2016年01月30日

掃除刈り

10月も終わりに近くなると元気な牧草も伸びなくなって冬支度の季節である。冬将軍の到来の前に牧草地は掃除刈りなる作業がある。牛が食い残したまずい草を刈り払って来春の牧草の生育の助けをする作業だ。

放牧をしている草地は牛が美味しい草だけを食べるので、イグサのような雑草が繁茂する。だから最低年1回の掃除刈りは欠かせない作業なのだ。
ところが見浦牧場は山の中、総面積25ヘクタール近い草地も山の中あり、水田の転作もあり、小は5アールの小区画から4ヘクタールの斜面まで条件は千差万別、日本の山岳農業の欠点をすべてが揃っている。おまけに草地には毎年牛糞の堆肥を散布する。その肥料を狙って周辺の木々の生長の早いこと。伐採して調べると草地が肥沃になるにつれて年輪の間隔も2倍3倍と増加している。おまけに伸びるためには日光が必要とばかり、草地に張り出してくる。何と30センチを越す大木まで幹を曲げて伸びるのだから、凶暴である。

牧草の成長期は収穫に追われて気付かなかった周囲の変遷も、掃除刈りの時は思い知らされるのだ。もともとこの地帯は雨量が多い上に西日本でも比較的温暖と来る。臥竜山には一部原生林が現存するほど樹木の生育は旺盛なところだ。そこへ牧草地を開いて牛の糞尿を投入したから、樹木の生育が倍増してしまった。ここ20年の年輪を見ると、それ以前の倍以上の速さで成長している。専門家に聞くと、樹高の高さだけ根が伸びて、草地に散布した肥料を吸収するのだと。伐採して樹木の草地への侵入阻止を図るのだが自然の力には及ばない。

10月26日、草地の掃除刈がほぼ終了した。後は3番草が1ヘクタール弱、気候も冬に向かってまっしぐらである。

2015.10.26 見浦 哲弥

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2016年01月13日

紅葉の頃

今年も山々が色付きはじめました。観光資源の少ないこのあたりでも、晴れ渡った青空と見渡す限りの紅葉の景色は、都会人には格好の観光材料なのです。
地元で暮らしている住民は残り少ない好天をいかに有効に使うかと懸命なのですが、三々五々風景を楽しむ都会人を「ええことよの」と羨望の眼で見送るのです。

でも誰もお互いに話しかけない。住民も観光の都会人も、ただ通りすぎるだけ。せいぜい目礼をするのが精一杯か。何故なんでしょうね、同じ言葉を話し、同じ教育を受け、同じテレビを見ているのにね。

幼年期を都会で過ごした私には、その垣根が見えないのです。ちょっとしたきっかけがあれば、ちょっとした会話をすることにしています。それが大変喜ばれる。なぜ皆さん、それに気がつかないのか、私は不思議に思うのです。
確かにこの地方には方言がありました。広島弁も独特ですが、その上にもう一つアクセントの違いがありました。当時は小学校から標準語で話せと厳しく指導されていたので、心の中に地元の言葉に劣等感を持つようになったのかも知れません。

方言は地方、地方に存在します。私が生まれた福井市と育った三国町ではアクセントに違いがありました。転校した小3のときは言葉の意味が理解できなくて困ったものです。でも同じ日本語なんだから、すぐなれて話せるようになる。私が方言に抵抗感がないのは、そのせいだと思っているのです。

現在の日本人は誰でも標準語を話します。でも小さい時から地域の方言に親しんでいた地元の老人は都会人と見ると標準語でと身構える。それで話の範囲が狭まるのです。それを聞かされるほうは興味が薄れるのは当然でしょう。

道端で作業をしていると話しかけてくる都会人がいます。田舎の風情を楽しんで歩く人は見ているだけで心が和みます。そして一言、声をかけると大抵は答えが帰ってくるのです。そして話が続いてゆく。小さな山間の高原にも歴史があります。取るに足らないような話でも、それが都会人の知識と関連してくると、俄然興味が湧いてくるのです。例えば聖湖の湖底に沈んだ樽床部落は平家の落人の末裔とか、同じ三段峡の支流の横川は樽床の人とアクセントが違います、さて?とか、それから小板は尼子氏と吉川氏の古戦場で地域の中の地名の戦いの後が偲ばれるとか、眼前の深入山は死火山で小板川の川底を見るとその片鱗が見えるとか。
ただ何となく散策するのと、それなりの知識を持って歩くのとは風景も変わって見えるはずです。それを提供するのは小板に住む住民の小さな責務と思うのですが。

紅葉の頃は柴栗が落ちる頃、市販の大栗とは違った味の濃い柴栗の季節は、山からのささやかなプレゼントです。小板の山がまだ柴栗で覆われていた頃、栗拾いは重要な秋の仕事だった。何しろ一日の20リットルから50リットルも拾う、水につけて虫を殺して乾燥して仲買人に売る、立派な収入源だったんだ。
それが或る年、クリタマバチがやってきた。あれはまだ新緑の頃だったね。八幡の方から栗の木が枯れ始めたんだ。それがクリタマバチ、新梢の芽の根元に卵を産み付ける、孵化した幼虫は樹液を吸収しながら成長する、だから樹液の行かない新梢は枯れてしまうんだ。そして幼虫が成長するにつれて、その部分が玉になる。それでクリタマバチと呼ばれるんだ。新梢が伸びないから葉が出来ない、辛うじて葉になっても小さな葉で幹の栄養を補えない、そして枯れるというパターンだった。見る見る柴栗が枯れて山が茶色になった。これで柴栗は全滅かと思ったんだ。
ところで、その当時は「進化」という現象は専門書の中だけと思っていたが、現実にその存在を見せてくれた。栗の木の中に枯れない木が出てきたんだ。クリタマバチに寄生されても虫頴(幼虫が住み着いた幼芽)が大きくならない。そして幼虫が死んでしまう。そのほかクリタマバチが寄生しない木もあったんだ。特に栽培する大栗は強かったね。

そんなわけで生き残った柴栗のおかげで今年は例年になく豊作。勿論、全盛期には比べようがないが、道端のそこここに栗が落ちている。都会人が大喜びする自然がそこにある。10月10日は恒例のウォーキング、色づきはじめた風景と木の実が都会人を満足させるだろう。

2015.10.8 見浦 哲弥
posted by tetsu at 07:59| Comment(0) | 中国山地の自然 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月10日

山深い中国山地にも遅い春がやってくる。その季節、誰も気がつかないままに、山肌の林の中に細い白線が現れるのを、貴方は知っていますか?住人は春の風物詩の一つと見過ごしているこの現象、それを何故か気になったのは私が町で育った異邦人?だったせいです。

この地帯はタタラ鉄を巡って山陰と山陽が争ったところ、その戦いを阻んだのは急峻な山肌と積雪だった。その山腹を乗り越えるために何本も刻みこまれた道、その残雪跡が雪解けに白線をつくる。ひそかに、ひそかに切り開いた何本もの道、敵対する相手の目をかすめて作り上げたその道が、雪解けに一時姿を現す。そのつもりで見ると、そこここの斜面に遠い戦国の戦いの痕が見える。長い年月の風雪に、ところどころは消え去った白線の彼方に、過ぎ去った時代の中国山地が見えるんだ。

目を転じて集落の中の小道を見る。幅1メートルばかりの古道が田圃や屋敷で消えては現れ、現れては消える。そして谷川にそって峠を目指し、急斜面を下り、雑木林の中に姿を消す。戦いに敗れた落武者たちがたどった道、人足が牛馬の背にタタラ鉄を積んでひたすら海を目指して歩いた道だ。次の宿場の松原には茶店があった。飯を食って牛馬に餌を食わせて一休み、それを楽しみにひたすらに歩く。その遠い昔の小道は今は知る人もなく、心をやる人もいない。しかし、古道にたたずんで目を閉じれば、遠い遠い昔の息吹を感じるはず。貴方は感じないか、草いきれに混じってほのかに漂う歴史の香りを。

集落を縦貫する1車線の道路がある。100年余り前に建設された近代日本の夜明けを告げた旧国道だ。広島から益田まで人力で切り開いた191号線、この道は戦いに明け暮れた近代日本の象徴、舗装のない砂利道だった。その道をフォードの小さなバスが住民を満載して走った。車の後ろに荷物籠をつけて、それでも足りずに屋根にも荷物を積むガードがあった。お客が満員の時は荷物のかわりに若者が屋根の上でガードにしがみつく。非力で荷物満載の車は、峠にかかると青いガソリンの煙を吐きながら、ひたすらにローギヤで走る。体力のない婦人は車酔いに耐えながら嘔吐をこらえる。そんな難行苦行の田舎道、それが中国山地、それが小板、それが幼い日のわたしの記憶。

勇ましい軍人さんの号令で75年前、第二次世界大戦が始まった。アメリカと戦った太平洋戦争というやつだ。あえぎながらでも広島と結んでいた小さなバスは燃料不足で廃業、山間の住民はただ歩くのみ、役場も病院も買い物も、ひたすらに歩く、そして背負う。靴もズックも長靴も、お金持ち以外には遠い夢、藁で作ったワラジとゾウリが履物の全て、一度きりの時間が藁細工と歩くことで失われてゆく。それが当たり前だった、疑問は持たなかった。
だが戦争が始まるとトラックが通り始めた。小さなトラックが木炭を積んでね、加計にあった小さな製鉄所が増産でね、戦争でコストの高い倒産寸前の小さな製鉄所も仕事が増えたんだ。ところが道路は旧態依然、穴ぼこだらけの砂利道を砂埃を巻き上げながらトラックは走り、悪童達の格好の遊び相手となった。登り坂でスピードが落ちたところで車の後ろにぶらさがる、何百メートルかいったところでスピードが出ないうちに飛び降りる。今考えると危ないゲームだったね。手を離す瞬間を間違えてスピードが出ていて着地に失敗、スリ傷を作ったこともあった。

閑話休題、戦争も末期になって国道とは名ばかりの小板の道路に緊張が走ったんだ。トラックの交通量が飛躍的に伸びた、その一つは前にも書いた戦闘機の防弾板、もう一つはイギリスの傑作機モスキートの登場だった。それが影響をもたらした。防弾板の話は別の文章に書いたので重複は避けよう。今日はモスキートの話にしよう。
この飛行機は正式にはデ・ハビランド・モスキートと言う双発の戦闘機、足が速くて、旋回性能が良くて、機体が木製で軽いと来る。おまけに大出力のエンジンを二つ積んで高速が出るという代物、多目的機である。戦争の末期に日本軍がミャンマー(当時はビルマといった)に侵攻した頃から活躍を始めたという。
忠勇無双の日本軍はこの飛行機に散々な目に合わされたとか。わが国は物まね日本と陰口をたたかれたお国柄、木材は沢山ある、日本でも木製の飛行機を作れと軍人さんが号令をかけたからさあ大変。この地帯で唯一残っていた原生林、中の甲谷からブナの大木を切り出してベニヤ板にして飛行機を作るという大計画、泥縄もいいところだが頭に血が上った軍人さんは大真面目、途端に小板の道路は賑やかになったね。

穴ぼこだらけの砂利道、悲鳴を上げる木炭車、手もっこと鍬とショベルの修路工夫さんがつききりで道直し、でもひと雨来ると穴ぼこ道が再現する、まさに賽の河原だった、あの風景は昨日のことだ。

敗戦の混乱が落ち着き始めて、そう1955年頃かな、日本の産業復興の兆しが見えると、隣部落の樽床にダム建設が本格化し始めた。長い前哨戦があったと聞くから、ダム建設の話は終戦後間もなくおきた。
大田川の最後の発電ダムの建設とて、落差も大きく出力も巨大、住民は樽床ダムと呼ぶが、地図上では聖湖と記されている。この地帯でも有数の大きな樽床部落を殆ど飲み込む大工事、1車線の砂利道での資材搬入は無理と15キロ下流の三段峡の入り口からケーブル線を建設、峰を3つ越して建設現場へ直接資材の搬入を始めた。ところが工事用のケーブル線での人間の輸送は危険で資材以外は道路を利用するしか方法がなかった。
そこで冬季でも交通を確保すための除雪が始まった。ブルドーザーが轟音を響かせて積雪を排除して道を確保する。積雪で諦めていた冬季の交通が約束されて病人を橇で搬送する苦労も昔話になった。私もその恩恵で命拾いをした人間の1人。
ところが除雪機械が工事用のブルドーザー、従って雪だけでなく路面もけずる。春ともなれば沿線の田圃は雪と共に放りこまれた砂利が小山になって続く、これには苦情が殺到した。そこでようやく路面舗装が始まったんだ。

戦争をしないと国内は様々な点で改良され進歩する。都市近郊でしか見られなかった舗装道路、アスファルト舗装で夢のようじゃなと感激したのも束の間、舗装がされても道幅や急坂は昔のまま、自動車が増えて1車線での離合(すれちがい)が苦痛になる、対向車がくれば道幅が広いところまで後退しなければいけない、どちらがバックするかで争いになる、なかには居据わる奴がいて小心者が割りを食うこともあって、問題もおきた。

その時期、かの有名な田中角栄氏が登場、政治力を発揮して道路が良くなり始める。なにしろガソリン税なるものを新設、国庫に集まった新税は全て道路改良・新設に向けるというのだから画期的。しかも、その税率たるや、本体のガソリンより高い。その税金は建設省がにぎって全部が道路に使う目的税。時あたかも日本の経済が上昇期に入ってマイカーブームがおき、猫も杓子も免許を取って自動車を買う、それが生きる目的。従ってガソリンが売れる、そして道路にお金が回る、とんでもない循環が始まったんだ。勿論、抜け目のない政治家諸君には土建屋さんから政治献金が潤沢に入ってくる、公共事業が資金源とは怪しからんとの世論はあっても、僻地の道路はあれよあれよと言う間に2車線になり、高速道路に接続し、長大なトンネルが掘削されて、七曲の山道は山の下のトンネルに変わり、歩いて二日がかりだった広島が、マイカー時代の初期で5時間、高速道路を利用すると2時間はかからない。住民は先日までの不便など何処吹く風、当然のように自家用車をぶっとばす。

一家に1台のマイカーは常識で、見浦牧場では乗用車、トラックが計5台、運転手が5人、役場も学校も病院も20キロの彼方、買い物一つでも3、40キロ走らなければ用がたせない。自動車は生命線になって、一人暮らしの老人が車がなかったら生きてゆけない、とんでもない世の中になってしまったんだ。

ところが近代化された道路は昔は夢だった大きな橋やトンネルを建設することで成り立っている。私達が日常的に利用する橋にも何億円もする高価な橋が珍しくない。ところが人工物なのだから耐用年数なるものが存在する。老朽化した時は寒気がするほどの巨額の費用がいるはずだ。人口が減り始め、経済も停滞しがちの日本にそんな資金が何処にあるのかと、いささか不安である。

取越し苦労の老人の呟きを踏み潰すように、今日も家の横の大規模林道を岡山の港から益田の巨大牧場に20トン積みのバルク車(バラ積みの飼料の運搬車)が吹っ飛んでゆく、時代は移り変わる、か?

2014.8.9 見浦 哲弥
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2016年01月04日

薪用材の伐採

2015.11.5 秋口に切り倒した薪用の雑木の小切りの仕事をする。草地の仕事が一段落と思ったら冬将軍が間近に迫り、東北や北海道は積雪の便り。毎日は飛ぶように過ぎ去り、老体の懸命は季節に追いつかない。

牧場を始めて50年余り、ふと気がつくと牧草地の周辺の木々が異常に生育していた。牧草地が堆肥の投入で肥沃になるにつれて、肥料の横取りで猛然と生育を始めた、そんな感じである。とはいえ、肥料だけでなく日光もよこせと、牧草の上に覆いかぶさるように横伸びをする。そのつもりで観察すると、3メートルから5メートルばかりも侵入されている。これはたまらんと、薪は牧草地の周囲の木ということに決めたのだが、予想外の生育で仕事のはかどらないこと。もっとも私の老齢で能率が落ちているから余計に、である。

牧草地の周りは初期の牧柵代わりに立木を有刺線の杭代りに使用したこともあって、思いがけないところに針金あり釘ありで、刃物にとって大敵がいたるところにいるという状態なのだから、仕事がはかどらないのもやむを得ないか。

もう一つ問題があって、足の衰えが仕事に影響する。特に斜面での伐採は細心の注意がいる。倒れ始めて避難するのに昔のように敏速に退避が出来ないためだ。伐採は昔とった杵柄で何とかこなせるが、倒れ始めるときに避難の距離を稼げない。特に斜面の伐採は根元がどのくらい跳ねるかの予測が難しい。だから余裕をもって逃げなくてはいけないのだが、それが出来なくなったのだ。せいぜい2〜3メートルも離れれば上等といった現状は、老人には勧められない作業である。
だからお前は若くはないのだと、何度も自分に言い聞かせながらチエンソーを操るんだ。幸い今年は何とか仕事をこなせている。

思えばチエンソーという高能率の機械が私達にも買える値段で供給されるようになって、山仕事の能率も一変した。何しろ鋸で木を切る仕事は手作業の最たるもの、薪きりの伐採も大小2種か3種の鋸を使う。切る樹種によって歯の研ぎ方を変えて等々、腕の違いで能力は何倍、いや何十倍も違うのだから、素人から見ると専門家は神様に見えたもんだ。ところが70年前、始めてチエンソーなる機械を見た。国産で現在の機械から見ると巨大な代物だったが、間もなくマッカラーというアメリカ製の小型機が国内市場を圧倒した。その能力の高さ、使用の簡単さ、山仕事の人間にとって垂涎の機械だった。
しかし、その高価だったこと。それに原動機が2サイクルで性能が悪く、なかなか起動しない。しかしエンジンが回り始めると、その高性能は従来の手鋸など視野に入れられないほど。国産化して改良されて、私達も何台ものチエンソーの遍歴をした。そう、大金を投入したんだ。

現在は当然のように大小2台のチエンソーと腰鋸と腰鉈を持参で山に入る。簡単に伐採できるようになった反面、危険は倍増している。長い人生の中で何人かの知人を山事故で失った。近代化は細心の注意と知識が必要だった。

手鋸の時代は研ぎの技術の差がその人の能力とされた。チエンソーの現在でもプロとアマチュアの差は歴然として存在する。私は老化の進行で技術が落ちたとくるから切れ味もいまいちになって歯がゆいこと。俺も昔はプロの炭焼だったのに悔やむのだ。

チエンソーの製造会社は世界に無数にある、日本でも十指に近い。改良の競争のおかげで使いやすさと値段の低下で昔のような財産でなく普通の道具になった。ところが戦後登場したオレゴン社のチェンソーのナイフは独創的な発想と絶え間ない改良の積み上げで他社の追従をゆるさない。チェンソーのナイフはどの会社もオレゴンで共通なんだ。

気がついてみたら、牧場を始めて50年以上も経った。牧草地の周りの木が異常に生長していた。伐採して年輪を数えると、ここ20年余りの成長が明らかに異常と思えるほどの年輪の幅を広げている。最近は牧草地の上に枝を伸ばすだけなく、幹まで曲がって日光を奪おうとしている。山仕事のプロいわく、根は日光と肥料を追っかけて、幹の高さの長さまで伸ばすのだと。

そんなわけで薪用に切るくらいでは樹木の生長には太刀打ち出来そうもない。自然というものは人知の及ばない力を持っている。自然を教師として生きてきた私がいまだに感銘を受け続けている。自然万歳。

2015.12.30 見浦 哲弥
posted by tetsu at 12:54| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする