2017年08月05日

ウォーキング

毎年10月になると深入山ウォーキングなるイベントが催される。目下、その準備の人達で山道が賑やかである。深入山のグリーンシャワーなる広場が起点で、旧国道191号線を歩いて、小板で新国道に合流して深入山を1周する、延長7キロ位か。途中に私が松原校に通学するときに泣かされた、標高890メートルの水越垰がある。

そして今日は開催日、9時頃から道路に人影が。日頃人影の少ない旧国道にウォーキングとはいえ賑やかになるのは心楽しいものである。それに若者の途絶えた道にカラフルなウェアが続くのは、往来の激しかった昔をしばし偲ばせる。

それにしても時代の変化の大きさに驚かされる。道路が整備され、公共交通が不必要なほどマイカーが普及して、歩くことがスポーツになり始めている。戦時中の動員で北広島町新庄にあった宿舎まで徒歩40キロあまり、休憩時間を含めて10時間かかった。勿論、歩き難い砂利道は子供にとって遠い異次元の世界と感じたものだ。

我が家の孫くん3人のうち下の二人が10キロコースにチャレンジした。ところが4キロでダウン、家に走り込んでゲーム三昧、日本の将来を思うと背筋が寒くなる。少子化で子供を甘やかしすぎると思うのは老人のひがみか。

考えてみれば旧国道が賑わうのは”しわいマラソン”と”深入山ウォーキング”だけ。戦中、戦後の、悪路に国運と生活を委ねた賑わいは、繰り返したくはないが、懐かしい。

我が家から旧道の峠まで約2キロ、(峠から谷に沿って下る急坂(オシロイ谷)があって徒歩の時は、このコースを歩いた)松原の高等科に通った2年間、お世話になった道である。自然が一杯でね、ムササビを見たのも、ドンビキと呼ぶ巨大なヒキガエルを見たのもこの道だ。もっとも人権もへったくれもない戦時中のこと、勤労奉仕と称して遅くまで作業をさせられて、明かりもなくて夜空を見上げて頭上の隙間に導かれて帰った道でもある。自動車が普及を初めて、オシロイ谷の近道の人通りが途絶えてから40年近く、細い山道はヤブの中に埋もれて知る人以外は道の存在も忘れ去られた。

深入山ウォーキングは旧国道の車道を通って深入山を一周する。秋日和ならば絶好のハイキングコースだが、この道にまつわる物語を語る人はいないし、誰も知らない、ただ歩くだけ。100年あまりのこの道の歴史は、日本の近代史の一部と重なっているというのに。

時代が進んで便利になったのは有りがたいかぎりだが、歩くことが少なくなって要介護の老人が増えた感じがする。新聞の老々介護に疲れての心中やら殺人と言った記事を見ることが多くなった。他人事ではない、懸命に生き日本の復興に力を注いできた人生、その功労の報酬に人に迷惑をかけないで、ひっそりと旅立つのが理想である。私は小5から働き続けてきたのだから、せめてそのぐらいの我儘は聞いてほしいものだと思っている。

今年も無事、深入山ウォーキングは終了した。ただ歩くだけでなく、私の提言の一部でも聞いて欲しいと思っている。

2016.10.2 見浦哲弥

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2017年07月29日

(番外編)空から小板をみてみたら

空から小板をみてみたら、懐かしいものが見れるかも。

現在

過去を見るにはまず国土地理院の地図サイトでメッセージに同意します。その後、それぞれのリンクをクリックしてください。
1997(H9)
1993(H5)
1988(S63)
1976(S51)
1964(S39)
1947(S22)
1947(S22)その2




posted by tetsu at 09:13| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月23日

牧場の親父の社会構造論

もう50年余りも牛を飼っています。しかも放牧形式の集団飼育で、この方式の飼育形態は日本では数少ないのではと思っています。
近辺でも見浦牧場のような小さな牧場から中山、松永のような大牧場まで大小様々な牧場が存在しています。
私が生きたこの中国山地でも大小様々な形態の牧場が設立され消えて行きました。辛うじて生き残った牧場の一つ、見浦牧場が生きている日本社会の仕組みを、牛を飼う生活を通じて考えて見たいと思うのです。
最初の2頭から現在の180頭まで増えてゆく過程の中で、彼等が群れを作る仕組みや、集団のルール、ツキノワグマから身を守る護身術、等々、生きるための変化を作り上げて行きました。そんな彼等を見ていると人間も教えられるところが多々あるのです。今日はその話を聞いてください。

牛は集団で暮らす動物で厳然たる順列がありますが、その一生をよく見ると、生後12ヶ月くらいの所に境があります。それまでは、はっきりした順列が無いのです。勿論、餌を食べる時は力の強い子牛から食べ始めるのですが、横合いから小さな子牛が割り込んできても頭で押し出すくらいで、追っかけていじめることはありません。ところが12ヶ月を過ぎると押し出すだけでなく後を追いかけて順列を守れといじめるのです。
牛の世界は厳しい順列の世界、その能力と力で決まる順列を守ることで集団の中での生活が許される、そんな厳しい掟で集団が維持されている。注意深く観察すると他にも数々の掟があり、それを守ることで集団で暮らすことが許される、牛はそんな掟を守る集団なのです。

ここ小板はツキノワグマの生息地、近隣の山林が人工林に変わって、自然の食料が減りました。一方、登山客やトレッキングなど観光客が増加し、弁当のなどの残り物の味を覚えて集落の近隣で生活する個体が増えました。彼等は生きるための知恵を持っています。知能も体力も野生動物の中でも図抜けて高い。他の文章で報告した様に見浦牧場でも被害が出ているのです。

もともとこの地帯のツキノワグマは性質が温和と言われています。
天候が良くて、山にドングリや柴栗が豊富で食べ物が充分あれば、牧場の周りで気配は感じても、牛の餌を狙って畜舎や倉庫を荒らすことはありません。
ところが自然は時々悪天候も贈り物とする。山が不作で食べ物がなくなると彼等の頭がフル回転をする。生きるためにね。人間の周囲に現れて、農作物を狙い、果樹園を荒らす。そして畜舎に侵入して牛の餌を横取りをする。それでも足りない時は倉庫を壊して餌をあさる。

十数年ごとに、極端な悪天候がやってくる。輸入や備蓄の取り崩しなど、人間は生きるための手段を持っているが、それを持たない熊君は最後の手段として牛を襲うのです。

襲撃されて死亡した牛は、これまでに7頭あまり、食われたのは2頭ですが、追い回されて暴走して死亡、恐怖のショック死など死因は様々ですが、この50年間にかなりの被害がありました。

ところが牛も知能が高い動物、熊に対する恐怖は集団の中に知識として蓄積されて弱いながらも対抗する方法を編み出しているのです。
まず、1―2頭で行動することがなくなりました。近くで熊の気配を感じたら集団が大きくなり、一箇所に留まる時間が短くなります。たとえ美味しい草があっても絶えず移動します。そんな集団の行動を見ていると、熊がどの方向にいるのか、近くなのか、気配だけなのかが判るのです。
もっとも乳離れをしたばかりの子熊だけの時は集まってからかっていましたから、危険に際して彼等なりの判断を持っているようで、さすが高等動物と変な感動をしたものです。

朝夕、牛を見ながら生活していると、人間と同じように個体によって少しずつ性質が違います。優しい牛、気の荒い牛、仲間をいじめる牛、いたずら牛、など様々です。
ところが注意深く見ると、いじめる牛の集団は小さくて、いいリーダーで優しい牛の集団は大きくなるのです。

思い出すと見浦牧場の最初は1―2頭飼いの農家が生産した子牛を買って初めたのです。放牧しても夕方になると人間が集めて畜舎に連れて帰らなくてはなりませんでした。そして10数頭に増えた頃も夕方の牛集めは仕事の一つ、しかも何頭かは別行動、広くもない牧場を探して歩くことが日課でした。
ところが何時の頃からか、この作業がなくなりました。別行動の牛が出ても数頭以上の集団を組みます。熊の被害が出始めた頃からですね。

彼等は自然の摂理に從って行動しているのです。1頭でいる時に襲われたら100%殺される。ところが集団が大きいほど、殺される確率も確実に小さくなる。そして集団の大きさを、リーダーの優秀さと優しさが決めている。この法則に気付いた時は驚きましたね。動物の本能は人間の教科書より素晴らしいと。

戦後の日本経済の高度成長で道路が良くなりました。生活も豊かになりました。市場経済の恩恵を受けて一般の人達も、それなりの恩恵を受けました。そして、すべての事柄をお金に換算して利害を判断する悪しき考えが常識化しました。田舎から思いやりや、助け合いの精神が消えて、「なんぼ呉れるんなら助ける、儲けにならないなら、わしゃ知らん」などとぬかす奴まで現れて、殺伐な雰囲気が流れることもある、そんな時代になりました。

私が「ヒューマンリング」に書いた当たり前の人助けが美談となリました。文章「同行崩壊す」を読んだ人が感心して、これでないと田舎は成り立たない言ってくれました。当然のことが忘れ去ろうとしていると。

イギリスの産業革命をもたらした原始資本主義は極端な格差を生み出して、底辺の人達は基本的人権まで否定されました。この問題を理論的に論破したマルクスの資本論は議会制社会主義と一党独裁の共産主義の政治体制を生み出しました。しかし、70年余りの共産主義の政治体制は崩壊し、人間はひとつの枠、ひとつの考えに押し込むことは不可能だと答えが出ました。
そして時代はアメリカの修正資本主義、全世界がこのシステムに飲み込まれました。しかし、メイフラワー号でアメリカに移住したイギリスの清教徒のグループは資本主義の欠点を聖書の教えでカバーしようとしました。それが世界に修正資本主義を広める要因となりました。
が、日本人はキリスト教と資本主義の微妙なバランスで成り立っているアメリカの方式を宗教抜きで導入しました。いや日本の宗教家がことの本質を理解しないまま、政治に結びついたり、在来の殻にこもったりして新しい役割を担うことを放棄してしまった、私にはそう感じるのです。

敗戦から70年、都市には高層ビルが林立し、新幹線の高速運行は当たり前に、高速道路と自家用車は当然の必需品になりました。そんな豊かな日本なのに、何かが欠け、何かが間違っている、それが私の文章が思いもかけない人達に読まれ、感銘?を与えている原因では、そう思っているのです。

私は昭和29年に日本社会党に入党しました。「格差のない平等な社会」のモットーは、動員で強者が弱者を搾取する現実を少年の目で確認した私には魅力でした。が、この組織の中にも様々な格差があり、差別がありました。
広島であった若手党員の研修会で当時の江田書記長が会の終了後、取り巻きだけを連れて街に繰り出して行った時、理想と現実のギャップを感じたものです。

ある時、県本部に前田先生(山県郡の活動家の大先輩)のお供で立ち寄った時、呉の市会議員の立候補者と立ち話をする機会がありました。「どうして社会党ですか」と、お聞きすると「選挙で票が集まるから」と当然のように答えられた。思想信条が同じだからという言葉を期待していた私にはショックでした。左の人間でも目前の利益が優先するのだと。

しかし、前田先生は私心のない人でした。正しいと信じたら利害は思考の外でした。そのせいで加計町の3大名家の一つと評された前田家が崩壊したのですから、その生き方は私に影響を与えました。弱者に助けを求められたら全力を尽くせと、前田先生、私の親父さんなど、私は何人かの素晴らしい人生の師を持つたのですが、貧乏からは逃れることは出来ませんでした。でも、理屈だけの人間にならなくて済みました。

理論は大切です。しかし所詮は人間の考えたこと、絶対はありません。それを自然の摂理で補正しながら参考にして生きる、その一つが無学な農夫の社会構造論なのです。

たった、それだけのことなのに「見浦さんの方へ、足を向けて寝られん」と感謝された時は心臓が引っくり返るほど驚きました。平凡な人間にはショックが大きすぎた。
当然のことを、ほんの僅か、お手伝いしただけで、その言葉をもらえたのには、私の社会構造論が役立っているのかもしれません。

2017.3.11 見浦哲弥

posted by tetsu at 08:48| Comment(0) | 見浦牧場の足跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする