2016年05月25日

めだし帽

めだし帽、近頃コンビ強盗の犯人が顔を隠すために愛用している帽子である。本来簡易型の防寒帽として雪国で愛用されてきた帽子なのに犯罪の必需品になるとは心外のきわみである。

例年、積雪が始まると作業帽が防寒帽にとってかわる。私の愛用品は昔、淑子が土産に買ってくれたアメリカ製の皮製の防寒帽、もう何十年も愛用している。さすが本場物、性能は私の防寒帽の中では最高品、猛吹雪の時はかかせない。次は大野モータースの社長がくれたアメリカ軍の払い下げ防寒帽、軍需品だけあって布製だが実用的には満足できる製品、もう10年余り使っている。

しかし、肉体労働の見浦牧場では冬でも汗ばむ、この点ではこの2品は多少問題がある。そこで、もう一つの愛用の防寒帽は国産のめだし帽。第一に値段が安い、おまけに軽い、そこそこに防寒である。もっとも雨には弱いが、これは数を揃えればいいと、私の越冬の目玉だったのに今冬は行方不明。仕方がないから前二者の帽子で我慢していたのだが、やはり不便、それが発見された。勿論しまい忘れ、老人のさがである。しかも何枚も発見されたから嬉しい反面、物忘れの進行を突きつけられて、こりゃ大変だと痛感した次第。

85歳ともなれば、肉体も頭脳も衰えるのは当たり前である。それが毎日6−8時間、時には10時間も働けるのだから「有り難い」と感謝しなければならないが、それと引き換えに貧乏と馬鹿正直を引き当てた。が、S君の言に従えば家族が健康で仲良くて、しかも三人の孫達が元気とくれば、この上のない幸せだと、この周りには、そんな家族は見当たらないぞと。

めだし帽が活躍するのは冬である。冬でも時期によって気象は様々、風が強い時はめだし帽では役に立たない。気温が極端に低い時は毛皮で裏打ちされたアメリカ製が最高だが、老人となった現在では帽子の多少の重さでも気になって、出来るだけ軽い方が作業をしやすいためだ。仕舞い忘れの目だし帽の出現で頭だけは豊かな使い分けができている。

ともあれ、防寒帽の心配のない春風の訪れを、千秋の思いで待ちわびている今日この頃である。

2016.2.17 見浦 哲弥

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2016年05月10日

スクールバス

毎朝7時30分に赤いマイクロバスが大規模林道小板橋から出発する。我が家の孫三人の通学のためのスクールバスである。
これは各集落ごとにあった小学校や分校が消滅したためである。そのための費用は国や自治体が負担するのだが、相当の金額であろうことは素人の私達でも理解できる。教育の機会均等は国の基本理念であることはいうまでもないが、恩恵を受ける側に感謝の気持ちが薄いのでは国家としての団結力は弱くなるのでは。

私は小板に帰郷して始めて遠距離通学の現実を知った。福井市でも三国町でも10分も歩けば学校に着く。それが小板分校に通う餅ノ木集落の生徒は1時間かけて4キロの山道を通ってくる、小学生も高学年にもなれば体力もつき、差して困難の距離ではないが低学年の1−2年生を庇いながらの登校は毎日1時間の遅刻、複複式の授業だから抜け落ちた教科の補修などする時間は先生にはない、従って期末試験で好得点を取るなどは夢のまた夢、それを小板の連中は餅ノ木は頭が悪いときめてかかったんだ。ところが都会の転校生から見ると餅ノ木の自然の子は私が知らない山のような智識の持ち主だった。

餅ノ木の上級生はどんなに天候が悪くても、都合が悪いことがあっても、下級生を学校まで庇いながら登校する。地元の人間は、当たり前としか評価をしなかったが、私は素晴らしいと思った。だから餅ノ木の生徒とは仲良しだったし、彼等も見浦君と見浦君と親しんでくれたんだ。

それから松原にあった中学校へ(高等科といった)通った。旧国道191号線は深入峠を越えて9キロ近くある。深入峠からはオシロイ谷という近道を走って降りて7km、どんなに急いでも1時間、天候が悪いと1.5時間はかかったもんだ。おまけに、ご存知の太平洋戦争で中学生も勤労奉仕なる強制労働があって作業の終了が夕方の5時ということもあって、校門を出る時は、すでに夕暮れ、山道のオシロイ谷は真っ暗、懐中電灯も何もない坂道を空を見上げて、僅かに見える隙間の下が道と判断して登ったものだ。ちなみに松原の校舎は海抜650m、深入峠は870m、見浦家は780m、従って高低差は220m、その1/3を一気に登る近道は日中も厳しい道、それを中学生が夜道を1人で帰る、今なら人権問題になる。

樽床にダム工事が始まって小板の分校にも生徒が増えた。工事関係の子供さんが通学してきたためだ。最盛期には70人を超す生徒がいたから、当然中学校も分室が出来て本校から先生が通ってくるようになった。小板の生徒が松原の本校に行くのは入学式と卒業式の2度だけになって徒歩での毎日通学はなくなったが、やがて松原の中学校も廃止されて中学生は戸河内中学校に通うことになった。そこで登場したのは寄宿舎制度、私の子供達はそのお世話になった。山奥の小さな学校から人数が多い学校への環境変化は当然イジメが発生した。大きな学校を経験した私は小3で発生したイジメに何とか対応して免疫が出来たが、おかげで高等科(2年制の中学)でも、動員でも、大人の新入りの時も、なんとか対応することが出来たんだ。
人間は集団で暮らす動物、順列をつけるためのイジメは大なり小なり必要悪として存在する、その訓練のためにも小規模校よりは中規模校以上の生徒数が欲しい、その配慮不足がイジメが原因の生徒の自殺という悲劇を呼ぶのだと私は考えている。

最近はイジメによる若者の殺人事件が珍しくない。イジメは悪として完全否定をしている社会にも無理があるように思う。決してイジメを肯定するわけではないが、順列をつけるための一つとして小さなイジメは必要悪の気がするのだ。

とはいえ逼迫する地方財政の中で義務教育とは言いながらスクールバスの配慮はありがたい。暖房のきいた車内は冬季の雪中登校の厳しかったことを孫達は想像も出来ないだろう。

人口減少が始まって各所で学校統合が論議され、実行されて、スクールバスによる遠距離通学が珍しくなくなった。勿論、廃校になる地区の心情も猛反対も理解が出来ないではないが、限られた財源と国民の負担を考えると、一方的な主張は子供達に笑われるのではないか。最低の費用で最大の効果は教育の世界でも例外ではないのだから。

ともあれ、今朝も赤いスクールバスは孫達を迎えに来た。将来、彼達が国家の為に役立つ人にならんことをと祈りながら見送った。

2016.1.10 見浦 哲弥

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2016年05月07日

オガコ一代記 敷き料おがくず変遷記

昔は、といっても私の子供の頃、家畜の寝床は刈草と藁(ワラ)を敷くと決まっていました。化学肥料などなかなか買えない農村が貧乏だった時代、肥料の主役は牛馬に踏ませて作った草や藁の堆肥(ダヤゴエ)が主役でした。
ですから、田植えが済んだら暇があると草刈、田圃の畦をはじめとして、家の周りの草地(勿論野草です)、草刈山の柴草(野草だけでなく、笹や萩や落葉樹の芽生えまで含めて)、ひたすらに草を刈る、草刈鎌もその土地、土地の鍛冶屋さんで使い勝手と切れ味が違う、おまけに研ぎ方で切れ方も違う、熟練が物をいう世界でした。

稲刈りが済むと敷き料には豊富な藁を投入する、ところが長いまま入れると、踏み固められてダヤゴエを掘り起こして橇(ソリ)に積むのが大変な重労働になる(重量物は雪を利用して橇で運ぶ、小道と細い畦道では重量物を多量に運ぶのは困難でしたから)、そこで掘り起こす専用のコエホリなる頑丈な三つ爪の鍬(スキ)が登場する、でも堀起こすのは重労働でしたね。

冬になって2月になると積雪も落ち着き、田圃も川も一面の銀世界、橇で何処にでもダヤゴエを運べる、なにしろ2メートルをこす積雪でしたからね、雪解けまでに運んでしまわないと川やら畦が現れる、毎日が戦争でした。もちろん吹雪の日はお休みでしたが、今度は屋根の雪下ろしが登場する。何日も降り続くと雪の重さで家が鳴りまして、こちらも戦争になる。さて田圃の真ん中に積み上げられたダヤゴエの山の大きさが、その農家の働き度の指針、隣よりも家のが大きいと鼻をたかくする、素人と子供が百姓の大畠では勝ち目がない、「道路から見ると大きく見えるように幅広に積め」と親父に言われたときは、本当に悔しかったですね。

その時代から20年近くたって本格的に牛を飼うということになって最初に問題になったのは敷き料でした。
でも、当時はまだ稲作が盛んで手刈でハゼ干し(細い木材や竹で作った何段もの干し場)が主役で稲藁は簡単に手に入りました。もっとも秋の晴天にどこの家でも一斉に脱穀(藁と籾に分離する)をする。藁は野天に放置されていましてね。雨に濡らさないで集めるのは一苦労でしたが、集められた稲藁は飼料に敷き藁にと大活躍でした。が牛の数が10頭を越すと充分な敷き料とまでは行かず、牛舎は糞尿で泥寧(ぬかるみ)と化し、新しい対策が必要でした。

当時も乳牛は多頭飼育が当たり前でした。ところが搾乳牛は敷料を敷かない、コンクリート床か木床、後に厚いゴムマットになりましたが、糞尿分離で繋ぎ飼い、尿は流れて溝に入り尿溜めに、糞はバーンクリーナーなる機械で自動的に集められる、見学に行くたびに羨望のまなざしで眺めたものです。もっと子牛を生む時は分娩房に入って、ここには敷きわらが敷いてありましたが、見浦牧場の参考にはならない、中身のない頭をしぼりましたな。
ある日、ふと見た農業雑誌の片隅に読者の投稿が眼に止まりました。畜舎に厚く川砂をしいている、尿だけ浸透して糞尿が分離できるとの文でした。糞だけなら自然乾燥で処理が楽になったと、小さな農家の思い付きだったのでしょうが、妙に気になりました。
ところが、小板では砂は貴重品、小川の小板川では川泥はあってもモルタルに使うほどの砂も手に入りません。40キロも50キロも下流から運んでもらう高価な品物、とても敷料に利用するのは無理でしたが、あるとき学校の砂場が頭に浮かんで来ました。走り幅跳びや三段跳びで着地する砂場です。そういえば小板に来て驚いた事の一つだったな、砂のかわりにオガクズが厚く敷いてあった。

そうだ、砂の代わりにオガクズを敷こう。早速、戸河内の製材所にかけつけました。幾らでもあげる、実は始末に困っていたんだ、あちこちの畑の隅に置かせてももらったり、山に捨てたり。
実は私も20代のはじめ丸鋸の簡易製材をしていたことがあるのです。出てくるオガクズは厄介者、大水が出たときに溝に流し込んで川へ放流、現在なら警察沙汰、なにしろダイナマイトを淵に放り込んで魚をとるなんて、無法がまかり通った敗戦の頃でしたから。
それでも、移動製材とも呼ばれた簡易製材は周囲に立木(リュウボク)が゙なくなると、後にオガクズとコワと呼ばれる木切れの山を残して移動してゆく。オガクズの処理が問題になったことはありませんでした。

ところが、帯鋸と動力の送材台車が導入されて、中小の製材工場が設立され、精度と能率の劣る簡易製材は姿を消したのです。しかし、定置式となった製材所から排出されるオガクズの処理が問題になり始めていたのを私は気がつきませんでした。畜舎の敷料としてのオガクズの利用は、私たちにとっても製材工場にとっても利害が一致したのです。

利益に結びつくとなると、新しい技術の波及は電光の速さでひろがります。畜産屋が製材所に殺到して、取りにいってもタンクが空ということが多くなりました。私たちも対抗策として木工所も集収先として次々と開発して行きました。機械カンナのカスや丸棒削りのカス等、オガクズとは劣る木屑も利用するようになりました。工場の外に山済みするよりも見浦を利用する方が得と工場側も積極的になってくれました。

が、オガクズが容易に手に入ることを知った畜産家の中には、冬は畜舎の暖房に使えると考えたのです。敷料だけでも冬場のオガクズは使用量が増えます。その上、暖房に使用されて冬場のオガクズが取り合いになりました。ところが夏場は不要です。そのご都合主義に製材工場が悲鳴を上げました。
「見浦さん、夏場のオガクズを引き取ってもらえんか」
「取るけど、要る時は貰えんで必要が少ない時だけ処理しろというのは、少し無理と違うか」
「無料というので、勝手に積んで行くんで、どうもならん」
「それなら前金で年間幾らで全量を買い取る、それなら他人のオガクズを勝手に取ることは出来ないはず」
「うまい考えだ、それで行こう」
「では最初は年間前払い5万円で全量買い取ることに」
「よろしく頼む」。

他の工場では木屑のタンクが満杯になったら1時間以内に必ず引き取りに行くと約束したりして、実行しました。約束ですから不要のオガクズは牧場の片隅につみあげたりして、5年も経つと見浦はあてにできると評価が確定しました。なにしろ、タンクが満杯でと連絡しても「今日は忙しい」と返事をする畜産家もいたそうで、ますます信用が高まって20年くらいは敷料の心配はしなくて済んだのですが。

ところが日本経済が発展するに連れてオガクズの環境にも変化が起きました。まず、簡易製材が姿を消し定置型の製材工場が旧町村ごとに現れました。その工場に山積みされていた国産の松や杉の丸太が消え、直径が1メートルもある外国の丸太が何本も置かれるようになりました。そして身近なホームセンターに製材された輸入木材の製品が並ぶようになりました。
森林組合の年間報告書に国産材の使用が20パーセントに落ち、外国からの木材製品に置き換わったと記されるようになりました。製材所の丸太置き場に山積みされていた外材も見られなくなり、次々と製材工場の廃止が起き、とうとう大田川流域の区域では1箇所になってしまいました。しかもフル操業をするほど原料が集まらない、従ってオガクズも手に入り難くなりました。もっとも近隣の牧場も廃業が相次いで、見浦牧場が生き残っているのが話題になる現状でしたから消費も減ったのですが。

しかし、需要があれば供給が必要、そこに商売が発生する。廿日市に木材港と呼ばれる輸入木材の拠点があります。したがって大規模な製材工場もある。思い余って電話をしてみたのです。担当者いわく「発生単位が大きくて、小さな個人牧場は対象にしていない。しかし、貴方が望めば搬送業者は紹介できる」と。勿論、お願いしました。

そして、連絡してきたのが、4トントラック1台で営業している Oさん、お会いしてみると、気さくな人のよさそうな運転手さん、専用の車で23リューべが2万5千円、ためしに1台御願いすると最高級のオガクズが納入されました。そこで毎月1台で契約、現金決済というのは辛かったがオガクズの心配はなくなりました。従前の引き取り先も減少したとは言えオガクズは発生していましたから。
ところが安定していたのは2年くらいだったかな、日本経済が混迷してデフレになっちゃった。おまけに政治が右往左往、適切な対応が出来ないものだから、経済も縮小するばかり、中型や大型まで製材所が廃業してゆく、したがって、ここでもオガクズの取り合い、価格がみるみるうちに高騰、4万円になって、それでも計画どうり納入してくれれば、我慢するのだが、納入が2ヶ月おきになり、3ヶ月ともなると対策を立てざるを得ない、本気になりましたね。

最初に考えたのがチップ工場、様々な原木を粉砕して製紙工場に原料として納入する、その際発生するのがダストと呼ばれる微粉と木の皮、これが代用にならないかと。勿論、オガクズに較べれば効果は数段劣ると判っていましたが、高騰を続けるオガクズにはもう頼ってはいけないと。ところが吸湿性がよくない、したがって多量に投入する必要がある、購入場所が往復で70キロと今までの倍の距離、欠点を数えればきりがありませんが、オガクズの代用が出来るかどうかが重要な点でした。

思い立ったら実験するのが見浦牧場のいいところ、牛は迷惑でしょうが直ちに実施、敷料としての厚さ、オガクズとの併用、単独使用、そして使用済みの敷料の発酵の状態、やることは山ほどありましたが、いずれも時間が必要な条項ばかりでした。

テストを始めて1年が経ちました。吸収力は劣るものの、多少は糞と尿が分離するので、案外敷料の役割を果たしてくれる、ことに木質部のオガクズと違って皮の部分は腐りやすいこともあって発酵も良好でした。ただ粉砕し切れなかった木切れが混在する、この堆肥を機械で圃場に撒く事ができるかが課題として残りました。しかし案ずるよりは行うは易くで、機械は順調に散布してくれました。もっとも大きな木片は手で拾いますが。

次から次へと新しい問題がおきる見浦牧場、でもまだ挑戦するエネルギーが残っているようです。

今日も巨大製材工場のオガクズを満載した巨大トラックが島根の巨大牧場へ見浦牧場の傍らの林道を疾走してゆきます。その巨大に抵抗して、ささやかな見浦牧場が智恵で対抗しています。そんな見浦牧場に理解と声援を御願いしたいと思うのですが。

2013.9.10 見浦 哲弥
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