の集団飼育は、彼らが生きるために学び、その智識を次世代に伝えてゆく。頭脳は人間だけの特性でないんだと、人間の驕りを打ち砕くような彼等の本能等々、都会人はそんな話を興味を持って下さる。

見浦牧場の1−2キロ圏内には、ツキノワ熊の営巣地が2箇所はあるらしく、何度も牧場内に出現する。最初に襲われたのは30年余りも昔になるか、日暮れに子牛が2頭群れから離れて行動し1頭が殺された。母牛が夜中に我が子が群れにいないことに気付いて騒ぎ始め、翌朝、牧場内で叩きつけられて死んでいるのを発見したんだ。暴れん坊の熊君も、2頭同時に殺すことは出来なくて片方は助かったのだが、殺された子牛は衝撃で頭皮がはがれていた。しかし、それからの牛達の反応には教えられるものがあったんだ。

まず、集団で行動するようになった。子牛と親牛は離れることはあっても子牛同士で集団を組む。よく見ると中心になる牛がいてその牛が動くにつれて集団が移動してゆく。牛にも強弱があっていじめっ子や優しい牛と様々だが、中心になるのは優しい強い牛なんだ。教えられたね、ボスは優しさがなくてはいけないと。家畜の牛でもそうなら、人間はそれ以上でなくてはいけないんだとね。おもねることは要らないが、思いやりがとやさしさが必要なんだと。
最近の世の中は人は性善と信じて非武装、非暴力なら自分は何もしないでも安全だと信じている。ところが見浦牧場には牛は何もしないのに腹を減らした熊君がやってきて襲う。そして弱い牛達は集団を組み身構えることで対応している、決して攻撃することはないが。人間も動物だと私は思っている。攻撃してはいけないが、身を守る手段は持たなくてはと思うんだとね。

そんな話をお客さんは黙って聞いていた。反論されなかったのは私が老人だったからだろうか。軍国日本の戦前、戦後を体験した生き残りの人間として、動物が語りかけている行動の中に私達の真実があるそんな気がしているのだ。

お客さんは反論はせずに聞いて、来て良かったと帰られた。小板という小さな集落のはずれに起きた、ささやかな話である。

2015.9.10 見浦哲弥 
       
posted by tetsu at 11:29| Comment(0) | 牛に学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月18日

嬉しい話(I工業奮戦す)

久しぶりに広島のI工業の社長が訪ねてきた。開口一番「見浦さん、経営が安定した」と嬉しそうに報告されたのです。
彼は60代、家族経営の小さな精密研磨の町工場の社長が、田舎の小さな牧場の爺様に会社の現状を報告する、何か変だと思いませんか。今日はその話です。

もう、何年になりますか、ひょんなことから、彼との付き合いが始まりました。
小板に別荘が増え始めて20年余り、小さな集落の小板に、もう40数軒にもなりますか。彼は遅れてやってきた別荘人、小板橋の近くにヒューズ社のキャンピングカーを据え付けて別荘人になった。
当時、私はその近くの今田さんの畑を借りて牧草を作っていました。この話は、その草刈の作業の休憩時に交わした世間話から始まったのです。

彼が別荘を持とうと思い付いたのは、仕事がようやく安定して利益が出始め、長い苦労のご褒美にささやかな贅沢をと思い立ったからだといいます。
そこで、かねてから付き合いのあった大野モータースの社長に相談したのが事の始まりで、彼の勧めで小板に別荘を持つことになり、キャンピングカーを据えて、小さな贅沢を楽しもうと思ったのが間違いの元だったと話し始めたのです。

長い間辛酸をなめて、ようやく摑んだ幸せにほっとしたのは7ヶ月間だけだったと、突如始まった赤字経営で、金策に四苦八苦するようになって、別荘なんて買わなきゃ良かったと後悔してるんだ、こんな話でしたね。

そんな時に、親しくもない私に内輪話を聞かせる、これは月並みな返事はできないなと思ったのですよ。そこで、腰を入れて聞き始めたのです。

彼の親会社は自動車部品のギヤを作るメーカー、そのギヤの最終研磨をするのが彼の工場、但し技術は最高で3/1000の精度があるんだと自慢していましたっけ。
ワーゲンの部品の加工依頼も来る、世界的にも認められているんだとね。
ところが時代は何が何でもコストの低減、人件費の安い中国に工場も仕事も移転する流れが起きたんだと、そ
して俺のような孫受け工場にも加工賃の切り下げ要請が続いたんだ、その挙句、仕事まで中国に持ってゆかれてな、偉いことになってしまった、こんな話でしたね。

ところが聞いている内に何か違うなと思ったのですよ。私の牧場は和牛肉の生産をしています。ところが仲間の農家は如何に高く売れるかと、そのことだけに血道をあげています。
その為には、ありとあらゆる手段をとるのです。現在の和牛肉の評価は肉の中に如何に多くの脂肪が入るか、その脂肪がいかに小さく均質に入るかで決まるのです。味でなく見た目の美しさでね。それがサシと呼ばれる評価法です。和牛の場合、A1からA5 の5段階評価、A5になるとA1の3倍以上の値段がするのですから、気持ちは判りますが、その為に牛の健康をぎりぎりまで追い込んで目的を果たす。

例えばビタミンAは脂肪の分解ホルモンの役割をします。サシは脂肪を筋肉の中に小さく均質に霜が降りたようにいれる、これが霜降り肉の語源です。ビタミンAはその小さな霜降りの脂肪を分解してしまう、だから人為的にビタミンAの欠乏症をおこさせるのです。和牛は肝臓の脂肪の中にビタミンAを蓄える力が大きいといいます。6ヶ月くらいは全くビタミンAを給与しなくても耐えるですが、それを越えると起立不能、視力低下、ひどい時は盲目になります。おまけに筋肉の細胞膜が弱くなり細胞液が流れやすくなります。その結果ドリップという肉汁が出やすい牛肉になります。それをいかに抑えて見事な霜降りA5肉を生産するか、それが腕の見せ所、それが高級肉だと評価され高値で売れてゆく、食品が味や食味に関係なく見た目だけで売れてゆく、それは間違いだと思うのです。

食べ物は安全で、美味しくて、リーズナブルな値段でなくてはいけない。恩師中島先生の教えを忠実に守ろうと努力してきたのですが、社会は見た目重視に変わった。でも諦めずに消費者の意識改革に微力を投じてゆく、これが見浦牧場の目標の一つなのです。

ところが社長の話を聞いていると消費者は全く登場しない。親会社の営業の仕入れ担当の事ばかり。少しばかり不自然でしたね。農業も工業も最終的には消費者が品質的に価格的に妥当と感じたら買ってくれる、そうやって経済が動いてゆく。仕入れ担当が動かしているのではないのに、仕入れ係が全て正しいと信じることが生き残ることに繋がるとは、私には理解できませんでした。
そこで聞いたのです。貴方の仕事が最終の製品の何処にどう繋がるのか、調べたことがありますかと。「そんなことは知らない」という返事を聞いて、こういったのです。

私達が作っている製品は最終的に消費者が評価する。いいものはいい、悪いものは悪いと、値段と品質とを吟味して購入してくれる。私達生産者はその消費者の意見をいかに汲み取るか、そして、いかに対応するかが事業の成否を決まると私は理解している。貴方とは仕事は違ってはいるが、長い目で見ると消費者の意見をいかに反映するかが基本ではないのか。中間の業者は生産者の代弁者に過ぎない。どうして貴方の仕事が最終の消費者のどの部分にどのように使われているかを知ろうとは思わないのか。たとえ下請けの孫受けであっても、その仕事は最終的に消費者が評価するのでは?、間接的だけどね、と。

それを黙って聞いていた彼は三ヵ月後に再び訪ねてきました。「どうしたい」と聞く私に「3ヶ月ほどセールスに各会社を歩いたよ」と答えました。消費者への対応は各会社の企業秘密の一つ、真正面から聞いても答えてくれるわけがない。それならどうするか、新規注文の開拓にと各会社をまわる分には警戒されないだろう。
一代で会社を興す奴は考えることも行動力も常人とは違う。「私のところは、こんな加工が出来ますがお宅の会社で仕事はないでしょうか」と、売込みをかけたそうな。本当の目的は他にあるのだから仕事がもらえれば棚ぼた、断られても話が聞ける、ヒントがもらえれば拾い物とセールスに歩いたんだと。

その最大の収穫は発注元の求めている精度は3/1000でなくて5/1000でも良かったということ。それなら合理化の余地はある、一括削磨でも対応はできそうと考えたんだという。「そこでな、システムを考え直してな、何個かを一度に研磨するようにしたんだ。システムは出来たがセッテイングが自動では精度が出ない。試行錯誤をしてね。ふと気がついたんだな、俺は熟練工の手を持ってるんだ、使わない手はないとね。熟練の腕と新しいシステムで加工したらうまくいってな。親会社の言い値でも利益が出てな。親会社からこの値でどうして利益が出るのか教えてくれときたんだ。どうしようか迷ったけれど、俺の腕は真似ができないはずと教えてやったんだ」と。

そこで質問をしてやった。「また調子に乗って1社だけの仕事をしてるんじゃないだろうな」と。「誰がそんなことをするかい。そしたら親会社が文句を言ったがな。他社の製品の間に仕切りを入れろといっただけ」と明るい顔でのたまった。

そんな親父さんを見て、サラリーマンの息子が、親父の技術がこのまま消えるのは勿体ない、元気なうちに自分の物にすると帰ってきた。そして俺の技術の上にコンピュータをのせてな、新しい加工法を開発していると、天国の顔をしていた。

明るくなった奥さんとの二人連れ「見浦さんは、まだようならんか」と自信を取り戻した顔のご夫婦を眺めていると他人の事ながら嬉しくなってね。私の小さなアドバイスでも少しは役に立ったかと。

しかし、見浦牧場は依然悪戦苦闘が続いている。昔の軍歌ではないが"何処まで続くぬかるみぞ”である、それでも私達は頑張るのだ。

2016.2.18 見浦哲弥

posted by tetsu at 14:30| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月10日

稲作講座

物置がわりにしていた廃バスが朽ちて雨漏りが激しくなった。何とか整理をと気にはしていたものの、忙しさに取り紛れて放置してあったが、何の気の迷いか?整理を始めたんだ。
詰め込まれた様々な品物の中には古い雑誌も決算書も子供たちの教科書や通学服など、出るは出るは、どの品物も記憶があるものばかり。その子供たちも長女が60何歳、末っ子の和弥で50に近い。ずいぶん長い時間が過ぎたものだ。

その中に混じって私の稲作の専門書が現れた。半ば朽ちてはいるが、かろうじて表題は読める。60年もの遠い時間の彼方から記憶を呼び戻した本は朝倉書店の”稲作講座3巻”著者は戸苅義次・松尾田考領、両先生、分厚い本でね。確か価格480円。当時は小板の日当は400円。3巻ともなると崖から飛び降りるほどの勇気がいったものだ。でも、この本のお陰で小板では稲つくり1番になったのだが、本の丸写しでは成功しなかったろう。もう一つ”13度”に書いた小板独特の条件を見つけて付加したことが成功に繋がった。世の中、丸写しだけでは成功しないと教えられた一事でもある。

勿論読書だけで成功するわけはない。泊がけで通った西条の試験場での学習も大きな力になった。勉強は進学しなければ出来ないのではなくて、強い意志さえあれば、あらゆるところに教場はある。没落の家運の中でも学びの場を見つけだすことが出来たのだ。

勉強するということは人生の大きな条件の一つでもある。その結果が電気事業主任技術者検定に合格したのだ。環境に恵まれなくても、それを口実に後ろ向きにならなければ道は開ける。運が悪くて目指す道が閉ざされても再び新しい世界が現れる。俺は運が悪いと諦めるのでなく、一度きりの命、どこまでやれるか試してみるかと挑戦することで、新しい道が向こうからやってくる。人生とは不思議なものである。

その過程の私の道標の一つがこの”稲作講座”、私の大切な人生の道標の一つが遠い時間の彼方を蘇らせてくれた。朽ちた表紙が若かった私の生き様を語りかけて。
2016.10.29 見浦 哲弥

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